歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫

2022-05-12 19:05:22 | 私のブック・レポート
≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫
(2022年5月12日投稿)

【はじめに】


 今年のゴールデンウィークは、コロナ禍ということもあって、自宅で小説を読んで静かに過ごした。
 今回と次回のブログでは、童門冬二氏の次の2つの小説を紹介してみたい。
〇童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]
〇童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

 渋沢栄一(1840-1931)といえば、昨年2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、「資本主義の父」として知られる、日本を代表する経済人である。そして、2024年度(令和6年度)発行予定の新1万円札の顔となる人物である。
 小説家童門冬二氏は、どのように渋沢栄一を描いているのか?
 この点に焦点をあわせて、この小説を紹介してみたい。
 



【童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)はこちらから】
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)



童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]

【目次】
・攘夷派からの大旋回
  平岡円四郎との出会い
  攘夷派から一転して開国派へ
  一橋慶喜への大胆な進言
・人間渋沢の誕生
  藍の買いつけで見せた非凡さ
  日本の地下水脈を発見
・動乱の京都で
  故郷、血洗島への凱旋(がいせん)
  民衆を苦しめる武士への怒り
  親兵募集で実力を発揮
・西郷との暗闘
  大実業家の片鱗(へんりん)
  日本の進むべき道はいずれか
  慶喜の真の黒幕
・幕府倒壊
  胸を打った近藤勇の言葉
  万国博覧会使節としてパリへ
  金融制度の重要さを実感
  冷静な対応
・維新後の雌伏(しふく)
  慶喜のいる静岡へ
  “実業の道”への決意
  商法会所の頭取として新政府に貢献
  「士魂商才」の精神
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
  大隈重信のたくみな誘い
  大蔵省で大改革を敢行
  実業家の資質とはなにか
  渋沢栄一、その精神の原点
  今よみがえる渋沢の心
あとがき
解説 末國善己




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・文芸評論家の末國善己氏の解説
・登場人物
・童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード
・栄一の考えた「共力合本法」
・渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
・渋沢栄一の「万屋主義」




文芸評論家の末國善己氏の解説


童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)は、渋沢栄一についてどのように描いているのか。
文芸評論家の末國善己氏は解説(258頁~265頁)において、次のように捉えている。
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』は、栄一の前半生に着目することで、二つの謎を解き明かし、現代人は渋沢から何を学ぶべきなのかを描いている。
その二つの謎とは、
①なぜ栄一は誰からも一目置かれる官僚ではなく、実業家の道を歩み民間活力の育成に尽力したのか?
②なぜ栄一だけが、資本主義のシステムを日本に輸入し、根付かせることができたのか?
 そして帝国主義の時代にあって、なぜ栄一は、金を稼ぐためなら手段を選ぶ必要はないという強欲を批判し、商業活動には高い倫理観が必要という思想(いわゆる「論語とソロバン」)を構築することができたのか?
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、259頁~260頁)

ところで、2024年を目処に発行される新1万円札に、“日本の資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一の肖像を使うことが発表された(2019年4月)。
末國善己氏は、その渋沢栄一について次のように捉えている。
〇渋沢は、最後の将軍・徳川慶喜に仕えた幕臣
〇1867年のパリ万博に将軍名代として出席した慶喜の異母弟・昭武(あきたけ)の随員としてフランスに渡る
⇒そこで最先端の産業と経済システムを目の当たりにする
〇大政奉還により帰国し、静岡で謹慎している慶喜を支え、フランスで学んだ経済理論を活かして、1869年1月に、日本初の合本(株式)組織「商法会所」を設立した
〇同年、1869年10月には、大隈重信の説得で、大蔵省(現在の財務省と金融庁)に入る
⇒全国測量、度量衡の改正、会計に複式簿記を用いる簿記法の整備、新通貨を円とする貨幣法と江戸時代に各藩が発行していた藩札と円を引き換える藩札引換、国立銀行条例の実施などに尽力
(生まれたばかりの近代国家・日本の財政制度の構築)
〇しかし、予算編成をめぐって、大隈重信、大久保利通らと対立し、1873年に井上馨らと下野
 それ以降は、次のような現在も続く大企業の設立や経営に携わり、その数500以上とされる
 ・大蔵省時代に設立を主導していた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任
 ・東京瓦斯(ガス)(現在の東京ガス)
 ・東京海上火災保険(現在の東京海上日動火災保険)
 ・王子製紙(現在の王子製紙、日本製紙)
 ・田園都市(現在の東京急行電鉄)
 ・秩父セメント(現在の太平洋セメント)
 ・帝国ホテル
 ・麒麟(キリン)麦酒(現在のキリンホールディングス)
 ・サッポロビール(現在のサッポロホールディングス)
 ・東洋紡績(現在の東洋紡)
 ・大日本製糖など
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、258頁~259頁)

童門冬二氏の「あとがき」


童門冬二氏は「あとがき」において、次のようなことを述べている。
〇幕末の思想家横井小楠
〇渋沢栄一
二人とも「道」の問題を唱えたと理解している。


童門氏が、改めて渋沢栄一を書いたのは、「経済界における道の復活」の小さなきっかけが得られればと思ってのことであるという。
(企業経営家だけでなく、日本人全体が努力すべきだとする)

二宮金次郎の報徳の考えを、童門氏なりにメモしている。
「分度・勤労・推譲・至誠」の考えは、経済界の一つの指針になるだけでなく、それは日本の国そのものの歩み方にも何がしかを示唆してくれるという。
(同時にまた、日本人一人ひとりの生き方の問題にもなってくれる)

童門氏は、この本で、渋沢栄一の前半生に主力を注いでいる。
その理由について、次のように記している。
明治の大実業家渋沢栄一を理解する、よすがになるのは、少年時代から青年時代、そして壮年時代に得た渋沢の、いわば「実業家としての心の核」が何であるかを追求することであると、童門氏は考えたからである。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、256頁~257頁)

登場人物


渋沢栄一


・栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子
・もともと栄一には、家を継いで、農業や商業に精を出す気はまったくない。
 憂国の志士気取りで、国家の役に立ちたいという気持ちで一杯だった。
(ただ、100両の金をもらうと、気が大きくなり、栄一は豪遊して、金は底をついてしまう)
・江戸の牢に放り込まれた尾高長七郎のこともあり、京都に着いても、不安な思いで、花街で遊んで忘れようとつとめていたある日、一通の手紙が届く。差出人は平岡円四郎である。
 翌日、栄一と喜作は、一橋の陣屋に、平岡を訪ねた。そこで、平岡は一橋家に仕えてみないかと二人の説得工作を行なった。
 円四郎は老練な人間だから、慶喜様と二人をそれとなくお目にかかる方法を取った。
 慶喜様は、毎朝早く、下賀茂(しもがも)から松ヶ崎(まつがさき)辺りまで、ご乗馬をなさるから、それを途中で待ち構えていて、慶喜様の馬を追いかけるという。
 当時かなり太っていた二人は、これを実行に移し、何とかお目通りがかなう。
(「平岡円四郎との出会い」より、16頁~21頁)

・「日本資本主義の父」
・武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、幕末には過激な尊王攘夷青年となっていた。
・平岡円四郎との出会いが彼の運命を変える。
 一橋慶喜の家臣となり、その本質を捉えたぶれない判断力と交渉力でめきめきと頭角を現していく。
・パリで学び帰国した後は士魂商才を掲げ、「論語とソロバン」の精神で、五百を超える事業に関わる。
・現代に通じる経済の礎となった男の生涯

【栄一の性格について】
・栄一は、武蔵国の豪農の生まれだから、金に困ったことはない。
 そういう意味で、栄一は本当の貧乏の味を知らない。
 (金がなくなっても、何とかなるさというようなお坊ちゃん的気質がまったくなかったとはいえない)
 が、半面からいえば、それが栄一の強みでもあった。
 したがって、栄一はどんな窮況に陥っても卑しい行為はしなかった。
 借りた金も、一橋家に仕えるとすぐ勤倹節約して返した。
 そういうけじめをつけていた。
 (「動乱の京都で」より、77頁)

・栄一は徳川幕府が倒れたといっても、別に悲しんだり、怒ったりはしない。もともと武士が嫌いだからである。
 武士が思うままに政治の実権を握り、農工商の三民を虐げてきたのは300年にも及んでいる。そのために、栄一もしばしば嫌な思いをした。
 (栄一の場合は、まだ家が豪農だったから多少の防壁にはなったが、貧しい農民たちの虐げられ方に対しても、義憤を感じ、だからこそ、尊王攘夷論を唱え、討幕運動に邁進した。)
・しかし、方向が狂って、たまたま一橋家に仕えるようになった。 
 まわりは全部武士である。そうなると、やはり環境のせいで栄一の武士の精神がまったく影響しなかったとはいえない。むしろ、栄一の方が他の幕臣と比べて、「武士道」あるいは「士魂」を持っていた。

※栄一は「武士道」あるいは「士魂」というような精神を植えつけたのは、いうまでもなく父と、一族の尾高惇忠だと、童門氏はみる。とくに尾高惇忠の影響は強い。
(武士道といい士魂といっても、栄一の受け止め方はあくまでも「人間の道」すなわち「道徳」ということである。「人として、歩まなければならない道と、踏み外してはならない道」の存在である。栄一は、死ぬまでこれを守る。)
(「維新後の雌伏」より、174頁~176頁)

栄一の父、美雅


・栄一の父は、美雅(よしまさ)といった。(晩香という号を持つ雅人だった)
・美雅は、もともと渋沢本家の出ではなく、分家の出身だった。
・養子に来て本家を継いだという遠慮もあってか、かなり几帳面に仕事をした。
(金銭の扱いについても、決してないがしろにしなかった)
・栄一が京都に行こうとした時には、父親から100両の金をもらっていた。
 (世間体があるから、表面は、栄一を勘当したことにした)
(「平岡円四郎との出会い」より、15頁~16頁)

平岡円四郎


・出会いは、人間の運命を変える。
 平岡円四郎に会ったことによって、渋沢栄一は二つの変革をしたと、童門氏は捉えている。
①思想的な変革~それまでの過激な尊王攘夷青年から、進取開国の思想家へ
②自己の能力の認識
 ~「この才能を駆使して生きていこう」とは思わなかった“理財”に関する能力を掘り起こした。
(栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子だったから、子供の頃は、祖父について藍の買い出しにも出かけて、かなりの商才を示した。もちろん経営について、まったく認識がなかったわけではないのだが)

・栄一が会った時の平岡は、一橋慶喜(その頃、慶喜は京都にいて、禁裏守衛総督[きんりしゅえいそうとく]をつとめていた)の用人だった。
 平岡はもともとは一橋家の人間ではない。れっきとした幕臣。

・円四郎は、岡本忠次郎の四男。
  岡本忠次郎は、近江守に任官し、勘定奉行もつとめた。
 しかし、銭勘定よりも、むしろ外交文書の作成で能力を示した。
(とくに、対朝鮮関係の文書の作成や、あるいは朝鮮から来た使者との対応には、名外交官ぶりを示した)
  忠次郎は、川路聖謨(かわじとしあきら)と仲が良かった。
  嘉永3年(1850)8月27日に、83歳の高齢で死去。

・平岡円四郎は、はじめは学問所の幹部だった。
 (ある時、「武術を修業したい」といって、学問所から退いた)
 かねてから、この円四郎に目をつけていたのが、川路聖謨だった。
 知人の藤田東湖から、「藩公のご子息慶喜様が、一橋家の養子になられたが、誰かいい補助者がいないか」といわれ、川路は平岡円四郎を推薦した。こうして一橋慶喜の家臣になった。
※一橋慶喜は、のちに徳川最後の将軍になるが、背後にブレーンが3人いた。
 ①平岡円四郎 ②黒川嘉兵衛(くろかわかへい) ③原市之進
・この3人のブレーンのうち2人が暗殺される。
 平岡が殺されると黒川がその後を追い、黒川が失脚すると原市之進がその後を継いだ。
・3人のブレーンが知恵をつけていた間の一橋慶喜は、日本のトップ層としてそれなりに政治を主導した。しかし、ブレーンたちが倒れてしまうと、生彩を失う。
 そしてついに幕府をつぶしてしまう。

・当時過激な尊王攘夷青年であった栄一が、なぜ、平岡と遭遇したのだろうか。
 栄一が円四郎に出会ったのは、23歳の頃。文久3年(1863)11月のころである。
 この頃、栄一は、自分なりに、幕府から追われていると思い込んでいた。
 従兄弟(いとこ)の渋沢喜作という同行者もいた。
 栄一や喜作は、従兄弟の尾高惇忠という地元の学者に、子供の頃から学問を習い、影響を受け、尊王攘夷論になっていった。
(「平岡円四郎との出会い」より、9頁~21頁)


西郷吉之助


・西郷は、死んだ薩摩藩主島津斉彬の愛弟子(まなでし)だった。
 西郷が若く、島津斉彬が生存していた頃、いま(第二次長州征討後)、西郷が口にしている案が実現される寸前にあった。いわゆる「公武合体」という考えである。
(公というのは天皇と公家と京都朝廷のことである。武というのは、大名によって象徴される武士と、武家政権である幕府を指す。)
 公武合体というのは、朝廷と幕府が一体となって、国事にあたろうということである。
(「西郷との暗闘」より、107頁)

原市之進


・第二次長州征討軍の総指揮をとった徳川家茂は病弱だった。
 戦争最中の慶応2年(1866)7月20日に、急死した。
 そうなると、相続人は誰にするかが大問題になった。
 老中からも慶喜に正式な要請が来た。
・慶喜は迷い、ブレーンの原市之進や黒川嘉兵衛、それに栄一たちを呼んで意見を聞いた。
 その頃の一橋家では、原市之進がメキメキ頭角を現し、いつの間にか黒川嘉兵衛を追い抜いた。
・原市之進は、慶喜の父徳川斉昭のブレーンだった藤田東湖の親戚に当たる。学者である。
 水戸家での人望も厚かった。
 頭も鋭いし、度胸もある。
(それが、処世術一方の黒川を追い抜いた。栄一も、原には一目置いた。原の方も、栄一の才能を認めて尊重していた)
(「西郷との暗闘」より、109頁~110頁)
・慶喜のブレーンだった原市之進も、栄一がパリに出発して間もなく暗殺された。
 (「幕府倒壊」より、168頁)

童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード


童門氏の小説には、「地下水脈」というキーワードが頻繁に出てくる。これが渋沢栄一像を形作っている。

〇「人間渋沢の誕生」の「日本の地下水脈を発見」(50頁~54頁)に、最初に「地下水脈」という言葉が出てくる。
・世の中の動きを見つめるのによく使われる言葉が、「潮流」あるいは「世論」である。
 しかし、栄一は、この潮流や世論に、そのまま従うことはなかった。
(逆にいえば、潮流や世論をそのまま鵜吞みにしなかった)
〇栄一には幕末の潮流や世論の底に流れている、もう一つの別な流れが見えていた、と童門氏は捉えている。
 つまり、潮流や世論の底に、ヒタヒタと静かな音を立てて流れている、地下水脈のようなものを発見したという。
・栄一が、それまでの過激な尊王攘夷論から、平岡円四郎の仲介によって、開国国際化論に傾いていくのは、栄一にすれば、別に転向でも裏切りでもなかった。

※地下水脈の方向は、単純な尊王攘夷論とは違っていた。
 また、ただいたずらに欧米に追随する開国論とも違っていた。
 日本人が、日本人のよさを保ちつつ、国際社会に乗り出していくような道筋を、その地下水脈ははっきりと示していた。
⇒その地下水脈に気づかせたのは、一橋家の用人平岡円四郎だった。
 円四郎が栄一という人間の中に見抜いた「理財に対するすぐれた能力」がそれである、と童門氏は理解している。

※ただ、その大恩人である円四郎は、元治元年(1864)6月16日の夜、暗殺されてしまう。
 暗殺者は水戸藩士。
 円四郎が、度量が大きく、開国論も受け入れるほどの器量人だったために、尊王攘夷論で固まった水戸藩士たちは、「円四郎が一橋慶喜様を誤らせている」と短絡した。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、53頁~54頁)

〇「動乱の京都で」の「故郷、血洗島への凱旋」(55頁~69頁)にも、出てくる。
・京都禁裏守護総督一橋慶喜の家臣として、栄一は、関東地方から王城を守護する有志を募り、50人の人々を集め、喜作と共に再び京都に向かった。
 関東にいた時、栄一は、水戸天狗党の蜂起の話を聞いた。
 藤田東湖の息子小四郎(こしろう)や、水戸家の武田耕雲斎(たけだこううんさい)、そして田丸稲之右衛門(たまるいなのえもん)たちが首謀者となって、60余の人間が筑波山山頂で、反乱の旗を掲げた。(天狗党は数カ月で、およそ700人に膨れ上がった)
 水戸家では、幕府に討伐応援の軍勢を求め、幕府もこの反乱を重視して、すぐ関東近辺の諸藩に出兵を命じた。

・栄一は、こういう反乱が成功するとは思っていなかった。
 怜悧(れいり)な栄一は、ただ反乱を起こすだけでは駄目で、政権を手にした時に、どういう政治を行なうかという見取図がなければ、人々はついてこない。この天狗党の反乱は、宙に浮いた砂上の楼閣にすぎない。
⇒この栄一の予測は当たる。

※栄一がこういう考えを持ったのは、やはり一般に時の流れとか、世論とかいわれるものの底で、別な流れ方をしている地下水脈を、しっかりと感じとっていたからである、と童門氏は捉えている。
 その地下水脈こそが、本当に日本の世の中を変えていく力である。

※そういうクールな地下水脈の流れを知る栄一にとっても、間もなく耳にした平岡円四郎の暗殺はこたえた。
 栄一にとっては平岡円四郎の存在は、単なる上役ではなく、師でもあった。
 平岡亡き後の一橋家の用人筆頭は、黒川嘉兵衛だったが、優秀な人物ではあるが、平岡ほどの器量はなく、一まわり小さい人物である。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、65頁~69頁)

〇「動乱の京都で」の「民衆を苦しめる武士への怒り」(70頁~81頁)にも、出てくる。
・栄一は、一橋家の御用談所下役として、京都の花街に出没し、他大名家の京都留守居役たちと親交を深め、情報を得た。
 この天狗党事件の時に、「薩摩藩は油断がならない」ことを知った。
 西郷吉之助が、腹心の中村半次郎(のちの桐野利秋)を、天狗党に派遣していたことを知る。
⇒栄一は西郷という人間の底知れぬ恐ろしさに身震いし、薩摩藩は、やがて幕府を倒す側にまわるのではないかと予感したようだ。

※世の中で普通の人間たちが持つ潮流とは別な流れが、この世に存在しているということを、栄一はよく知っていた。
 うわべの潮流とは別な流れである地下水脈が、実は本当に世の中を動かしているのである。
 政治や社会の運動法則は、実をいえば、こっちの地下水脈にある。
(それはあくまでも底の方でひっそりと流れ続けている。が、絶対に妥協はしない。自分なりの原則を持って流れ続ける。)
⇒それを栄一は凝視していた。

※西郷吉之助といえば、その頃、京都御所に発砲した長州を征討する軍の参謀を命ぜられていた。
 だから、誰が考えても薩摩藩も西郷吉之助も、幕府に対して協力的な姿勢を率先して示しているように見える。
・が、栄一はそれを信じなかった。
 栄一は、そういう表面上の潮流とは別に、地下水脈を凝視した。
 「薩摩藩は、決してそんな存在ではない。西郷吉之助も、世上でいわれているような人物ではない。もっとも恐ろしい存在だ。」と考えていた、と童門氏は想像している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、74頁~76頁)

〇童門氏は、「武士の論理」「歴史の法則」について、次のようなことを述べている。
・栄一からすれば、水戸天狗党の乱も、あるいは「武士の論理」に基づいた行動だと思えたのかもしれない。
 「どこに民衆がいるのだ? 農民がいるのだ?」という思いがあっただろう。
 「自分たち武士の意地を貫くために、藩内が真っ二つに割れた。尊王攘夷と口にはしても、結局は武士同士の争いではないか」
⇒栄一が凝視していた、現世の潮流や、世論とはかかわりなく、底の方を静かに流れている地下水脈というのは、そういうことではなかっただろうか、と童門氏はいう。
 つまり、「武士の論理」とは別な運動法則に目を向けていた。
それは運動法則というよりも、栄一にとってはむしろ「歴史の法則」だったに違いない、という。
・栄一が見つめる「歴史の法則」とは、「主権」をどんどん下に下ろしていくというものだ、と童門氏はみる。
 つまり、帝から武士へ、武士から民衆へ下ろしていくのである。
 やがては一般の庶民や農民が、主権者となって日本の政治を行なう時代が来るに違いない。また、そうならなければならない、そうさせるのが、歴史の法則だ、と栄一は思っていた。
 このように、童門氏は栄一像を理解している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、78頁~79頁)

〇「西郷との暗闘」の「日本の進むべき道はいずれか」(104頁~114頁)にも、出てくる。
・元治元年(1864)に京都御所に突入した長州藩は、孝明天皇の命令によって討伐軍を差し向けられた。第一次長州征討である。
(しかしこの時長州征討軍の参謀だった西郷吉之助の判断によって、長州藩には比較的軽い刑罰が与えられた。)

・その後、再び長州征討軍が起こされた。
 第14代将軍徳川家茂(いえもち)が直接指揮をとるために大坂城に下り、戦争になった。
 しかし、四つの国境から攻め込んだ幕府軍は、四つの国境ですべて負けた。長州全土を挙げた藩軍の活躍はめざましかった。
 長州藩は、「武士は役に立たない。本当に戦争に強いのは、農民や庶民だ」ということを実証した。

・この話を聞いて、栄一の胸の中は複雑だった、と童門氏は述べている。
 栄一は、はじめから農民の立場に立っている。武士が嫌いだ。
 士農工商の身分制も、頭の中では否定してきた。
 それを、こともあろうに幕府に盾ついた長州人が実行して見せたのである。

・栄一は、自分がじっと凝視してきた、一般の世の中の潮流や世論とは別な地下水脈の流れが、正しかったことを改めて知った。
 世間でいわれる、“世の中を変える運動法則”よりも、ヒタヒタと静かに流れてきた“地下水脈の運動法則”の方が、はるかに強かったのである。
 栄一はしみじみと思った。
(この地下水脈の運動法則が、やがて日本を変えるだろう)
※一次、二次にわたる長州征討のことで一橋家の代表として、栄一はしばしば薩摩藩の西郷吉之助に会った。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、104頁~106頁)

〇「西郷との暗闘」の「慶喜の真の黒幕」(115頁~124頁)にも、出てくる。
・栄一には信念があった。
 それは、すでに薩摩藩のような外様大名家においてでさえ、西郷吉之助のような考えを持つ人物が出てきている。
 他にもいるだろう。そうなると、すでに一個人の意見ではなく、そういう世論がつくられつつあると見ていい。
⇒それが、栄一がずっと見つめてきた、例の“地下水脈の法則”だ。
 うわべの潮流や世論を越えて、次第に地下水脈の法則が上層部に上がってきたのだ。これは無視できない。
 そして、その地下水脈の法則に従うことが、一橋家を誤らせない活路なのだと考えた。

※しかし、「日本に共和制を導入して、有力な大名連合をつくり、その議長に一橋慶喜が就任すべきだ」という意見は、慶喜と原市之進に大きな関心を持たせた。
 現状は閉塞状況だ。
 打開するには、二つの道しか考えられない。
⇒それは、あくまでも幕府の権威を強めて、たとえば長州藩を徹底的にたたくことだ。
 もう一つは、朝廷の支配下に入ってしまうことだ。天皇に忠節な徳川家になり代わることである。
 が、そのどちらも割り切れないものがある。
〇栄一が示した意見は、第三の道だ。西郷の考えている“共和制”を利用することだ。

栄一は、慶喜に、有力な大名連合の議長をつとめる存在になってほしいと考えていたようだ。
(いま慶喜の取り得る道は、この第三の道以外にないと考えた。
 雄藩会議のイニシアティブを取るのは、あくまでも徳川一門の一橋家だということを実行しようとした)
栄一のこの時の意見は、慶喜の心を動かしたようだ。
 その意味では、「慶喜の真の黒幕」は栄一だといっていい、と童門氏は想定している。

※ところが、黒川嘉兵衛、あるいは原市之進たちは、一橋慶喜の黒幕だといわれたにもかかわらず、栄一はそういわれたことはあまりない。なぜだろうか?
⇒これは、栄一の人柄によった、と童門氏はいう。
 円満で、あまり敵をつくらない栄一は、それだけで相手に警戒心を持たせなかった。つまり、頭はいいけれど、好人物だというようなイメージを持たれていたと想像している。
(頭の鋭さを、鋭い姿勢で示さなかった。そのため、敵もできないし、逆にいえば、多少安心したつきあいができた。
 だから、情報もどんどん入ってくる。それを、栄一は胸の奥底にしまった。そして、発酵させる時を急いで利用するようなことはしない。)

※世の中の表面の潮流や世論によって、栄一は軽挙妄動しなかった。地下水脈の法則を、じっと凝視し続けた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、116頁、122頁~124頁)

〇栄一のせりふの中の「地下水脈」という言葉
・童門氏は、この“地下水脈”について、栄一のせりふとして会話の中に盛り込んでいる。
それは、昭武のパリ留学からの帰国の旅路の時である。

・昭武のパリ留学中、昭武の長兄である水戸藩士慶篤侯が急死し、相続人に昭武を指名したので、昭武は帰国することにした。
・栄一は帰りの旅路で、寄港する度に日本の噂を聞いた。
 幕府海軍の指揮者だった榎本武揚(えのもとたけあき)が、オランダ留学から戻って幕府艦隊の指揮を取っていたが、江戸湾から脱走して箱館にこもっている。
榎本は箱館で独立共和国のようなものをつくったという。

※栄一は、(そんなことは夢で、おそらく実現されない)と感じた。
 共和、共和といってはいるが、底が浅い計画で、しっかり地についた展望の青写真があるとは思えなかったからだ。所詮、徳川脱走兵のつくった砂上の楼閣にすぎない。

・上海のホテルでは、ドイツ人の武器商人スネルと、通訳の長野という男に、栄一は会った。その際に、長野から頼み事を持ちかけられる。
 榎本さんが北海道に旧幕府の政府をつくったが、栄一がお供している徳川昭武様に、北海道に集結した旧幕軍の総指揮をとっていただきたいという。
(昭武様は最後の将軍徳川慶喜様の弟様でもあられますので、もし昭武様が北海道に行ってくださったら、旧幕軍の勢いが一挙に上がり、薩長主体による新政府を打ち倒して、もう一度徳川の天下にすることができるという)

⇒栄一は、即座に断り、その理由として次のように答えた。
「時の流れには逆らえません。私は、かねてから表面上の世の中の流れがつくり出す世論とは別に、世の中の地下をヒタヒタと流れている水脈があることに気づいていました。これからは、その水脈が表面に出ます」
「地下水脈というのは何ですか?」と長野は聞いた。
栄一は、また答えた。
「政治に対する主権が、どんどん庶民の手に移っているということです。もう武士の時代ではありません。失礼ながら長野さんのお考えは、昔の武士の夢を追っておられる。私はもうごめんです。私は、武蔵国の農民の出ですから、武士万能の世の中には、ほとほと愛想をつかしているのです……」

・それから栄一が日本に帰り着いたのは、明治元年(1868)11月3日のことであった。
 栄一は、横浜港で、旧知の杉浦愛蔵が迎えに来てくれているのを見た。徳川昭武については、水戸家から迎えが来ていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、161頁~165頁)

栄一の考えた「共力合本法」


「維新後の雌伏」の「商法会所の頭取として新政府に貢献」(192頁~202頁)には、次のようなことが述べられている。

・新政府は、諸藩に対して、「石高拝借」という制度をつくった。
政府が太政官札(だじょうかんさつ)と呼ばれた金札を発行して、政府の財政の助けとし、同時に諸藩の財政をも助けようという策だった。
発行した紙幣を、大名の石高に応じて政府が貸しつけ、やがて返還させるという方法である。
静岡藩にも70万両の紙幣が割り当てられた。
この使い道について、藩庁首脳部は、渋沢の意見を聞いた。
栄一は、外国で学んできた国の財政、あるいは地方の財政について、一つの考え方をまとめ、「共力合本法」という方法を提案した。

・「共力合本法」とは、次のようなことである。
一、政府から貸しつけられた金札を、基金にする。
一、しかし、これだけではなく、静岡地方には今川家の支配以来、後北条氏(ごほうじょうし)の支配を経て、徳川家康がここに隠居した頃を含めて、商人が保護され商業が発達した。今川時代には、駿府の商人たちが、年貢の徴収の代行まで行なっていたという。そういう伝統があるので、静岡は一面商人の町でもあった。支配者は代わっても、この商人は蓄積した資本を持っている。そこで、この静岡の商人が持っている地方資本を、藩の基金に加える。つまり合本だ。
一、この基金を基にして、地域の産業振興をはかり、付加価値を加えるような製品開発をする。それを他国に売り出し利益を上げる。
一、この利益の中から、政府への借金を返す。
一、基金の運営には、藩庁の役人だけでなく、静岡の地域商人も加える。
一、そのために、この基金を運営する組織をつくる。この組織をたとえば「商会」と呼ぶ。

〇この考え方の底には、大事なことが一つあるという。
 「たとえ商業といえども、一人の力はたかが知れている。
  また、独断に走ると、必ずしも相手の幸福を促すようなことにはならず、逆に相手を苦しめる場合がある。これは道に悖る。これを避けるためには、商人が共同体を組織して、手を取りあって運営していくことが必要なのだ」

 つまり、栄一が信念としている「道徳と経済の一致」すなわち「論語とソロバンの一致」を実現するためには、一人ではなく、商人が共同組織をつくって運営することが必要だという。

 栄一は、のちに数百の会社を興したり、商法会所(現在の商工会議所)をつくったりする。
 そのため、「渋沢栄一は、組織づくりの名人」といわれた。
 栄一は天才的なオルガナイザー(組織者)であった。そういうリーダーシップを持っていた。
(ただ、栄一は強引なリーダーではなく、あくまでも、理で相手を説得し、納得させた上で参加させるという方法をとった)
※栄一にすれば、自分の案は、外国で学んだ経済理論をそのまま移行して、日本の経済の近代化をはかることであった。そして、これにいくらか日本的特性を加味しようとした。

・栄一は、静岡の紺屋町(こうやまち)というところに事務所を設け、「商法会所」という看板を掲げた。
 12人の静岡商人に「用達(ようたし)」という辞令を出し、商会員とした。
 商会の仕事は、いまでいえば銀行と商社を一緒にしたようなものだった。総取締は頭取の栄一である。
 仕事の内容は、商品抵当の貸付金、定期当座預金、地方農業の奨励のため他国から農民を招いて、農耕資金を与える、あるいは、茶の生産を拡大する、また外国で評判のいい生糸生産を奨励する、などである。
 元資金は、政府から借りた太政官札と、地域商人たちが供出した資金である。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、196頁~199頁)

留守政府の財政を預かる栄一は、次の三点を力説しつづけた。
一、政府予算における、「入るをはかって出ずるを制する」という原則の徹底。
一、国立銀行の創設。
一、貨幣制度における兌換(だかん)制度の採用。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、229頁)

【補足】「入るを計って出ずるを為す」という原則~鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』より


鹿島茂氏は、『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版]において、「入るを計って出ずるを為す」という予算原則について言及している。
「第三十四回 大蔵省を去る」の【「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題】と題して、次のようなことを述べている。

・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介した。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。

・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。

・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
 その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
 (三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)

〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
 このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
 というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)

⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
 そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
 当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
 明治4年9月下旬のことだった。

(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)

【鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫はこちらから】
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)


渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」


「維新後の雌伏」の「慶喜のいる静岡へ」(170頁~183頁)において、渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」について書かれている。

栄一の実業の理念は、「道徳と経済の一致」。これはまた人生信条でもあった。
「道徳と経済の一致」という理念の表し方は、「論語とソロバンは一致させなければならない」といういい方によって、他者に伝えられた。

栄一は、小さい時から学んだ論語の教えに、深く共感していた。
しかし、中国から伝わった儒学は、経済を軽んじていた。それが職業となった場合、商人を卑しんだ。つまり、「自ら生産しないで、農民や工人(職人)が作り出した品物を、ただ右から左に動かすだけで、利益を得るというのはけしからん」という考え方が、日本でもずっと続いてきた。
とくに、身分制の頂点に立つ武士は、「武士は食わねど高楊枝」といって、金や商人を卑しんだ。そのくせ、商人から金を借りては、踏み倒すような武士もたくさんいた。
商人からすれば、「口先ばかり偉そうなことをいっていて、やっていることは何だ。人の道にも悖(もと)るではないか」という気持ちがある。しかし、だからといって商人の方が金の力だけを借りて、他者に対してふんぞりかえっていれば、それも間違いだ。

そこで、栄一は、いままでは絶対に一致することのなかった、論語(すなわち、商人を卑しむ中国の教え)とソロバン(すなわち経済、転じて商人)の一致をはかった。

渋沢栄一のこの「道徳と経済の一致」あるいは「論語とソロバンの一致」ということを考えていたのは、渋沢栄一だけではなかった。
たとえば、同時代のすぐれた思想家横井小楠(よこいしょうなん)も同じことを唱えていた。
⇒横井は、熊本出身の学者だったが、熊本ではあまり受け入れられず、むしろ越前藩に行って、経済改革に力を貸した。横井の考え方は、「日本は有道の国になれ」ということだった。
・地球上には、有道の国と無道の国がある。いまは無道の国が多すぎるという。
 とくにイギリスがそうだ。イギリスは産業革命によって多くの製品をつくり出すが、生産過剰になって、マーケットを諸国に求めた。その中でも清国を狙ったが、自分の思いどおりにならないと、阿片戦争を起こして、中国の領土に侵入した。あの行為一つ見ても、イギリスは無道の国であるとする。
・一方、日本には、イギリスはじめ列強に対抗していけるだけの武力がない。したがって、急いでそういう力を蓄える必要がある。しかし、だからといって、国際紛争のすべてを武力に頼るのは間違いである。むしろ、日本は道徳を真っ向から掲げ、悪どい列強を反省させ、世界をもっと人の道によって営まれるような社会にすべきだと主張した。

(栄一が、小楠などの説をどこまで承知していたかどうかはわからないが、唱えていることは同じである)

小楠の、「日本は有道の国になって、国際社会に進出すべきだ」といういい方の中には、小楠流の国際貿易論が含まれていた。(道徳を軸にして、国際交易を行なえというのが小楠の主張だった)
〇そして、小楠を顧問とした越前藩は、これを実行した。長崎に越前商会をつくって、外国貿易に乗り出した。その越前藩の中心になったのが、三岡八郎(みつおかはちろう、のちの由利公正[ゆりきみまさ])である。
〇また、坂本龍馬は、小楠の教えを受けて、国際商社をつくった。長崎の海援隊がそれである。
〇海援隊はのちに土佐藩に活用される。その上に乗ったのが、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)である。
〇そして、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が、海援隊の資産と思想を引き継いだ。岩崎は、のちに三菱商会をつくる。それが今日の三菱の基になる。

ところで、横井小楠のいっていた、「日本が有道の国になれ」ということについて、そのよりどころとなった論は、一つは、鈴木正三(すずきしょうさん)という戦国時代から江戸初期に生きた武士出身の禅僧の言葉に遡れると、童門氏はみている。
すなわち、「商いには、有漏(うろ)と無漏(むろ)のものがある。無漏というのは、ホトケの心にそって他人を幸福にする商いだ。有漏というのはホトケの心に反いて、逆に他人を苦しめる商いのことだ。商人は全て無漏を志さなければならない。無漏の商いをすれば、その商いはそのままホトケの心の代行だといえる」と説いた。
日本の近世を開いてきた商人群は、身分的に転落した。これを見た戦国生き残りの鈴木正三は、「商人よ、もっと自信を持て」ということを主体に、このようなことを主張していた。

〇もっと時代が下って、商人に自信を与えたのが、商人の石田梅岩(いしだばいがん)の唱えた「心学」である。
武士に忠義があるように、商人は主人であるお客さんに対して、忠節を尽くさなければならない。商人がお客さんに尽くす忠節というのは、よい品物を、安い価格で提供することであると説いた。

要するに、鈴木正三も、石田梅岩も、商売の初心を説いた。
「商人の行ないは、ホトケの心の代行でなければならない」と鈴木正三はいった。
「商人は、主人である客に、忠節を尽くさなければならない」と石田梅岩はいったのである。

そして、栄一は、「道徳と経済の一致」、つまり「道徳を、中国の儒学で鍛えた武士の精神に求め、商人の知識や技術を外国に学ぶ」ということを考えた。
栄一は、武士精神である「士魂」と、商人の保つべき姿勢との融合をはかった。

江戸時代の商人にとって、必要なのは、読み書きとソロバンだけだという気風が蔓延していた。そしてそれ以上の勉学に進まなかった。
そこに栄一の不満があった。商人も、向上しなければ駄目だ。その向上の一環として、栄一は、「商会」という共同組織を考えた。つまり、商人が一カ所に集まり、共同の目的に進むことによって、お互いに切磋琢磨し、自己学習をし、前へ前へと進んで行く縁(よすが)をここにつくろうとした。
栄一の実現しようとした「和魂洋才」は、次第に「士魂商才」に変わっていったと童門氏は捉えている。「士魂」すなわち武士精神を武器に、官尊(旧薩摩藩や長州藩などの下級武士)に立ち向かおうとした。
栄一が標榜している「論語とソロバンの一致」がその根幹になっている。論語の精神は、江戸時代もずっと武士の間で保たれていた。中国の儒学精神は、まさに武士階級が精神的なよりどころにしていたものである。

栄一は、パリで、高級軍人と銀行家とのやりとりが印象に残っていた。パリの高級軍人は、威張らずに銀行家の意見に謙虚に耳を傾けていた。そして、接する態度も礼儀正しく、銀行家を尊敬していた。
栄一は日本に戻って、「それを日本で実現するのは、やはり士魂商才以外ない」と思ったようだ。
論語とソロバンを一致させる実業家への志が胸の中で湧き立った。

ところで、栄一の「道徳と経済の一致」、砕いていえば「論語とソロバンの一致」という考え方の底流は、よく、イギリスの先覚的経済学者アダム・スミスになぞらえられる。しかし、栄一は別に系統立てて経済学を学んだわけではないようだ。
(持ち前の勘で、栄一は世界のすぐれた経済学者の論を感覚的に身につけていた)
栄一は、「新しい日本において、道徳に一致された経済の発展を実現する」ということを、ひそかに心に期していた。
そして、その基幹として、「銀行」を日本につくろうと考えていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、176頁~182頁、203頁~207頁)

貫き通した「論語とソロバンの一致」


栄一が、実業家になってまず整備しようとしたこと
〇日本の「農工商界」の現状の底上げ(=産業振興)
 産業を振興することが、すなわち日本を富ませることだと思った。
〇同時に、金融面についていえば、銀行を創立すること(=金融機関の整備)
 それまでの金融界は、両替商、蔵元、掛け屋、札差(ふださし)などが支配していた。
 これを、もっと近代的なものに改める必要があった。
※この産業振興と金融機関の整備の底流にある理念が、栄一の言葉を借りれば、「論語とソロバンの一致」であった。
・論語というのは孔子の言葉を、弟子たちが綴ったものである。
 日本でもよく読まれていた。
・しかし、中国から伝わった儒学を、常に肌身離さず学習し抜いたのは、やはり武士である。そのため、この儒学に依拠して、自分の身を慎む姿勢を、「儒教の精神」あるいは「孔子の精神」といった。
・論語やソロバンを一致させるということは、「孔子の精神で、商業を営め」ということであると、童門氏は解釈している。
⇒ということは、
 「多くの人々の利益を志す商売を行わなければならない。自分だけ勝手に、ガリガリ亡者の儲け主義になってはならない」ということである。
(これは、「したがって、商業も多くの人たちと手を取りあって、公益のために努力しなければならない」ということになる。)

※この点、岩崎弥太郎の“一人一業主義”とは距離をおく結果になったと、童門氏は推測している。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、237頁~238頁)

渋沢栄一の「万屋主義」


栄一が関与した会社の数は、約500余りだという。「万屋(よろずや)主義」と栄一は称した。
なぜ栄一が万屋主義と自嘲してまで、いろいろなことに手を出したか。
政府から身を引いて、実業界に打って出た時の日本の状況について、栄一は次のようないい方をしている。

「たとえば、日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売に従い、農といえば大根をつくって沢庵漬けの材料を供しているだけだ。また、工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。また、商店といっても、日本の住民自体の購買力が低下してしまっているから、一製品の販売で、身を立てることはできない。だから、呉服屋が荒物商を兼ねている。酒屋が飲食店を兼ねている。これは、店を維持していく上で、そうせざるを得ないからだ。
 そうなると、やはりわが国の商工界は、まず万屋から出発せざるを得ない。これは、世界的規模についていえば、日本の商工業がとりあえず万屋主義をとらざるを得ないということになる。世の中には、いやそれは間違いで、一人一業主義をとるべきだと頑張る人もいる。確かに、それも理(ことわり)だ。が、こういうことはよほど才幹がなければできない。誰にもできるということではない。誰にでもできるのは、やはり当面万屋主義をとることである」

“万屋主義”といってみても、栄一の主張したことは、単なる兼業主義をいっているわけではない。
栄一は生涯を通じて、その主張するところは変わらなかったようだ。
 一、合本主義
 一、組織主義
 一、商法会所主義

これに対して、「一人一業主義」を唱えたのが、三菱の岩崎弥太郎である。
その意味では、生涯を通じて渋沢と岩崎とはあわなかった。
世間では、一度だけ料亭で顔を合わせたが、その物別れに終わった会見を「三国志の曹操と劉備玄徳が会ったようなものだ」といった。
(童門氏は、むしろ項羽と劉邦の会見だといった方がよいとする)
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、233頁~235頁)






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