≪【補足 その2】中国文化史~『論語』と渋沢栄一≫
(2023年9月17日投稿)
吉沢亮という人気俳優がいる。
この俳優は、映画『キングダム』(原泰久原作、2019年など)で人気を博した。シリーズ1では、秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年、在位:紀元前221年~紀元前210年)になる以前を描いていた。その名もまだ嬴政(えいせい)を名のっている(また嬴政と瓜二つの容姿をした漂の役も演じた)。また、シリーズ2では、呂不韋[佐藤浩市]が登場する。(法家の李斯は、その呂不韋の食客となり、政王に仕える近侍となる)。教科書にもあるように、秦の始皇帝は、法家(李斯)を重用して、法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行なった焚書・坑儒でも知られる。
一方、その吉沢は、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、主人公・渋沢栄一(1840~1931)を演じた。いうまでもなく、渋沢は、名著『論語と算盤』の中で、道徳と経済の一致を説いたことも周知のことである。
ということは、吉沢亮は、儒家思想と法家思想という真逆の思想を信奉した、日中の著名な歴史上の人物を奇しくも演じたことになる。
さて、今回のブログでは、儒教の『論語』などを深く理解する意味で、その渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでみたい。
その際に、次の文献を参考とした。
〇渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]
※鹿島茂先生は、名著『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫、1994年[1998年版])などで知られる、著名なフランス文学者である。なぜ、フランス文学の専門家が、渋沢栄一についての著作があるかといえば、渋沢は幕末(1867年)にパリで行われた万国博覧会に、徳川昭武(将軍慶喜の異母弟)に随行した経験がある。この時の経験を通じて、ヨーロッパ文明に驚き、人間平等主義にも感銘をうけた。この見聞した経験が、渋沢の人生を大きく変えた。
鹿島先生は、『渋沢栄一 上 算盤篇』および『渋沢栄一 下 論語篇』を著して、渋沢栄一の詳しい評伝を記した。上下巻それぞれ500頁をこえる労作である。
その著作で、渋沢栄一の思想については、『論語』と、フランス第二帝政下に普及したサン=シモン主義思想が深く影響を与えたと論じている。その一部を述べてみたい。
(詳しくは、後日、別の機会に紹介してみたい)
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本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
<仁義と富貴>
「罪は金銭にあらず」(135頁~139頁)
余は平生の経験から、自己の説として、「論語と算盤とは一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。もちろん、世に立って政(まつりごと)を行なうには、政務の要費はもちろん、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言うまでもないから、結局、国を治め民を済(すく)うためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬこととなるのである。ゆえに余は、一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。
昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行なわれたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉(せいれん)とか言う美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心掛けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
かつて某新聞紙上にアリストートルの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しておるが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然、仁義の道に外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるため、斯様な過激なる言葉を用いたものかと思われる。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、137頁~138頁)
<仁義と富貴>
「真正の利殖法」(124頁~127頁)
「支那の学問に、ことに千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のような経路を経ている。仁義道徳ということを唱えるにつきては、かかる順序から、かく進歩するものであるという考えを打ち棄てて、すべて空理空論に走るから、利慾を去ったら宜しいが、その極その人も衰え、したがって国家も衰弱に陥った。その末は遂に元(げん)に攻められ、さらに禍乱が続いて、とうとう元という夷(えびす)に一統されてしまったのは、宋末の慈惨(さんじょう)である。ただ、とかは空理空論なる仁義というものは、国の元気を沮喪(そそう)し、物の生産力を薄くし、遂にその極、国を滅亡する。ゆえに仁義道徳も悪くすると、亡国になるということを考えなければならぬ。」
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、125頁)
<仁義と富貴>
「義理合一の信念を確立せよ」(142頁~145頁)
余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不充分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛歎措く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟(こうもう)の訓(おし)えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数を用いるは、仮令(たと)い功業を立て得るも、ただこれ人慾の私(わたくし)にして、聖賢の作処(さしょ)とは天地懸絶(けんぜつ)す」と説き、貨殖功利のことを貶(けな)している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)の儒者によって捏造された妄説に外(ほか)ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊を齎(もたら)しているのであろうか。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、145頁~144頁)
※閩洛派の儒者とは、建陽すなわち閩(びん)の出身であった朱熹、そして洛陽の出身であった程顥(ていこう)・程頤(ていい)をさす。彼らの学を総称して、「洛閩の学」ともいう。
※元和寛永は、江戸時代の元号で、元和(げんな、1615~1624年)、寛永(1624~1644年)をさす。
<算盤と権利>
「仁に当たっては師に譲らず」(225頁~228頁)
基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人ではないように思われる。基督や釈迦とは、全然その成立を異にしたものである。ことに、孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、すでに比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものというべく、両者に相違を生ずることは、もとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には、全然、権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓(ひら)きたいと思う。
論語主義はおのれを律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。しかしてこの主義を押し拡めて行けば、遂には天下に立てるようになるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために、説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を充分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一つの経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々(いろいろ)雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人といっても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐に亘り、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼学を問われた。この問答を集めたものが、やがて論語二十篇とはなったのである。(中略)
しかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とは、ほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では、「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致するといえる言のごとく、この二者も終局の目的は遂に一致するものであろうと考える。
しかして余は、宗教として将た経文としては、耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。こはあるいは余が一家言(いっかげん)たるの嫌いがあるかもしれぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇跡が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇跡がたくさんにある。(中略)
論語にも明らかに権利思想の含まれておることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」といった一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かっては、飽くまでも自己の主張を通してよい。師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているのではないか。独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことができるのである。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、225頁~228頁)
<成敗と運命>
「失敗らしき成功」(299頁~302頁)
支那で聖賢といえば、堯舜がまず始まりで、それから禹湯(うとう)、文武、周公、孔子となるのであるが、堯舜とか禹湯とか文武、周公とかいう人達は、同じ聖賢の中(うち)でも、いずれも皆今の言葉でいう成功者で、生前においては、はやくすでに見るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である。これに反し、孔夫子は今の言葉のいわゆる成功者ではない。生前は無辜(むこ)の罪に遭って、陳蔡(ちんさい)の野に苦しめられたり、随分、艱難ばかりを嘗(な)められたもので、これという見るべき功績とても、社会上にあった訳ではない。しかし千載(せんざい)の後、今日になって見ると、生前に治績を挙げた成功者の堯舜、禹湯、文武、周公よりも、一見その全生涯が失敗不遇のごとくに思われた孔子を、崇拝する者の方がかえって多く、同じく聖賢の内でも、孔夫子が最も多く尊崇せられている。(中略)
眼前に現れた事柄のみを根拠にして、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成(くすのきまさしげ)は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は、確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏は、かえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平について見ても、時平は当時の成功者で、大宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として、全国津々浦々の端においても祀(まつ)られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これかえって真の成功者である。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、299頁~301頁)
※楠木正成(くすのきまさしげ、1294[諸説あり]~1336)
・元弘の乱(1331~1333)で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府倒幕に貢献
・建武の新政下で、記録所の寄人(最高政務機関)に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。
・延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞らと共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害。
※南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受けた。
⇒「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生[けしょう]」、「日本開闢以来の名将」と称された。
・明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。また、湊川神社(兵庫県神戸市)の主祭神となった。
(戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価された)
渋沢栄一は、『論語』のみならず、中国史についても、精通していたようである。
宋代の岳飛と秦檜について、次のように述べている。
<成敗と運命>
「湖畔の感慨」(304頁~305頁)
大正三年の春、支那旅行の途上、上海(シャンハイ)に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州に行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖水があり、その辺(ほとり)に岳飛の石碑がある。その碑から、四、五間ほど離れた処に、当時の権臣、秦檜(しんかい)の鉄像があって相対しておる。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間にはしばしば戦いがあって、金のために宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破って、将に燕京を恢復(かいふく)しようとしたのであるが、奸臣、秦檜は、金の賄賂を納(い)れて岳飛を召還した。岳飛その奸を知って、「臣が十年の功一日にして廃(すた)る、臣職に称(かな)わざるにあらず。実に秦檜、君を誤るなり」と言ったが、彼は遂に讒(ざん)によりて殺された。この誠忠なる岳飛と奸侫(かんねい)なる秦檜とは、今数歩を隔てて相対しておるのだ。如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である。今日岳飛の碑を覧(み)に行った人々は、ほとんど慣例のように、岳飛の碑に対(むか)って涙を濺(そそ)ぐとともに、秦檜の像に放尿して帰るとのことである。死後において忠好判然たるは実に痛快である。
今日、支那人中にも岳飛のような人もあろう。また秦檜に似たる人がないとも言われぬけれども、岳飛の碑を拝して、秦檜の像に放尿するというのは、これ実に孟子のいわゆる「人性善(にんせいぜん)」なるに、よるのではあるまいか。天に通ずる赤誠(せきせい)は、深く人心に沁(し)み込んで、千載の下(もと)、なおその徳を慕わしむるのである。これをもっても人の成敗というものは、蓋棺(がいかん)の後に非ざれば得て知ることができない。わが国における楠正成(ママ)と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆しかりというべきである。この碑を覧るに及んで、感慨ことに深きを覚えた。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、304頁~305頁)
渋沢栄一『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)では、次のように記してある。
第10章 東アジア世界の変容とモンゴル帝国
1 唐の崩壊後の東アジア
【金の華北支配と南宋】
いっぽう宋は、金が燕雲十六州を獲得したことをめぐって、金との同盟関係をつづけることに失敗した。金の大軍によって首都開封は占領され、1127年には、譲位していた徽宗や皇帝欽宗(在位1125~27)など皇族や重臣たちの多くが捕虜として北方につれ去られ、宋は崩壊した(靖康の変、1126~27)。
江南にのがれた徽宗の子の高宗(在位1127~62)は、1127年、宋(南宋、1127~1279)を再興して、臨安(浙江省杭州市)を都とした。しかし、金の攻撃ははげしく、軍事的に勝つ見込みにとぼしかったため、徹底抗戦を唱える主戦派の岳飛(1103~41)をやむなく処刑して、和平派の宰相秦檜(1090~1155)の主導のもとで、ほぼ淮河を境界とし、かつ金に対して臣下の礼をとるという条件のもとで1142年に和議を結び、毎年、多額の銀や大量の絹を貢ぎ物(歳貢・歳幣)として贈ることを強いられた。
※和議の後、両国間の戦争をへて、金と宋の君臣関係は、おじ・おいの関係に改められた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、174頁)
〇渋沢栄一の『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)では、次のように記している。
第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
2 東アジア諸地域の自立化
【宋の統治】
12世紀初め、遼を滅ぼした金はつづいて華北を占領し、都の開封を陥落させて上皇の徽宗(在位1100~25)と皇帝の欽宗(在位1125~27)をとらえた(靖康の変、1126~27年)。そこで皇帝の弟の高宗(在位1127~62)が江南に逃れて帝位につき、南宋(1127~1276)をたて、臨安(現在の杭州)を首都とした。政治抗争の焦点は、金に対する政策へと移り、和平派(秦檜[1090~1155]ら)と主戦派(岳飛[1103~41]ら)との対立の末、結局和平派が勝利をおさめて金とのあいだに和議を結んだ。この結果、淮河をさかいに、北は金、南は南宋という二分の態勢が固まり、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年、銀や絹を金におくることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、162頁)
〇渋沢『論語と算盤』(304頁~305頁)の岳飛と秦檜に関連して、本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)では、次のように記しある。
Chapter 10:Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
■Jin’s Control of North China and the Southern Song Dynasty
While the Song failed to maintain the alliance with the Jin concerning the Jin’s
acquisition of Yanyun Sixteen Prefectures, its capital, Kaifeng, was
occupied by the Jin’s large force invading toward the south.
And in 1127, Huizong, who already abdicated, and the emperor Qinzong, as well
as many of other imperial family members and bureaucratic elites, were captured
and taken away to the north. This resulted in the collapse of the Song dynasty
(Jingkang Incident 靖康の変)
Gaozong, a son of Huizong, escaped to Jiangnan, and placed its capital in Lin’an
(臨安, Hangzhou of Zhejiang Province) in 1127, and restored the Song dynasty
(the Southern Song 南宋). The Song, however, against the Jin, which often attacked
the Southern Song, extended its power to the whole of North China, executed
Yue Fei (岳飛), a chauvinist leader who advocated exhaustive resistance.
But under the leadership of pacifist Chancellor Qin Hui (秦檜), the Song entered
into a peace treaty with the Jin in 1142, which fixed border at the Huai River,
to endure humiliating conditions to become the vassal of the Jin. And the Song was
also forced to donate a large sum of silver and voluminous silk as tribute.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、137頁)
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版])より
「例外だった栄一の「学問のはじめ」」(36頁~38頁)
「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」(38頁~39頁)
・渋沢栄一は、8歳頃から従兄で10歳年上の尾高惇忠について漢籍を学んだと回想している。
当時の一般的な常識からすれば、名主見習であるとはいえ、農民にすぎない栄一の父(晩香)が自ら漢籍に親しみ、子供にもその手ほどきをするということ自体が、むしろかなりの例外に属することだったようだ。
また近在の村に住む従兄の尾高惇忠が、論語や大学・中庸を修めたインテリである。その尾高惇忠が栄一の家庭教師になってくれたことも、同じく大変な例外だった。
それが当時の「当たり前」ではなかったことは、渋沢と同時代人の福沢諭吉の幼年時代の回想に当たってみると、よくわかるらしい。
「私の父は学者であった。普通(アタリマエ)の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。(中略)今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。
私は勿論幼少だから手習いどころの話ではないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いをするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家(ソコ)には町家の子供も来る。そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然(アタリマエ)の話であるが、そのことを父が聞いて『怪しからぬことを教える。幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。こういう所に子供は遣っては置かれぬ。何を教えるか知れぬ。さっそく、取り返せ』と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。」
(『福翁自伝』)
ここから、次のような事実がわかるという。
①福沢諭吉の父は経理担当の下級武士であったが、自分の仕事を嫌い、純粋な学問としての儒学にあこがれていた。
②にもかかわらず、自分で子供に素読を教えるような時間もなかったので、しかたなく、「手習いの師匠」のところに子供を通わせていたが、そこには、町人の子供も来ていて、漢籍というよりも、寺子屋のような「読み書き算盤」が中心だった。
③父は「手習いの師匠」の実利的な教え方が気にいらず、子供を取り返したこともある。だが、父が亡くなってからというもの、諭吉はそうした「手習いの師匠」のところにさえ行けなかった。
・実利的教育を嫌う武士であっても、子供に学識のある専属の家庭教師をつけるような余裕はなく、町人の子供と一緒に「手習いの師匠」のところで、「読み書き算盤」を習わせるほかはないというような事態が、大阪のような大都市でもかなり一般的になっている。しかも、もし福沢家のように、一家の大黒柱が早死にしてしまった場合は、武士の子供といえども、手習いも受けずに放置されたという事実が明らかになる。
・だから、6歳のときから父に素読を受け、その後は専属の家庭教師から漢籍を学んだ渋沢栄一は、当時の農民としては、例外的な学問的環境に置かれていた。
・しかも、その教師が、「手習いの師匠」ではなく、同じく豪農のインテリの従兄であったという点は、この頃の渋沢一族がいかに教育熱心であり、その教育レベルもかなり高かった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、38頁~39頁)
「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」(313頁~315頁)
渋沢栄一がフランス人のヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの対話を観察することで得た官・民平等の認識は、形式や名称ではなく、むしろエートス(共同的倫理観)に近いものだったらしい。
渋沢が、「日本の此有様は改良せねばならぬ」と痛感したのは、江戸時代の「武士と町人・農民」、明治の「官吏と民間人」という官・民の制度上の違いというよりも、金銭に直接触れない「士=官吏」が、金銭にたずさわる「農工商=民間」に対していだく、金銭蔑視の差別感情である。
渋沢にいわせれば、そのエートスは、江戸時代の朱子学からきているという。
日本の儒学や朱子学は、儒学本来の教えとはことなり、本質的に金銭を蔑視する傾向が強かった。だから、それをバックボーンとする徳川の武士階級は、金銭に携わる農工商の階級をさげすみ、逆に、自らの階級を金銭にかかわりないがゆえに尊いものとして、学問を一切、金銭の獲得のための技術から切り離した。
それゆえに、学問を得た武士階級は、実業とは無縁になり、実業に携わる農工商の階級は学問とはかかわりなくなってしまった。
(つまり、金銭というものが、「官・民」を区別する最大の指標となった。)
これは、『論語』の思想に対する誤解に基づく認識であると、渋沢はいう。
なぜなら、江戸の儒学者や朱子学者が、金銭と農工商階級蔑視の根拠とした、孔子の『論語』の次のような箇所は、彼らによって完全に誤読されているからである。
「富と貴(たつとき)とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、其の道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
これに対する、渋沢の解釈は次のようなものである。
「この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじたところがあるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えてみれば、富貴を賤しんだところは一つもない、その主旨は富貴に淫するものを戒められたまでで、これをもってただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚しと言はねばならぬ、孔子の言わんと欲する所は、道理をもった富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である、して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所は更にないではないか、この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく『道を以てせずして之を得れば』という所によく注意することが肝要である」
(渋沢栄一述『論語と算盤』国書刊行会)
〇これは、渋沢栄一の経済思想のみならず、人生哲学の根底を成す「道徳経済合一主義」、俗に「論語と算盤」の思想をひとことで言い切った部分であると、鹿島氏はいう。
・パリで渋沢栄一が目撃したヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの会話は、まさに渋沢が従来の『論語』解釈に対して抱いていた疑問に目の覚めるような解答を与えたものだったとする。
⇒渋沢栄一が、フランスの二人の関係にあれほどのこだわりを見せたのは、渋沢が17歳のときに岡部の代官所で経験した屈辱以来、ずっと自問しつづけてきた金銭と道徳の関係という問題が伏線にあったからこそ、コペルニクス的な転換となりえたと、鹿島氏は理解している。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、313頁~315頁)
「比較的新しかったフランスの官民平等思想」(317頁~318頁)
しかしながら、渋沢栄一が感激したこの官・民の平等というものは、じつは、フランスでも大昔から存在していたのではないと、フランス文学者・鹿島氏は解説している。
それどころか、こうした対等な関係が成立したのは、1789年のフランス革命以後のことにすぎないという。
・それ以前はどうなっていたのかというと、「官」を牛耳る貴族・僧侶階級(第一・第二身分)と、「民」のブルジョワ階級(第三身分)とは截然と区別され、日本の武士と農工商との違いにも等しい金銭感覚の相違が存在していた。
・儒教は金銭蔑視の宗教であると思われていたが、金銭蔑視という面でははるかに強烈なのがキリスト教であるという。
キリスト教は、地上の富よりも天上の富を高く評価する。それゆえ、自分がより天上に近いと思うものほど、金銭を蔑視する。
では、そうしたことができるのは、いったいどんな階層なのか?
それは、働かずして衣食住になに一つ不自由のない生活を送っていた者、つまり、先祖代々ゆずり受けた広大な土地を持つ貴族階級と僧侶階級である。
彼らは、金銭に不自由しないがゆえに、金銭を蔑視し、よりキリストの教えを実践していると思い込むことができた。
・これに対し、ブルジョア階級とは、自己の労働と創意工夫しか資本を持たぬがゆえに、金銭に敏感にならざるをえない階級である。
そして、それは同時に金銭蔑視のキリスト教からは本来排除されるべき階級だった。
しかし、ブルジョア階級が力を持ち出すと、キリスト教のほうでも、金銭に触れているからといって、彼らを排除できなくなる。
・ここで生まれたのが、いわゆるプロテスタンティズムである。
ルターとカルヴァン、とくにカルヴァンのプロテスタンティズムは、金銭とかかわりを持たざるを得ないブルジョア階級が、それでもなおキリスト教の内部にとどまれるようにするために発明された宗教だといえる。
※つまり、刻苦勉励し、金銭を貯蓄することが「天職」として、神の意思に沿うのだとするカルヴァンの教義は、ある意味で、経済と道徳は矛盾するどころか、一致するという渋沢の『論語』理解とよく似たところを持っていると、鹿島氏は見ている。
・もし、渋沢がフランスでこのカルヴァン派のプロテスタンティズムに触れたというのであれば、その影響関係は至って理解しやすくなったはずである。だが、現実には、渋沢がパリで接したのは、このプロテスタンティズムではなかった。
なぜなら、フランスはカトリックの国である。プロテスタンティズムはあっても、ごく限られた階層と地域にしかないからである。
・渋沢の理解とは異なり、現実のフランスは、官僚主義の強い国である。
(つい最近まで、良家の優秀な子弟は、日本と同じように、まず「官」を目指した。「民」に行くのは、エリートのトップクラスではなく、その下のクラスと決まっていた。この点では、フランスと日本は過去も現在もよく似ているという)
・だが、フランスの歴史において、極めて例外的ながら、エリートが「官」ではなく、こぞって「民」を志向した一時期があったそうだ。それが、1852年から1870年にかけての第二帝政であった。なぜなら、ナポレオン3世とそのブレーンの信奉するサン=シモン主義は、「官」を否定し、金銭と直接的に接する「民」、すなわち産業人を全面的に肯定する思想だからであるという。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、317頁~319頁)
「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」(419頁~420頁)
・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」(405頁~418頁)では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介している。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。
渋沢栄一は明治政府に一時期出仕したが、その大蔵省時代についても、みておこう。
・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。
・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
(三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)
〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)
⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
明治4年9月下旬のことだった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)
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鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)
第七章 「論語」を規範とした倫理観
「第六十二回 「論語」と「算盤」」(288頁~301頁)
「儒教の核心は道徳と経済にある」(288頁~289頁)
渋沢栄一は、実業界を引退した後、時間の許すかぎり、講演や談話を引き受け、おのれの信ずるところを公に披露した。
それらは『青淵百話』を始めとする講演・談話集に収録されている。
なかでも『論語と算盤』と題されて出版された講演集は、そのタイトルが示すように、「義利合一(ぎりごういつ)」という、渋沢が一生の信条とした思想が語られているので、注目に値すると、鹿島氏はいう。
すなわち、利潤追求を旨とする企業人においても、道徳(義)と経済(利)は矛盾しないどころか、むしろ、その両者のバランス感覚こそが孔子が『論語』で説く儒教思想の核心であると、繰り返し力説している。
たとえば、『論語と算盤』収録の講演の一つ「罪は金銭にあらず」で、上記の引用のように記していた。
・この部分を、儒教道徳で育った、いかにも明治人らしい、古風な考えだと簡単に片づけてしまってはいけないという。
なぜなら、「論語」と「算盤」の調和というこの思想は、東西の文明が例外的に出会って一つに融合した、「渋沢というメルティング・ポット」から生まれた一種の奇跡といってさしつかえないからとする。
つまり、「論語と算盤」という理念は、儒教で育った明治人に共通するものでは決してなかった。むしろ、渋沢以外の人間には思いつくことができなかった「特殊」な経済思想なのかもしれない。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、288頁~289頁)
「金銭を卑しんだ江戸時代」(289頁~294頁)
われわれは、「論語」と「算盤」の調和という考えなら、江戸時代にすでに一般的になっていたのではないかと想像してしまう。しかし、渋沢によれば、事実はその逆である。
宋から輸入された朱子学の解釈によって、元和・寛永の頃から「論語」と「算盤」は完全に切り離された。儒学を学ぶ武士階級は金銭とはかかわりを持つべきではないとされるに至ったという。渋沢は次のようにいう。
「宋儒程子や朱子の解釈は高遠の理学に馳せ、やや実際の行事に遠ざかるに至れり。我が邦の儒家藤原惺窩(せいか)・林羅山のごとき、宋儒の弊を承けて学問と実際とを別物視し、物徂徠(ぶつそらい、荻生徂徠のこと)に至つては学問は士大夫以上の修むべきものなりと明言して、農工商の実業家をば圏外に排斥したりき。徳川氏三百年の教育は、この主義に立脚したりしかば、書を読み文を学ぶは実業に与らざる士人の業となり、農工商多数の国民は国家の基礎たる諸般の実業を担任すれども、書を読まず文を学ばず無智文盲漢となり終りぬ。(下略)」(『論語講義』)
※これは、儒学者三島中洲との共著というかたちで、数えで84歳のときに世に問うた『論語講義』の総説の一部である。
なぜ、渋沢が『論語』を新しく解釈し直そうと試みたのか、その真意を語っている。
すなわち、「算盤」と調和することこそが『論語』の本質なのであり、「論語」と「算盤」を分離しようとした江戸以来の儒学者の解釈は『論語』を読みちがえている、だからこそ、新たな解釈による『論語』を刊行するという。
では、渋沢が『論語』再解釈の眼目とした教訓はどんなものなのだろうか?
それは主として「里仁篇」の次の教えであるとされる。
「富と貴とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、その道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
これに対して、渋沢は『論語と算盤』収録の「孔子の貨殖富貴観」という講演において、次のような解釈をしている。
(すでに引用)
・富貴を求める欲望、それ自体は、人間ならだれしもこれを持つのは当然であり、孔子はこれを否定してはいない。否定しているのは道義に基づかない手段方法に拠った場合である。
富貴を求める欲望があまりに激しいと、たしかに悪い結果をもたらすことが多いが、しかし、だからといって、富貴を求める欲望そのものを否定してしまっては、人々は働く意欲を失う。
そして、やがては、国全体がうまくいなかくなり、社会は衰亡に向かう。これが渋沢が主張したかったことである。
渋沢は、その例として、朱子学を奉じた宋の国の衰退をあげて、『論語と算盤』の「真正の利殖法」でこう説明する。
(別に引用、原文125頁)
※鹿島氏の引用した版では、「宋末の慈惨」が「宋末の悲惨」とある。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、289頁~294頁)
第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)
「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)
渋沢秀雄は、『父 渋沢栄一』という伝記で、飛鳥山に住むようになってからの晩年の渋沢栄一の日常を「思い出」として随所に挿入している。だから、われわれが「人間渋沢栄一」を知るのには、またとない資料となっている。
渋沢秀雄の筆に拠りながら、等身大の渋沢のエピソードをいくつか、鹿島氏は紹介している。
(その中に、『論語』にある、例の葉公の話が出てくることに注目したい)
渋沢秀雄は、中学五年生の頃、朝食のあとで庭を散歩する父の伴をしたとき、こんな質問をした。
「もし父さまが大石良雄でしたら、吉良にワイロをお贈りになったでしょうか? それとも何もなさらなかったでしょうか?」(『父 渋沢栄一』)
すると、渋沢は「さあ、……むずかしい問題だね」といったきり黙ってしまった。
秀雄は、その沈黙を自分が良い質問をしたしるしだと感じ、いささかの得意を覚えた。
ややあって、渋沢は口を開くと、「ワシが大石良雄だったら、恐らく相当の礼物を贈ったろうね」と言ってから、次のような『論語』の辞句をすらすらと引用した。
「葉公(ショウコウ)孔子ニ語(ツ)ゲテ曰ク、吾党ニ躬(ミ)ヲ直クスル者アリ。其父羊ヲ攘(ヌス)メリ。而シテ子之ヲ証スト。孔子曰ク、吾党ノ直キ者ハ是ニ異ナリ。父ハ子ノ為メニ隠シ、子ハ父ノ為メニ隠ス。直キコト其中ニアリ」
羊を盗んだ父を告発する息子という紅衛兵時代の中国を思わせるような葉公の正直者の定義に対し、孔子は、自分たちの考える正直者というのはそういうものではない。父のためなら罪を子が隠すのは当然だし、子のために父が隠すのもまた当然だ。正直というのはそうした関係にあると答えたのである。渋沢はこの辞句を引いて、次のように結論づけたのである。
「つまり、直きことも人情に適った直きことでなくてはならない。元禄時代に贈賄は法律上の罪ではなかった。そして吉良の貪欲は定評があったらしい。もし贈賄しなければ浅野家に禍がふりかかりそうな予想はついた筈だ。もとより贈賄は武士のイサギヨシとしないところだが、時と場合による。それで一国一城の危急が救えるなら、贈るのが人情であろう。……これが父の解釈だった。父はいつも、子供の質問にも真正面から答えてくれる人だった」(『父 渋沢栄一』)
<鹿島氏のコメント>
※この例からもわかるように、親が子供の質問に真正面から答えるには、込み入って矛盾した倫理の問題にも即答できるような体系的な教えがなくてはならない。
渋沢の場合、それはいうまでもなく『論語』であり、この倫理規範に照らすことによって、すべての問題に答えを用意できた。
・われわれは、戦後、倫理体系としての『論語』を失い、それに代わるものも持ち得ないところから、自信喪失に陥ったといってもいいすぎではない。
〇渋沢秀雄は、渋沢の思考や行動様式がすべて『論語』から演繹されていることを、次のようなエピソードでも示している。
「なんでも克己寮時代と覚えているが、ある日家で父が私に、何かをもっとシッカリ勉強しろといったとき、私は、勉強したところで先が知れているという意味の返事をした。
すると父はいくらかキッとした語調で、
『お前にはみずからを画する悪い性癖がある。自分に見きりをつけるようでは何事も出来ないぞ。その欠点は改めなければいかんよ。』
といった。なるほど私の一生には思い当る節の多い言葉だ。私は最近論語の『雍也第六』で孔子が弟子の冉求(ゼンキュウ)を『今ナンジ画(カク)せり』(画[カギ]レリと読ませる本もある)と戒めているのを発見して、父の言葉がやはり論語から出ていたことを五十年ぶりで知った。その当時は父の論語マニアに何となく反感を持っていた私も、今となっては懐かしく思いだす。『同ジテ和セズ』から『和シテ同ゼズ』の心境に進歩したのかもしれない。時というものは不思議な作用をする」(『父 渋沢栄一』)
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、495頁~497頁)
(2023年9月17日投稿)
【はじめに】
吉沢亮という人気俳優がいる。
この俳優は、映画『キングダム』(原泰久原作、2019年など)で人気を博した。シリーズ1では、秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年、在位:紀元前221年~紀元前210年)になる以前を描いていた。その名もまだ嬴政(えいせい)を名のっている(また嬴政と瓜二つの容姿をした漂の役も演じた)。また、シリーズ2では、呂不韋[佐藤浩市]が登場する。(法家の李斯は、その呂不韋の食客となり、政王に仕える近侍となる)。教科書にもあるように、秦の始皇帝は、法家(李斯)を重用して、法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行なった焚書・坑儒でも知られる。
一方、その吉沢は、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、主人公・渋沢栄一(1840~1931)を演じた。いうまでもなく、渋沢は、名著『論語と算盤』の中で、道徳と経済の一致を説いたことも周知のことである。
ということは、吉沢亮は、儒家思想と法家思想という真逆の思想を信奉した、日中の著名な歴史上の人物を奇しくも演じたことになる。
さて、今回のブログでは、儒教の『論語』などを深く理解する意味で、その渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでみたい。
その際に、次の文献を参考とした。
〇渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]
※鹿島茂先生は、名著『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫、1994年[1998年版])などで知られる、著名なフランス文学者である。なぜ、フランス文学の専門家が、渋沢栄一についての著作があるかといえば、渋沢は幕末(1867年)にパリで行われた万国博覧会に、徳川昭武(将軍慶喜の異母弟)に随行した経験がある。この時の経験を通じて、ヨーロッパ文明に驚き、人間平等主義にも感銘をうけた。この見聞した経験が、渋沢の人生を大きく変えた。
鹿島先生は、『渋沢栄一 上 算盤篇』および『渋沢栄一 下 論語篇』を著して、渋沢栄一の詳しい評伝を記した。上下巻それぞれ500頁をこえる労作である。
その著作で、渋沢栄一の思想については、『論語』と、フランス第二帝政下に普及したサン=シモン主義思想が深く影響を与えたと論じている。その一部を述べてみたい。
(詳しくは、後日、別の機会に紹介してみたい)
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう
・「罪は金銭にあらず」
・「真正の利殖法」
・「義理合一の信念を確立せよ」
・「仁に当たっては師に譲らず」
・「失敗らしき成功」
・渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜
〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう
・第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育
「例外だった栄一の「学問のはじめ」」
「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」
・第二十六回「官」と「民」
「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」
「比較的新しかったフランスの官民平等思想」
・第三十四回 大蔵省を去る
「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう
・「第六十二回 「論語」と「算盤」」
「儒教の核心は道徳と経済にある」
「金銭を卑しんだ江戸時代」
・「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」
「子供の質問に真正面に答える」
〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう
「罪は金銭にあらず」
<仁義と富貴>
「罪は金銭にあらず」(135頁~139頁)
余は平生の経験から、自己の説として、「論語と算盤とは一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。もちろん、世に立って政(まつりごと)を行なうには、政務の要費はもちろん、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言うまでもないから、結局、国を治め民を済(すく)うためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬこととなるのである。ゆえに余は、一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。
昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行なわれたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉(せいれん)とか言う美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心掛けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
かつて某新聞紙上にアリストートルの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しておるが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然、仁義の道に外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるため、斯様な過激なる言葉を用いたものかと思われる。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、137頁~138頁)
「真正の利殖法」
<仁義と富貴>
「真正の利殖法」(124頁~127頁)
「支那の学問に、ことに千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のような経路を経ている。仁義道徳ということを唱えるにつきては、かかる順序から、かく進歩するものであるという考えを打ち棄てて、すべて空理空論に走るから、利慾を去ったら宜しいが、その極その人も衰え、したがって国家も衰弱に陥った。その末は遂に元(げん)に攻められ、さらに禍乱が続いて、とうとう元という夷(えびす)に一統されてしまったのは、宋末の慈惨(さんじょう)である。ただ、とかは空理空論なる仁義というものは、国の元気を沮喪(そそう)し、物の生産力を薄くし、遂にその極、国を滅亡する。ゆえに仁義道徳も悪くすると、亡国になるということを考えなければならぬ。」
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、125頁)
「義理合一の信念を確立せよ」
<仁義と富貴>
「義理合一の信念を確立せよ」(142頁~145頁)
余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不充分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛歎措く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟(こうもう)の訓(おし)えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数を用いるは、仮令(たと)い功業を立て得るも、ただこれ人慾の私(わたくし)にして、聖賢の作処(さしょ)とは天地懸絶(けんぜつ)す」と説き、貨殖功利のことを貶(けな)している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)の儒者によって捏造された妄説に外(ほか)ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊を齎(もたら)しているのであろうか。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、145頁~144頁)
※閩洛派の儒者とは、建陽すなわち閩(びん)の出身であった朱熹、そして洛陽の出身であった程顥(ていこう)・程頤(ていい)をさす。彼らの学を総称して、「洛閩の学」ともいう。
※元和寛永は、江戸時代の元号で、元和(げんな、1615~1624年)、寛永(1624~1644年)をさす。
「仁に当たっては師に譲らず」
<算盤と権利>
「仁に当たっては師に譲らず」(225頁~228頁)
基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人ではないように思われる。基督や釈迦とは、全然その成立を異にしたものである。ことに、孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、すでに比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものというべく、両者に相違を生ずることは、もとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には、全然、権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓(ひら)きたいと思う。
論語主義はおのれを律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。しかしてこの主義を押し拡めて行けば、遂には天下に立てるようになるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために、説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を充分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一つの経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々(いろいろ)雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人といっても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐に亘り、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼学を問われた。この問答を集めたものが、やがて論語二十篇とはなったのである。(中略)
しかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とは、ほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では、「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致するといえる言のごとく、この二者も終局の目的は遂に一致するものであろうと考える。
しかして余は、宗教として将た経文としては、耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。こはあるいは余が一家言(いっかげん)たるの嫌いがあるかもしれぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇跡が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇跡がたくさんにある。(中略)
論語にも明らかに権利思想の含まれておることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」といった一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かっては、飽くまでも自己の主張を通してよい。師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているのではないか。独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことができるのである。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、225頁~228頁)
「失敗らしき成功」
<成敗と運命>
「失敗らしき成功」(299頁~302頁)
支那で聖賢といえば、堯舜がまず始まりで、それから禹湯(うとう)、文武、周公、孔子となるのであるが、堯舜とか禹湯とか文武、周公とかいう人達は、同じ聖賢の中(うち)でも、いずれも皆今の言葉でいう成功者で、生前においては、はやくすでに見るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である。これに反し、孔夫子は今の言葉のいわゆる成功者ではない。生前は無辜(むこ)の罪に遭って、陳蔡(ちんさい)の野に苦しめられたり、随分、艱難ばかりを嘗(な)められたもので、これという見るべき功績とても、社会上にあった訳ではない。しかし千載(せんざい)の後、今日になって見ると、生前に治績を挙げた成功者の堯舜、禹湯、文武、周公よりも、一見その全生涯が失敗不遇のごとくに思われた孔子を、崇拝する者の方がかえって多く、同じく聖賢の内でも、孔夫子が最も多く尊崇せられている。(中略)
眼前に現れた事柄のみを根拠にして、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成(くすのきまさしげ)は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は、確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏は、かえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平について見ても、時平は当時の成功者で、大宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として、全国津々浦々の端においても祀(まつ)られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これかえって真の成功者である。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、299頁~301頁)
※楠木正成(くすのきまさしげ、1294[諸説あり]~1336)
・元弘の乱(1331~1333)で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府倒幕に貢献
・建武の新政下で、記録所の寄人(最高政務機関)に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。
・延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞らと共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害。
※南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受けた。
⇒「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生[けしょう]」、「日本開闢以来の名将」と称された。
・明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。また、湊川神社(兵庫県神戸市)の主祭神となった。
(戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価された)
渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜
渋沢栄一は、『論語』のみならず、中国史についても、精通していたようである。
宋代の岳飛と秦檜について、次のように述べている。
<成敗と運命>
「湖畔の感慨」(304頁~305頁)
大正三年の春、支那旅行の途上、上海(シャンハイ)に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州に行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖水があり、その辺(ほとり)に岳飛の石碑がある。その碑から、四、五間ほど離れた処に、当時の権臣、秦檜(しんかい)の鉄像があって相対しておる。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間にはしばしば戦いがあって、金のために宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破って、将に燕京を恢復(かいふく)しようとしたのであるが、奸臣、秦檜は、金の賄賂を納(い)れて岳飛を召還した。岳飛その奸を知って、「臣が十年の功一日にして廃(すた)る、臣職に称(かな)わざるにあらず。実に秦檜、君を誤るなり」と言ったが、彼は遂に讒(ざん)によりて殺された。この誠忠なる岳飛と奸侫(かんねい)なる秦檜とは、今数歩を隔てて相対しておるのだ。如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である。今日岳飛の碑を覧(み)に行った人々は、ほとんど慣例のように、岳飛の碑に対(むか)って涙を濺(そそ)ぐとともに、秦檜の像に放尿して帰るとのことである。死後において忠好判然たるは実に痛快である。
今日、支那人中にも岳飛のような人もあろう。また秦檜に似たる人がないとも言われぬけれども、岳飛の碑を拝して、秦檜の像に放尿するというのは、これ実に孟子のいわゆる「人性善(にんせいぜん)」なるに、よるのではあるまいか。天に通ずる赤誠(せきせい)は、深く人心に沁(し)み込んで、千載の下(もと)、なおその徳を慕わしむるのである。これをもっても人の成敗というものは、蓋棺(がいかん)の後に非ざれば得て知ることができない。わが国における楠正成(ママ)と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆しかりというべきである。この碑を覧るに及んで、感慨ことに深きを覚えた。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、304頁~305頁)
渋沢栄一『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)では、次のように記してある。
第10章 東アジア世界の変容とモンゴル帝国
1 唐の崩壊後の東アジア
【金の華北支配と南宋】
いっぽう宋は、金が燕雲十六州を獲得したことをめぐって、金との同盟関係をつづけることに失敗した。金の大軍によって首都開封は占領され、1127年には、譲位していた徽宗や皇帝欽宗(在位1125~27)など皇族や重臣たちの多くが捕虜として北方につれ去られ、宋は崩壊した(靖康の変、1126~27)。
江南にのがれた徽宗の子の高宗(在位1127~62)は、1127年、宋(南宋、1127~1279)を再興して、臨安(浙江省杭州市)を都とした。しかし、金の攻撃ははげしく、軍事的に勝つ見込みにとぼしかったため、徹底抗戦を唱える主戦派の岳飛(1103~41)をやむなく処刑して、和平派の宰相秦檜(1090~1155)の主導のもとで、ほぼ淮河を境界とし、かつ金に対して臣下の礼をとるという条件のもとで1142年に和議を結び、毎年、多額の銀や大量の絹を貢ぎ物(歳貢・歳幣)として贈ることを強いられた。
※和議の後、両国間の戦争をへて、金と宋の君臣関係は、おじ・おいの関係に改められた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、174頁)
〇渋沢栄一の『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)では、次のように記している。
第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
2 東アジア諸地域の自立化
【宋の統治】
12世紀初め、遼を滅ぼした金はつづいて華北を占領し、都の開封を陥落させて上皇の徽宗(在位1100~25)と皇帝の欽宗(在位1125~27)をとらえた(靖康の変、1126~27年)。そこで皇帝の弟の高宗(在位1127~62)が江南に逃れて帝位につき、南宋(1127~1276)をたて、臨安(現在の杭州)を首都とした。政治抗争の焦点は、金に対する政策へと移り、和平派(秦檜[1090~1155]ら)と主戦派(岳飛[1103~41]ら)との対立の末、結局和平派が勝利をおさめて金とのあいだに和議を結んだ。この結果、淮河をさかいに、北は金、南は南宋という二分の態勢が固まり、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年、銀や絹を金におくることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、162頁)
〇渋沢『論語と算盤』(304頁~305頁)の岳飛と秦檜に関連して、本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)では、次のように記しある。
Chapter 10:Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
■Jin’s Control of North China and the Southern Song Dynasty
While the Song failed to maintain the alliance with the Jin concerning the Jin’s
acquisition of Yanyun Sixteen Prefectures, its capital, Kaifeng, was
occupied by the Jin’s large force invading toward the south.
And in 1127, Huizong, who already abdicated, and the emperor Qinzong, as well
as many of other imperial family members and bureaucratic elites, were captured
and taken away to the north. This resulted in the collapse of the Song dynasty
(Jingkang Incident 靖康の変)
Gaozong, a son of Huizong, escaped to Jiangnan, and placed its capital in Lin’an
(臨安, Hangzhou of Zhejiang Province) in 1127, and restored the Song dynasty
(the Southern Song 南宋). The Song, however, against the Jin, which often attacked
the Southern Song, extended its power to the whole of North China, executed
Yue Fei (岳飛), a chauvinist leader who advocated exhaustive resistance.
But under the leadership of pacifist Chancellor Qin Hui (秦檜), the Song entered
into a peace treaty with the Jin in 1142, which fixed border at the Huai River,
to endure humiliating conditions to become the vassal of the Jin. And the Song was
also forced to donate a large sum of silver and voluminous silk as tribute.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、137頁)
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版])より
第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育
「例外だった栄一の「学問のはじめ」」
「例外だった栄一の「学問のはじめ」」(36頁~38頁)
「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」(38頁~39頁)
・渋沢栄一は、8歳頃から従兄で10歳年上の尾高惇忠について漢籍を学んだと回想している。
当時の一般的な常識からすれば、名主見習であるとはいえ、農民にすぎない栄一の父(晩香)が自ら漢籍に親しみ、子供にもその手ほどきをするということ自体が、むしろかなりの例外に属することだったようだ。
また近在の村に住む従兄の尾高惇忠が、論語や大学・中庸を修めたインテリである。その尾高惇忠が栄一の家庭教師になってくれたことも、同じく大変な例外だった。
それが当時の「当たり前」ではなかったことは、渋沢と同時代人の福沢諭吉の幼年時代の回想に当たってみると、よくわかるらしい。
「私の父は学者であった。普通(アタリマエ)の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。(中略)今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。
私は勿論幼少だから手習いどころの話ではないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いをするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家(ソコ)には町家の子供も来る。そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然(アタリマエ)の話であるが、そのことを父が聞いて『怪しからぬことを教える。幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。こういう所に子供は遣っては置かれぬ。何を教えるか知れぬ。さっそく、取り返せ』と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。」
(『福翁自伝』)
ここから、次のような事実がわかるという。
①福沢諭吉の父は経理担当の下級武士であったが、自分の仕事を嫌い、純粋な学問としての儒学にあこがれていた。
②にもかかわらず、自分で子供に素読を教えるような時間もなかったので、しかたなく、「手習いの師匠」のところに子供を通わせていたが、そこには、町人の子供も来ていて、漢籍というよりも、寺子屋のような「読み書き算盤」が中心だった。
③父は「手習いの師匠」の実利的な教え方が気にいらず、子供を取り返したこともある。だが、父が亡くなってからというもの、諭吉はそうした「手習いの師匠」のところにさえ行けなかった。
・実利的教育を嫌う武士であっても、子供に学識のある専属の家庭教師をつけるような余裕はなく、町人の子供と一緒に「手習いの師匠」のところで、「読み書き算盤」を習わせるほかはないというような事態が、大阪のような大都市でもかなり一般的になっている。しかも、もし福沢家のように、一家の大黒柱が早死にしてしまった場合は、武士の子供といえども、手習いも受けずに放置されたという事実が明らかになる。
・だから、6歳のときから父に素読を受け、その後は専属の家庭教師から漢籍を学んだ渋沢栄一は、当時の農民としては、例外的な学問的環境に置かれていた。
・しかも、その教師が、「手習いの師匠」ではなく、同じく豪農のインテリの従兄であったという点は、この頃の渋沢一族がいかに教育熱心であり、その教育レベルもかなり高かった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、38頁~39頁)
第二十六回「官」と「民」
「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」
「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」(313頁~315頁)
渋沢栄一がフランス人のヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの対話を観察することで得た官・民平等の認識は、形式や名称ではなく、むしろエートス(共同的倫理観)に近いものだったらしい。
渋沢が、「日本の此有様は改良せねばならぬ」と痛感したのは、江戸時代の「武士と町人・農民」、明治の「官吏と民間人」という官・民の制度上の違いというよりも、金銭に直接触れない「士=官吏」が、金銭にたずさわる「農工商=民間」に対していだく、金銭蔑視の差別感情である。
渋沢にいわせれば、そのエートスは、江戸時代の朱子学からきているという。
日本の儒学や朱子学は、儒学本来の教えとはことなり、本質的に金銭を蔑視する傾向が強かった。だから、それをバックボーンとする徳川の武士階級は、金銭に携わる農工商の階級をさげすみ、逆に、自らの階級を金銭にかかわりないがゆえに尊いものとして、学問を一切、金銭の獲得のための技術から切り離した。
それゆえに、学問を得た武士階級は、実業とは無縁になり、実業に携わる農工商の階級は学問とはかかわりなくなってしまった。
(つまり、金銭というものが、「官・民」を区別する最大の指標となった。)
これは、『論語』の思想に対する誤解に基づく認識であると、渋沢はいう。
なぜなら、江戸の儒学者や朱子学者が、金銭と農工商階級蔑視の根拠とした、孔子の『論語』の次のような箇所は、彼らによって完全に誤読されているからである。
「富と貴(たつとき)とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、其の道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
これに対する、渋沢の解釈は次のようなものである。
「この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじたところがあるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えてみれば、富貴を賤しんだところは一つもない、その主旨は富貴に淫するものを戒められたまでで、これをもってただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚しと言はねばならぬ、孔子の言わんと欲する所は、道理をもった富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である、して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所は更にないではないか、この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく『道を以てせずして之を得れば』という所によく注意することが肝要である」
(渋沢栄一述『論語と算盤』国書刊行会)
〇これは、渋沢栄一の経済思想のみならず、人生哲学の根底を成す「道徳経済合一主義」、俗に「論語と算盤」の思想をひとことで言い切った部分であると、鹿島氏はいう。
・パリで渋沢栄一が目撃したヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの会話は、まさに渋沢が従来の『論語』解釈に対して抱いていた疑問に目の覚めるような解答を与えたものだったとする。
⇒渋沢栄一が、フランスの二人の関係にあれほどのこだわりを見せたのは、渋沢が17歳のときに岡部の代官所で経験した屈辱以来、ずっと自問しつづけてきた金銭と道徳の関係という問題が伏線にあったからこそ、コペルニクス的な転換となりえたと、鹿島氏は理解している。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、313頁~315頁)
「比較的新しかったフランスの官民平等思想」
「比較的新しかったフランスの官民平等思想」(317頁~318頁)
しかしながら、渋沢栄一が感激したこの官・民の平等というものは、じつは、フランスでも大昔から存在していたのではないと、フランス文学者・鹿島氏は解説している。
それどころか、こうした対等な関係が成立したのは、1789年のフランス革命以後のことにすぎないという。
・それ以前はどうなっていたのかというと、「官」を牛耳る貴族・僧侶階級(第一・第二身分)と、「民」のブルジョワ階級(第三身分)とは截然と区別され、日本の武士と農工商との違いにも等しい金銭感覚の相違が存在していた。
・儒教は金銭蔑視の宗教であると思われていたが、金銭蔑視という面でははるかに強烈なのがキリスト教であるという。
キリスト教は、地上の富よりも天上の富を高く評価する。それゆえ、自分がより天上に近いと思うものほど、金銭を蔑視する。
では、そうしたことができるのは、いったいどんな階層なのか?
それは、働かずして衣食住になに一つ不自由のない生活を送っていた者、つまり、先祖代々ゆずり受けた広大な土地を持つ貴族階級と僧侶階級である。
彼らは、金銭に不自由しないがゆえに、金銭を蔑視し、よりキリストの教えを実践していると思い込むことができた。
・これに対し、ブルジョア階級とは、自己の労働と創意工夫しか資本を持たぬがゆえに、金銭に敏感にならざるをえない階級である。
そして、それは同時に金銭蔑視のキリスト教からは本来排除されるべき階級だった。
しかし、ブルジョア階級が力を持ち出すと、キリスト教のほうでも、金銭に触れているからといって、彼らを排除できなくなる。
・ここで生まれたのが、いわゆるプロテスタンティズムである。
ルターとカルヴァン、とくにカルヴァンのプロテスタンティズムは、金銭とかかわりを持たざるを得ないブルジョア階級が、それでもなおキリスト教の内部にとどまれるようにするために発明された宗教だといえる。
※つまり、刻苦勉励し、金銭を貯蓄することが「天職」として、神の意思に沿うのだとするカルヴァンの教義は、ある意味で、経済と道徳は矛盾するどころか、一致するという渋沢の『論語』理解とよく似たところを持っていると、鹿島氏は見ている。
・もし、渋沢がフランスでこのカルヴァン派のプロテスタンティズムに触れたというのであれば、その影響関係は至って理解しやすくなったはずである。だが、現実には、渋沢がパリで接したのは、このプロテスタンティズムではなかった。
なぜなら、フランスはカトリックの国である。プロテスタンティズムはあっても、ごく限られた階層と地域にしかないからである。
・渋沢の理解とは異なり、現実のフランスは、官僚主義の強い国である。
(つい最近まで、良家の優秀な子弟は、日本と同じように、まず「官」を目指した。「民」に行くのは、エリートのトップクラスではなく、その下のクラスと決まっていた。この点では、フランスと日本は過去も現在もよく似ているという)
・だが、フランスの歴史において、極めて例外的ながら、エリートが「官」ではなく、こぞって「民」を志向した一時期があったそうだ。それが、1852年から1870年にかけての第二帝政であった。なぜなら、ナポレオン3世とそのブレーンの信奉するサン=シモン主義は、「官」を否定し、金銭と直接的に接する「民」、すなわち産業人を全面的に肯定する思想だからであるという。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、317頁~319頁)
第三十四回 大蔵省を去る
「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題
「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」(419頁~420頁)
・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」(405頁~418頁)では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介している。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。
渋沢栄一は明治政府に一時期出仕したが、その大蔵省時代についても、みておこう。
・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。
・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
(三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)
〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)
⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
明治4年9月下旬のことだった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)
【鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫はこちらから】
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう
「第六十二回 「論語」と「算盤」」
第七章 「論語」を規範とした倫理観
「第六十二回 「論語」と「算盤」」(288頁~301頁)
「儒教の核心は道徳と経済にある」
「儒教の核心は道徳と経済にある」(288頁~289頁)
渋沢栄一は、実業界を引退した後、時間の許すかぎり、講演や談話を引き受け、おのれの信ずるところを公に披露した。
それらは『青淵百話』を始めとする講演・談話集に収録されている。
なかでも『論語と算盤』と題されて出版された講演集は、そのタイトルが示すように、「義利合一(ぎりごういつ)」という、渋沢が一生の信条とした思想が語られているので、注目に値すると、鹿島氏はいう。
すなわち、利潤追求を旨とする企業人においても、道徳(義)と経済(利)は矛盾しないどころか、むしろ、その両者のバランス感覚こそが孔子が『論語』で説く儒教思想の核心であると、繰り返し力説している。
たとえば、『論語と算盤』収録の講演の一つ「罪は金銭にあらず」で、上記の引用のように記していた。
・この部分を、儒教道徳で育った、いかにも明治人らしい、古風な考えだと簡単に片づけてしまってはいけないという。
なぜなら、「論語」と「算盤」の調和というこの思想は、東西の文明が例外的に出会って一つに融合した、「渋沢というメルティング・ポット」から生まれた一種の奇跡といってさしつかえないからとする。
つまり、「論語と算盤」という理念は、儒教で育った明治人に共通するものでは決してなかった。むしろ、渋沢以外の人間には思いつくことができなかった「特殊」な経済思想なのかもしれない。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、288頁~289頁)
「金銭を卑しんだ江戸時代」(289頁~294頁)
われわれは、「論語」と「算盤」の調和という考えなら、江戸時代にすでに一般的になっていたのではないかと想像してしまう。しかし、渋沢によれば、事実はその逆である。
宋から輸入された朱子学の解釈によって、元和・寛永の頃から「論語」と「算盤」は完全に切り離された。儒学を学ぶ武士階級は金銭とはかかわりを持つべきではないとされるに至ったという。渋沢は次のようにいう。
「宋儒程子や朱子の解釈は高遠の理学に馳せ、やや実際の行事に遠ざかるに至れり。我が邦の儒家藤原惺窩(せいか)・林羅山のごとき、宋儒の弊を承けて学問と実際とを別物視し、物徂徠(ぶつそらい、荻生徂徠のこと)に至つては学問は士大夫以上の修むべきものなりと明言して、農工商の実業家をば圏外に排斥したりき。徳川氏三百年の教育は、この主義に立脚したりしかば、書を読み文を学ぶは実業に与らざる士人の業となり、農工商多数の国民は国家の基礎たる諸般の実業を担任すれども、書を読まず文を学ばず無智文盲漢となり終りぬ。(下略)」(『論語講義』)
※これは、儒学者三島中洲との共著というかたちで、数えで84歳のときに世に問うた『論語講義』の総説の一部である。
なぜ、渋沢が『論語』を新しく解釈し直そうと試みたのか、その真意を語っている。
すなわち、「算盤」と調和することこそが『論語』の本質なのであり、「論語」と「算盤」を分離しようとした江戸以来の儒学者の解釈は『論語』を読みちがえている、だからこそ、新たな解釈による『論語』を刊行するという。
では、渋沢が『論語』再解釈の眼目とした教訓はどんなものなのだろうか?
それは主として「里仁篇」の次の教えであるとされる。
「富と貴とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、その道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
これに対して、渋沢は『論語と算盤』収録の「孔子の貨殖富貴観」という講演において、次のような解釈をしている。
(すでに引用)
・富貴を求める欲望、それ自体は、人間ならだれしもこれを持つのは当然であり、孔子はこれを否定してはいない。否定しているのは道義に基づかない手段方法に拠った場合である。
富貴を求める欲望があまりに激しいと、たしかに悪い結果をもたらすことが多いが、しかし、だからといって、富貴を求める欲望そのものを否定してしまっては、人々は働く意欲を失う。
そして、やがては、国全体がうまくいなかくなり、社会は衰亡に向かう。これが渋沢が主張したかったことである。
渋沢は、その例として、朱子学を奉じた宋の国の衰退をあげて、『論語と算盤』の「真正の利殖法」でこう説明する。
(別に引用、原文125頁)
※鹿島氏の引用した版では、「宋末の慈惨」が「宋末の悲惨」とある。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、289頁~294頁)
第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)
「子供の質問に真正面に答える」
「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)
渋沢秀雄は、『父 渋沢栄一』という伝記で、飛鳥山に住むようになってからの晩年の渋沢栄一の日常を「思い出」として随所に挿入している。だから、われわれが「人間渋沢栄一」を知るのには、またとない資料となっている。
渋沢秀雄の筆に拠りながら、等身大の渋沢のエピソードをいくつか、鹿島氏は紹介している。
(その中に、『論語』にある、例の葉公の話が出てくることに注目したい)
渋沢秀雄は、中学五年生の頃、朝食のあとで庭を散歩する父の伴をしたとき、こんな質問をした。
「もし父さまが大石良雄でしたら、吉良にワイロをお贈りになったでしょうか? それとも何もなさらなかったでしょうか?」(『父 渋沢栄一』)
すると、渋沢は「さあ、……むずかしい問題だね」といったきり黙ってしまった。
秀雄は、その沈黙を自分が良い質問をしたしるしだと感じ、いささかの得意を覚えた。
ややあって、渋沢は口を開くと、「ワシが大石良雄だったら、恐らく相当の礼物を贈ったろうね」と言ってから、次のような『論語』の辞句をすらすらと引用した。
「葉公(ショウコウ)孔子ニ語(ツ)ゲテ曰ク、吾党ニ躬(ミ)ヲ直クスル者アリ。其父羊ヲ攘(ヌス)メリ。而シテ子之ヲ証スト。孔子曰ク、吾党ノ直キ者ハ是ニ異ナリ。父ハ子ノ為メニ隠シ、子ハ父ノ為メニ隠ス。直キコト其中ニアリ」
羊を盗んだ父を告発する息子という紅衛兵時代の中国を思わせるような葉公の正直者の定義に対し、孔子は、自分たちの考える正直者というのはそういうものではない。父のためなら罪を子が隠すのは当然だし、子のために父が隠すのもまた当然だ。正直というのはそうした関係にあると答えたのである。渋沢はこの辞句を引いて、次のように結論づけたのである。
「つまり、直きことも人情に適った直きことでなくてはならない。元禄時代に贈賄は法律上の罪ではなかった。そして吉良の貪欲は定評があったらしい。もし贈賄しなければ浅野家に禍がふりかかりそうな予想はついた筈だ。もとより贈賄は武士のイサギヨシとしないところだが、時と場合による。それで一国一城の危急が救えるなら、贈るのが人情であろう。……これが父の解釈だった。父はいつも、子供の質問にも真正面から答えてくれる人だった」(『父 渋沢栄一』)
<鹿島氏のコメント>
※この例からもわかるように、親が子供の質問に真正面から答えるには、込み入って矛盾した倫理の問題にも即答できるような体系的な教えがなくてはならない。
渋沢の場合、それはいうまでもなく『論語』であり、この倫理規範に照らすことによって、すべての問題に答えを用意できた。
・われわれは、戦後、倫理体系としての『論語』を失い、それに代わるものも持ち得ないところから、自信喪失に陥ったといってもいいすぎではない。
〇渋沢秀雄は、渋沢の思考や行動様式がすべて『論語』から演繹されていることを、次のようなエピソードでも示している。
「なんでも克己寮時代と覚えているが、ある日家で父が私に、何かをもっとシッカリ勉強しろといったとき、私は、勉強したところで先が知れているという意味の返事をした。
すると父はいくらかキッとした語調で、
『お前にはみずからを画する悪い性癖がある。自分に見きりをつけるようでは何事も出来ないぞ。その欠点は改めなければいかんよ。』
といった。なるほど私の一生には思い当る節の多い言葉だ。私は最近論語の『雍也第六』で孔子が弟子の冉求(ゼンキュウ)を『今ナンジ画(カク)せり』(画[カギ]レリと読ませる本もある)と戒めているのを発見して、父の言葉がやはり論語から出ていたことを五十年ぶりで知った。その当時は父の論語マニアに何となく反感を持っていた私も、今となっては懐かしく思いだす。『同ジテ和セズ』から『和シテ同ゼズ』の心境に進歩したのかもしれない。時というものは不思議な作用をする」(『父 渋沢栄一』)
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、495頁~497頁)
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