ブログ≪斎藤兆史氏の英語論~『英語達人塾』より≫
(2021年12月15日)
斎藤兆史(さいとうよしふみ、1958-)氏は、日本の英文学者で、東京大学教授、放送大学客員教授である。
今回のブログでは、その著作を紹介してみたい。
〇斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』中公新書、2003年[2011年版]
【斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』(中公新書)はこちらから】
英語達人塾 極めるための独習法指南 (中公新書)
まえがき
斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』(中公新書、2003年[2011年版])
は英語独習法の解説書である。
本腰を据えて英語に取り組みたい人にお薦めしたい本である。
本書の学習法を実践すれば、日常的なやり取りや社交、商談はもちろん、文化的な議論や研究発展の場でも役立つ高度な英語力を身につけることができるはずであるという(斎藤、
2003年[2011年版]、i頁)
不自由な思いをせずに外国旅行がしたいとか、外国人と友だちになりたいというだけならともかく、文法無視でただペラペラとしゃべりまくる癖がついてしまうと、そこで英語学習が頭打ちになる。
かつての日本の英語達人たちを見ていると、基本に忠実な英語学習を行なっていることがわかる。何を学ぶにしても、基本をおろそかにした我流では伸びない。学び方の基本は変わらないのである(斎藤、2003年[2011年版]、iii頁)。
本書で紹介する学習法は、日本の英語受容史のなかで効果が実証されているものばかりである。新渡戸稲造、斎藤秀三郎、岩崎民平、幣原喜重郎、西脇順三郎、岡倉天心らの英語達人は、その学習法と達人ぶりを紹介している。
彼らが実践した学習法は語学の理に適っており、安心して実践できるという(斎藤、
2003年[2011年版]、iii頁~iv頁)。
〇基本は日本語
肝心なのは普段から日本語でしっかりものを考える習慣をつけることである(斎藤、
2003年[2011年版]、5頁)
〇真似と反復
音楽でも運動でも、とにかく何かの技芸を本格的に修めたことのある人ならわかるとおり、学習の基本は真似と反復である。手本を真似て、それがうまくできるようになるまで徹底的に反復練習する。
英語が外国語である以上、その習得はほかの技芸の習練と同じように日々のたゆまぬ反復練習なくしてあり得ないのである(斎藤、2003年[2011年版]、6頁)。
〇継続は力なり
「継続は力なり」。この当たり前の教訓も、ここでもう一度確認しておきたい。
日本人にとっての英語は、やはりピアノやバレエと同じように、何年も何年も基礎的な訓練を積んではじめて習得できる技術なのである(斎藤、2003年[2011年版]、7頁)。
本書で説いた学習法を実践すれば、日本の大学で英語を教えたり、文学作品の翻訳をする程度の英語力は身につくはずであるという。
ただ、本書のすべての課題に真面目に取り組んだとしたら、毎日勉強しても10年はかかると斎藤兆史は断わっている。
2年や3年の修業でピアニストやバレリーナになれないのと理屈はまったく変わらない。退屈な訓練を毎日毎日続けた者のみが、高度な英語力を身につけることができるものである(斎藤、2003年[2011年版]、8頁)。
大学院受験生で、英語での面接にも、そこそこ器用に対応し、「英語ペラペラ」な人でも、入学して最初からきちんと英語の文献が読め、学界で通用するような英語を操ることができるのは、ほんの一握りである。あとはこちらが相当苦労して指導しなくてはならないと斎藤はいう。つまり、「ペラペラ」程度の英語力だけでは、とても文化的、学術的な意思の伝達はできない(斎藤、2003年[2011年版]、9頁)。
英語達人の禅学者・鈴木大拙(だいせつ)の晩年の英語による講演を記録したテープやフィルムが残っている。晩年ということもあってか、日本語なまりも強く、けっして流暢ではない。しかしながら、話している一文一文の正確さ、内容的な密度は驚嘆に値する。そのまま書き起こしても、立派に禅の入門書になるであろうと斎藤はみなしている(斎藤、2003年[2011年版]、9頁)。
〇英語力は会話力にあらず
たしかに英語は話せるに越したことはないが、ただ小器用に「ペラペラ」しゃべることだけに憧れていたのでは、本当の英語力は身につかない。文法や読解を含めた、地道で綜合的な学習が必要になる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
〇目的意識
翻訳家になりたいとか、あるいは国際学界で自分の研究を発表したいとか、そういう明確な動機が英語学習の大きな推進力となる。英語学習の目的をはっきりさせることで、おのずとそれに適った学習法が決まってくる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
たとえば、翻訳家になりたいというのであれば、話したり聴いたりする訓練より、難しい英語を正確に読み、それをわかりやすく、かつ味わいのある日本語に翻訳する訓練を優先させるべきである。
国際学界での研究発表にねらいを定めるなら、学術的な英作文(academic writing)と口頭発表の技術に重点を置かなくてはいけない。
まずは、自分がどのような英語力を必要としているのかをきちんと見定めることである。
すべての英語学習者の目的に適った学習法を網羅的に紹介するわけではない。だが、いかなる技芸の修得に際しても、学び方の基本は同じである。基礎的な英語力を身につけ、その基本を踏まえた学習を継続していけば、かならずそれぞれの目的に適った英語力を身につけることができる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
〇勉強量は目標から逆算して割り出す
一読しただけではほとんど意味が取れない人は、意味が取れるまで読むこと。それが必要な予習の量だという(斎藤、2003年[2011年版]、11頁)。
英語達人とは、少なくとも読解力や作文力においては、並の母語話者と同等以上の英語の使い手のことであるから、その本の文章がわからないとすれば、まだまだ達人にはほど遠いことになる。
だが、英語達人になることが目標であるならば、そこを前提とするならば、なすべきことはただ一つ。
そのような難文を読みこなせるようになるまで、辞書を片手にひたすら読む。
指針、目安であって、自分に必要な勉強量は、あくまで自分の実力と目標を元に自分で割り出してほしいという(斎藤、2003年[2011年版]、12頁~13頁)。
〇英文を書きためる
「持ちネタ」を増やしていく(斎藤、2003年[2011年版]、124頁)。
〇日本文化関連英書
とりあえず、ペンギン・ブックスのペーパー・バックを買っておけば間違いない
自分が英語で伝える可能性のある内容を網羅しているもの
斎藤兆史の愛読書としては、
Japan ; An Illustrated Encyclopedia(エドウィン・O・ライシャワー、加藤一郎ほか監修『カラーペディア英文日本大辞典』講談社、1993年)(斎藤、2003年[2011年版]、178頁)。
〇素読(そどく)について
かつて日本には、主にオランダ人や中国人との交渉事務を担当する「通詞(つうじ)」と呼ばれる人たちがいた。
もともとオランダ通詞であった堀達之助は黒船来航の際には着席通詞として活躍して、のちに『英和対訳袖珍辞書』(1862年)を出版した。その堀達之助のひ孫にあたる堀豊彦の述懐によれば、彼は5、6歳になる祖父、孝之の前に正座をしてオランダ語と英語の素読を行なった。
「武家」が幼児に漢文の素読を授けたのと同じように、これが長崎の和蘭(オランダ)通詞に伝わる家風であったという。
〇読書百遍、意自ずから通ず
素読とは、意味や内容をあまり考えずに同じ文章を何度も音読することで、もともとは漢文の初学者向けの学習法であった。
寺子屋で勉強をする子供たちが声をそろえて、『論語』の素読をする図を想像してみるとよい。「子曰はく、学びて時にこれを習い、亦説(よろこ)ばしからずや、朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや」
寺子屋の子供たちは、ただ何度も何度も漢文を読んでいるうちにそのリズムを身につけ、やがて内容を少しずつ理解していくことになる。まさに「読書百遍、意自ずから通ず」である。
中世ヨーロッパのラテン語学習者も、そのようにしてラテン語を学んだようだ。この素読という優れた語学学習法は、残念ながら明治以降、ほとんど実践されなくなったが、斎藤はこれを勧めている(斎藤、2003年[2011年版]、32頁~34頁)。
どんなに時代が変わろうが、基礎的なことを何度も何度も繰り返して、体のなかに練り込むという学習の基本は変わらない。その学習法の語学版が素読であり、暗唱なのである。
〇文法解析
日系イギリス人作家カズオ・イシグロ(1954~)
『わたしたちが孤児だったころ』(Kazuo Ishiguro, When We Were Orphans, 2000)
イシグロの英文を文法的に細かく分析しているが、つねにこんな読み方をしていたのでは、多量の英文をこなすことはできない。
英語力を養うには、第7章で解説するとおり、とにかくたくさんの原書を読むことも必要である。だが、文法を正確に知っているのといないのとでは、文章の理解度がまったく違う。
最近の英語教育では、学習者が文法を身につける前から文章の大意を理解する読み方を推奨する傾向にあるが、これは本末転倒もはなはだしいという。
文法を正確に読み解く訓練をしているうちに、しだいに文法が気にならなくなって文章がさっと頭に入るようになる。これが正しい学習の順序である。
楽譜の約束事を覚え、譜面どおりに正確にピアノを弾く練習を重ねているうちに、いつの間にか譜面を見ながら自然に指が音楽を奏でるようになるのとまったく理屈は変わらない
(斎藤、2003年[2011年版]、49頁~50頁)。
〇接続詞becauseとforの用法の違い
イシグロも誤っているという(斎藤、2003年[2011年版]、52頁)。
会話の流暢さで母語話者の向こうを張るのは容易ではないが、文法や読解を含めた総合の英語力で母語話者を凌駕することは不可能ではない。
この機会に英文法の重要性をしっかりと再認識していただきたいという(斎藤、2003年[2011年版]、54頁)。
〇辞書活用法について
『研究社新英和大辞典』について
英語辞書の偉人・岩崎民平(たみへい、1892-1971)は、辞書編纂者として偉大な信頼を得ていた(『研究社新英和大辞典』第3版と第4版の編集主幹)
斎藤兆史は高校、大学時代を通じて、岩崎が編集主幹を務めた『研究社新英和中辞典』『研究社新英和大辞典』第4版を使って英語を読んできたという。つまり斎藤の英語学習は岩崎の辞書とともにあった。
斎藤が英語で飯を食うようになってからは、職業柄、さすがに雑多な辞書に当たらざるを得なくなった。
それでも翻訳の仕事をするときだけは、もっぱら『研究社新英和大辞典』第5版を使って訳語をひねり出したという。
斎藤は『研究社新英和大辞典』第6版の執筆に関わり、岩崎辞書学の伝統の末席に座することができたことを誇りに思っている(斎藤、2003年[2011年版]、56頁~57頁)。
〇辞書を引くことの重要性
斎藤は、語学力は辞書を引く回数に比例して伸びるものだと信じている。少なくとも読解力に関して言えば、辞書をこまめに引くか引かないかが決定的な差となる。これは達人たちの学習法を見れば明らかである。
ドイツ語達人に関口存男(つぎお、1894-1958)がいる。14歳のとき独学で勉強を始めるが、そのときの学習法がすごい。いきなり洋書屋に行き、ドイツ語訳の分厚い『罪と罰』を買ってきて、わけもわからずに辞書を引きながら読みはじめたのだという。本人は、「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか?」で回想している。ただ辞書を丹念に引いて文章を読むだけでも語学力が向上することを示すいい例であろう。これだけでは話が極論すぎて説得力に欠けるかもしれない(斎藤、2003年[2011年版]、57頁~58頁)。
そこで、虎の威を借る狐の自慢話に堕してしまうことを覚悟で、一つの逸話を紹介している。
斎藤兆史の『英語達人列伝』の縁で、折りに触れて岩崎民平の長女・林きよ子と手紙のやりとりをしているという。斎藤は『英語の味わい方』(NHKブックス)を出版するに際し、自らの信念に基づいて、「あとがき」に「一番手っ取り早く、確実な(しかし根気のいる)英文読解の勉強法はなんと言っても英書の多読である。しかも辞書をこまめに引いて読まなくてはいけない」と書き記した。
出版直後、林きよ子からお便りをいただいた。書店で見かけ、買い求め、感想が記してあった。あとがきで、こまめに辞書を引くことは、父がよく云っていた言葉だったという。岩崎民平は、辞書や文法書や注釈書における膨大な業績のわりに、英語学習にまつわる体験談や個人的な意見をあまり発表していないそうだ。その娘さんから手紙をもらい、尊敬する英語達人の英語学習論に触れ、それによって自分の英語教育が間違いではなかったことを確認できたのは幸運であったという(斎藤、2003年[2011年版]、58頁~59頁)。
〇単語帳の作り方
必要な情報を単語帳に書き写していく。この作業には重要な意味がある。じつは単語帳を作ることの本当の意味は、単に語義を目で確認するだけでなく、手を動かすことによって体に練り込むことにある。
昔、小説家を志す者は、志賀直哉の文章を原稿用紙に書き写して小説の勉強をしたという。たしかに、辞書を食べたという話と同じく、努力のすさまじさを伝える伝説、あるいは隠喩の意味もあるかもしれない。だが、小説の神様と言われた作家の文章を実際に手でなぞってみることで、その文体、リズム、筆遣いが自然に体に練り込まれるという実利的な側面もあったのだろうと斎藤は推測している。
コピーなどという便利なものがなかった時代、貴重な文献を書写して勉強した僧侶や学者が、ときに現代の技術をもってしても不可能と思われるような学問業績を残している。偉人であったこともさることながら、体を使った学習の効果があったものと考えている。
英文を声に出して読んだり、手でなぞったりしながら、五感を総動員して勉強すると学習効果が高い(斎藤、2003年[2011年版]、65頁~67頁)。
語彙力を高めるために、単語帳を作ることを勧めている。単語カードでは駄目で、普通のノートを用意し、次のようなことを記す。
例えば、irkという単語で
irk / 発音記号を記す。vt.[通例 itを主語として] 疲れさせる, あきあきさせる, うんざりさせる; いらいらさせる : It ~s me to wait.人を待つのはうんざりだ, 待つ身はつらい.
―n. 疲れ[あきあき]させること; 悩み[いらだたしさ]の種
単語によって必要な情報量は異なるが、ノートの罫線に沿って普通の大きさの字で書いたとして、3~6行くらいが妥当であるという(斎藤、2003年[2011年版]、62頁~65頁)。
〇洗練された言語表現を体感
ピアノが上手くなりたかったら、クラシックの名曲を暗譜するくらいまで弾き込まなくてはならない。体が覚えるまで手本をさらうこと。この学習の基本原則を語学に当てはめれば、例文の素読・暗唱ということになる。
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう、1872-1951)は、若いころイギリスで師事した英語の先生に暗唱を仕込まれている。
暗唱の手本は名文に限る。名文を読むとは、もっとも洗練された言語表現を体感することである。その朗読・暗唱を通じて美しい言葉の形を体に練り込むことほど手軽で有効な語学学習法はない。
朗読用の名文を選ぶ基準としてもっとも重要なものは、内容、修辞、音調の3点である。内容的に深いものを含んでおり、修辞技巧に優れており、そのうえ音の調子がいい。この三つの条件が揃っていれば、まず名文と考えていいという(斎藤、2003年[2011年版]、72頁~73頁)。
〇学習の目安
暗唱は、語学には欠かせない学習項目であるとはいえ、じっくりと時間をかけて行なわなくてはいけないものでもないらしい。
語学において中心となるのは、多読、それから作文や会話ということになると斎藤兆史は考えている。
そこで、暗唱を実践するときの目安としては、学習の早い段階である程度集中的に行ない、あとは名文と呼ばれるものに出くわしたときにそれを暗唱してみるとか、あるいは自選の名文集などを作っておいて、折に触れて朗読しながら暗唱を試みるくらいで構わない。
その際は、ラッセルやオーウェルやモームのエッセイを少しずつ区切って暗唱していくといいだろう。現代の作家だと、デイヴィッド・ロッジ(1935-)やカズオ・イシグロ(1954-の文章が読みやすい。
(ただし、イシグロの作品中、『充たされざる者』(The Unconsoled, 1995)だけは、一風変わった不条理小説なのでお勧めできないそうだ。そのほかの長編小説なら、すべて素読・暗唱用の教材として最適であると斎藤はいう)
また余裕があるなら、チャールズ・ディケンズの小説の名場面や、キング牧師の演説中の有名な‘I have a dream.’のくだりなどを暗唱してみるとよいらしい(斎藤、2003年[2011年版]、84頁~85頁)。
□マーチン・ルーサー・キング(1929-1968、39歳で凶弾に倒れる)
1963年8月、25万人の大群衆とともに「ワシントン大行進」を行い、この力強い大演説を行なった。
Let Freedom Ring ― I Have a Dream.
I say to you today, my friends, so even though we face
the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream.
It is a dream deeply rooted in the American Dream.
I have a dream that one day this nation will rise up,
and live out the true meaning of its creed :
“We hold these truths to be self-evident, that all men are
created equal.”
〇英語達人になるための必須条件
多読とは、読んで字のごとく、多く読むことである。雑誌だろうが、ペーパーバックだろうが、理解可能な英語で書いてあるものは片っ端から読む。
英語の達人たち(新渡戸稲造、斎藤秀三郎など)は、修業時代のどこかで例外なく大量の英書を読んでいる。逆に言えば、英書の多読は英語達人になるための必須条件だと言ってもいい。英語の多読なくして高度な英語力の養成はあり得ない。
〇教材選びの目安
多読は、見方を変えれば速読でもある。同じ読み方ながら、読む量に焦点を当てれば多読となり、速度に焦点を当てれば速読ということになる。とにかく速く、たくさん読めばいいのだが、何を読んでもいいというわけではない。
暗唱の場合には、英文の質が問題であった。英文の質がよければ、極端な話、内容が理解できていなくても構わない。それを何度も読んでいるうちに、いい英語のリズムが体に練り込まれる。
だが、多読をする場合には、英文の質はさておき、かなりの速度で読みながら内容が頭に入るものでなければならない(まったく理解できない英会話の音声がいくら聴いてもただの雑音でしかないのと同様に、速読して頭に入らない英文は、いくら眺めていても、ただの白黒の模様でしかない)。
多読によって英語力をつけようと思ったら、辞書なしで、さっと読んで内容が7、8割理解できる程度の英文を選ばなくてはならない。一口に7、8割といっても、どの程度の読解力を指すか不明なので、読解力判定試験を斎藤は提示している。
(斎藤、2003年[2011年版]、88頁~89頁)。
〇成績判定と学習方針
細かい語彙の知識を有する読者なら、5分で英文の主旨を読み取れるはず
正答数だけを目安として学習方針を解説している。
①設問1、2ともに不正解であった場合
語彙が難しかった、論旨がつかめなかった、時間が足りなかったなどの理由があるだろうが、まだ多読・速読に入るのは時期尚早の感がある。辞書を引きながら、「辞書活用法」の章で解説したような単語帳を作りながら、文章のやさしい文学作品などを二つ、三つ読んでみるのがよいとする。
取っつきやすい作品としては、
『ハツカネズミと人間』『真珠』(John Steinbeck, Of Mice and Men, 1937. The Pearl,1947)
『動物農場』(George Orwell, Animal Farm, 1945)
『ティファニーで朝食を』(Truman Capote, Breakfast at Tiffany’s, 1958)
『老人と海』(Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea, 1952)
映画版が大ヒットした『卒業』(Charles Webb, The Graduation, 1963)
その他、名作を平易な英語で書き直した改作版やハリー・ポッター・シリーズでもいいだろうという。
ただ、この段階で英字新聞などは勧められない。英字新聞は、限られた紙面で最大限の情報を伝えることを至上の目的としているために、語法上や特殊な約束事に基づいて書かれている。だから、はじめのうちは、できるだけ癖のない、上質な英文を教材とするに限る(斎藤、2003年[2011年版]、97頁~100頁)。
②正答が1問だけの場合
成人母語話者向けに書かれたものを辞書なしで読むのは、やや無理があるかもしれない。上記のやさしい英語で書かれた作品を多読したり、本書で言及した作品、あるいは以下で挙げる作品の中から自らの関心に合わせて数冊選び、辞書を引きながら読んでみるのがいいだろう。
③2問とも正解の場合
これはもう英字新聞だろうが、雑誌だろうが、手当たり次第に読めばいい。ただし、できれば上質の英語で書かれた文学作品や随筆をたくさん読むことが望ましい。推薦図書は以下のとおりであるという。
Charles Dickens, David Copperfield (1849-50)
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland (1865)
Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (1884)
Thomas Hardy, Tess of the D’Urbenvilles (1891)
Oscar Wilde, The Importance of Being Earness (1895)
J.R.R.Tolkien, The Lord of the Ring (1954-55)
J.M.Coetzee, Disgrace (1999)
<補足>
・ディケンズは、弱者へのあたたかい同情を含んだ庶民性など、その独特の作風で知られる。『デービッド・カパーフィールド』は、ディケンズの半自伝的な小説である。
父親の死後生まれたデービッドは、母がマードストン氏と再婚すると、過酷な義父によって寄宿学校へ追いやられる。母の死後ロンドンの靴墨工場へ働きに出され、悲惨な貧困生活を味わうが、工場を逃げ出し、大伯母を頼り、その援助で法律を学び、弁護士の娘ドーラと恋をし、結婚。やがて作家として名をあげる。幼な妻の典型のようなドーラの死後は、貞淑聰明なアグネスと再婚する。
・また『ダーバービル家のテス』は、村の貧しい娘テスが、男のエゴイズムの犠牲になり、殺人を犯して処刑されるまでを描く悲劇的な物語である。
〇速読の速度について
問題は読む速度ということになる。将来、英語で飯を食おうという学生には少なくとも1日平均30ページ(欲を言えば40~50ページ)は読んでほしい。高度な読解力の養成を目指す社会人なら、1日平均10ページといったところかという。
ちなみに新渡戸稲造は、「五号活字の四六半載(はんさい)形の英書であれば、二分間で読むことは少しも困難ではない」(『修養』)と書いている。四六半載形の英書とは、1ページが四六判と呼ばれる大きさ(縦約19センチ×横約13センチ)の英語の原書のことらしい。
斎藤の出題した問題文を約2分で読み解く計算になるという。200~300ページの英書なら1日で読み終えてしまう速度であるという。
そこまでの多読・速読能力を身につけるのは容易なことではないとはいえ、毎日たゆまず努力すれば不可能ではない。少なくとも、より高い目標を掲げれば、それだけ高いところに登れるというものである。精進してほしいという。
発展学習として、さきの参考図書リストや、本書で言及した作家・作品紹介を参考にして、1年以内に最低2000ページ分の英文を読みなさいとする(斎藤、2003年[2011年版]、101頁~102頁)。
〇作文
語学力を論じる際、それを聴解力、会話力、読解力や作文力の四つの能力に分けることが多い。そして、通例、話し言葉の運用能力として最初の二つを書き言葉の運用能力としてあとの二つを組み合わせる。昨今の英語教育において、残念ながら、前者にのみ力点が置かれていると斎藤は批判している。
斎藤自身の英語学習・教育の経験から言えば、学習段階が進むにつれ、聴解力は読解力に、会話力は作文力に近づいてくる。すなわち伝達内容が高度になれば、話し言葉と書き言葉の差が小さくなり、今度は語学力が理解(聴解と読解)と生成(会話と作文)という形で分極化するという。
だから、高度な内容のことを口頭で伝えられるようになりたかったら、作文の練習をみっちりやっておくとよい。最初は、1文書くのにも苦労するかもしれないが、やがて文章を書き慣れてくると、頭のなかだけである程度まとまった文章の枠組みを作ることができるようになる。そうなれば、しめたものだ。
今度は、それを元に空で文章を仕上げるような練習をすれば、会話や口頭発表もうまくなる。
もちろん、会話や口頭発表の上達を目的としたものでなくても、作文は作文として意味がある。それどころか、語学力のなかでおそらくもっとも高度な技術である作文術を会得しないかぎり、いくら日常的な英会話が器用にこなせたとしても、英語を習得したとは言いがたい。いやしくも英語を使って仕事をしていると言うからには、修辞法の利いた手紙や電子メール、あるいは文法的な誤りのない企画書を書くぐらいの英語力がなくてはいけない。
〇見たことのある英語表現だけを使う
作文練習を行なうにも、基本は同じである。真似と反復である。最終的には、文学的な創作という高みを目指すと言っても、最初から文法や文体的慣例を無視してただ書きまくっていたのでは、変な癖がついて、むしろ逆効果となる。例えば、当たり前の単語ばかりを使っているのに、その並び方、結びつき方が珍妙なために、英語のリズムに乗って、すんなりとその意味が頭に入ってこない。いったん変な英語を使う癖のついた学生に英作文を仕込むのは、一から英語を教えはじめるよりもはるかに骨が折れるそうだ。まずは、その体に染みついたおかしなリズムを忘れさせるために余計な手間がかかるから。
向学心も根性もありながら英語の語感だけが悪い大学院生に、英語の論文を書かせるのに、厳しい訓練項目を課すととともに、一つだけ特別な禁止条項を設けたという。それは半年の間、よほどの必要に迫られないかぎり、英語を話したり書いたりしてはいけないというものであった。その指導が功を奏して、1年後には語感もだいぶ矯正されていたという。
要するに、ひとりよがりの英語を書いてはいけないということである。最初のうちは、継ぎはぎだらけでもいいから、見たことのある表現だけを使って作文をする習慣を身につけること。もちろん読書量が少なければ、必然的に見たことのある英語表現は限られてくるから、ろくな作文はできない。
一つの文章を書き上げるのに、少なくともその数十倍の関連文献を読んで、使えそうな表現を拾い出すくらいの作業が必要である。欲を言えば、多読の修業中にもつねに自分が英語を書くときのことを想定し、役に立ちそうな表現が出てきたら、ノートに書き取っておくくらいの努力をしてほしい(ただし、剽窃の罪に問われる危険性があるので、手本として使用するのは、語彙項目や慣用表現くらいにとどめておくのが無難であるという)(斎藤、2003年[2011年版]、119頁~120頁)。
(2021年12月15日)
【はじめに】
斎藤兆史(さいとうよしふみ、1958-)氏は、日本の英文学者で、東京大学教授、放送大学客員教授である。
今回のブログでは、その著作を紹介してみたい。
〇斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』中公新書、2003年[2011年版]
【斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』(中公新書)はこちらから】
英語達人塾 極めるための独習法指南 (中公新書)
斎藤兆史の英語論~『英語達人塾』より
まえがき
斎藤兆史『英語達人塾―極めるための独習法指南―』(中公新書、2003年[2011年版])
は英語独習法の解説書である。
本腰を据えて英語に取り組みたい人にお薦めしたい本である。
本書の学習法を実践すれば、日常的なやり取りや社交、商談はもちろん、文化的な議論や研究発展の場でも役立つ高度な英語力を身につけることができるはずであるという(斎藤、
2003年[2011年版]、i頁)
不自由な思いをせずに外国旅行がしたいとか、外国人と友だちになりたいというだけならともかく、文法無視でただペラペラとしゃべりまくる癖がついてしまうと、そこで英語学習が頭打ちになる。
かつての日本の英語達人たちを見ていると、基本に忠実な英語学習を行なっていることがわかる。何を学ぶにしても、基本をおろそかにした我流では伸びない。学び方の基本は変わらないのである(斎藤、2003年[2011年版]、iii頁)。
本書で紹介する学習法は、日本の英語受容史のなかで効果が実証されているものばかりである。新渡戸稲造、斎藤秀三郎、岩崎民平、幣原喜重郎、西脇順三郎、岡倉天心らの英語達人は、その学習法と達人ぶりを紹介している。
彼らが実践した学習法は語学の理に適っており、安心して実践できるという(斎藤、
2003年[2011年版]、iii頁~iv頁)。
〇基本は日本語
肝心なのは普段から日本語でしっかりものを考える習慣をつけることである(斎藤、
2003年[2011年版]、5頁)
〇真似と反復
音楽でも運動でも、とにかく何かの技芸を本格的に修めたことのある人ならわかるとおり、学習の基本は真似と反復である。手本を真似て、それがうまくできるようになるまで徹底的に反復練習する。
英語が外国語である以上、その習得はほかの技芸の習練と同じように日々のたゆまぬ反復練習なくしてあり得ないのである(斎藤、2003年[2011年版]、6頁)。
〇継続は力なり
「継続は力なり」。この当たり前の教訓も、ここでもう一度確認しておきたい。
日本人にとっての英語は、やはりピアノやバレエと同じように、何年も何年も基礎的な訓練を積んではじめて習得できる技術なのである(斎藤、2003年[2011年版]、7頁)。
本書で説いた学習法を実践すれば、日本の大学で英語を教えたり、文学作品の翻訳をする程度の英語力は身につくはずであるという。
ただ、本書のすべての課題に真面目に取り組んだとしたら、毎日勉強しても10年はかかると斎藤兆史は断わっている。
2年や3年の修業でピアニストやバレリーナになれないのと理屈はまったく変わらない。退屈な訓練を毎日毎日続けた者のみが、高度な英語力を身につけることができるものである(斎藤、2003年[2011年版]、8頁)。
大学院受験生で、英語での面接にも、そこそこ器用に対応し、「英語ペラペラ」な人でも、入学して最初からきちんと英語の文献が読め、学界で通用するような英語を操ることができるのは、ほんの一握りである。あとはこちらが相当苦労して指導しなくてはならないと斎藤はいう。つまり、「ペラペラ」程度の英語力だけでは、とても文化的、学術的な意思の伝達はできない(斎藤、2003年[2011年版]、9頁)。
英語達人の禅学者・鈴木大拙(だいせつ)の晩年の英語による講演を記録したテープやフィルムが残っている。晩年ということもあってか、日本語なまりも強く、けっして流暢ではない。しかしながら、話している一文一文の正確さ、内容的な密度は驚嘆に値する。そのまま書き起こしても、立派に禅の入門書になるであろうと斎藤はみなしている(斎藤、2003年[2011年版]、9頁)。
〇英語力は会話力にあらず
たしかに英語は話せるに越したことはないが、ただ小器用に「ペラペラ」しゃべることだけに憧れていたのでは、本当の英語力は身につかない。文法や読解を含めた、地道で綜合的な学習が必要になる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
〇目的意識
翻訳家になりたいとか、あるいは国際学界で自分の研究を発表したいとか、そういう明確な動機が英語学習の大きな推進力となる。英語学習の目的をはっきりさせることで、おのずとそれに適った学習法が決まってくる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
たとえば、翻訳家になりたいというのであれば、話したり聴いたりする訓練より、難しい英語を正確に読み、それをわかりやすく、かつ味わいのある日本語に翻訳する訓練を優先させるべきである。
国際学界での研究発表にねらいを定めるなら、学術的な英作文(academic writing)と口頭発表の技術に重点を置かなくてはいけない。
まずは、自分がどのような英語力を必要としているのかをきちんと見定めることである。
すべての英語学習者の目的に適った学習法を網羅的に紹介するわけではない。だが、いかなる技芸の修得に際しても、学び方の基本は同じである。基礎的な英語力を身につけ、その基本を踏まえた学習を継続していけば、かならずそれぞれの目的に適った英語力を身につけることができる(斎藤、2003年[2011年版]、10頁)。
〇勉強量は目標から逆算して割り出す
一読しただけではほとんど意味が取れない人は、意味が取れるまで読むこと。それが必要な予習の量だという(斎藤、2003年[2011年版]、11頁)。
英語達人とは、少なくとも読解力や作文力においては、並の母語話者と同等以上の英語の使い手のことであるから、その本の文章がわからないとすれば、まだまだ達人にはほど遠いことになる。
だが、英語達人になることが目標であるならば、そこを前提とするならば、なすべきことはただ一つ。
そのような難文を読みこなせるようになるまで、辞書を片手にひたすら読む。
指針、目安であって、自分に必要な勉強量は、あくまで自分の実力と目標を元に自分で割り出してほしいという(斎藤、2003年[2011年版]、12頁~13頁)。
〇英文を書きためる
「持ちネタ」を増やしていく(斎藤、2003年[2011年版]、124頁)。
〇日本文化関連英書
とりあえず、ペンギン・ブックスのペーパー・バックを買っておけば間違いない
自分が英語で伝える可能性のある内容を網羅しているもの
斎藤兆史の愛読書としては、
Japan ; An Illustrated Encyclopedia(エドウィン・O・ライシャワー、加藤一郎ほか監修『カラーペディア英文日本大辞典』講談社、1993年)(斎藤、2003年[2011年版]、178頁)。
〇素読(そどく)について
かつて日本には、主にオランダ人や中国人との交渉事務を担当する「通詞(つうじ)」と呼ばれる人たちがいた。
もともとオランダ通詞であった堀達之助は黒船来航の際には着席通詞として活躍して、のちに『英和対訳袖珍辞書』(1862年)を出版した。その堀達之助のひ孫にあたる堀豊彦の述懐によれば、彼は5、6歳になる祖父、孝之の前に正座をしてオランダ語と英語の素読を行なった。
「武家」が幼児に漢文の素読を授けたのと同じように、これが長崎の和蘭(オランダ)通詞に伝わる家風であったという。
〇読書百遍、意自ずから通ず
素読とは、意味や内容をあまり考えずに同じ文章を何度も音読することで、もともとは漢文の初学者向けの学習法であった。
寺子屋で勉強をする子供たちが声をそろえて、『論語』の素読をする図を想像してみるとよい。「子曰はく、学びて時にこれを習い、亦説(よろこ)ばしからずや、朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや」
寺子屋の子供たちは、ただ何度も何度も漢文を読んでいるうちにそのリズムを身につけ、やがて内容を少しずつ理解していくことになる。まさに「読書百遍、意自ずから通ず」である。
中世ヨーロッパのラテン語学習者も、そのようにしてラテン語を学んだようだ。この素読という優れた語学学習法は、残念ながら明治以降、ほとんど実践されなくなったが、斎藤はこれを勧めている(斎藤、2003年[2011年版]、32頁~34頁)。
どんなに時代が変わろうが、基礎的なことを何度も何度も繰り返して、体のなかに練り込むという学習の基本は変わらない。その学習法の語学版が素読であり、暗唱なのである。
英文法の重要性を再認識
〇文法解析
日系イギリス人作家カズオ・イシグロ(1954~)
『わたしたちが孤児だったころ』(Kazuo Ishiguro, When We Were Orphans, 2000)
イシグロの英文を文法的に細かく分析しているが、つねにこんな読み方をしていたのでは、多量の英文をこなすことはできない。
英語力を養うには、第7章で解説するとおり、とにかくたくさんの原書を読むことも必要である。だが、文法を正確に知っているのといないのとでは、文章の理解度がまったく違う。
最近の英語教育では、学習者が文法を身につける前から文章の大意を理解する読み方を推奨する傾向にあるが、これは本末転倒もはなはだしいという。
文法を正確に読み解く訓練をしているうちに、しだいに文法が気にならなくなって文章がさっと頭に入るようになる。これが正しい学習の順序である。
楽譜の約束事を覚え、譜面どおりに正確にピアノを弾く練習を重ねているうちに、いつの間にか譜面を見ながら自然に指が音楽を奏でるようになるのとまったく理屈は変わらない
(斎藤、2003年[2011年版]、49頁~50頁)。
〇接続詞becauseとforの用法の違い
イシグロも誤っているという(斎藤、2003年[2011年版]、52頁)。
会話の流暢さで母語話者の向こうを張るのは容易ではないが、文法や読解を含めた総合の英語力で母語話者を凌駕することは不可能ではない。
この機会に英文法の重要性をしっかりと再認識していただきたいという(斎藤、2003年[2011年版]、54頁)。
〇辞書活用法について
『研究社新英和大辞典』について
英語辞書の偉人・岩崎民平(たみへい、1892-1971)は、辞書編纂者として偉大な信頼を得ていた(『研究社新英和大辞典』第3版と第4版の編集主幹)
斎藤兆史は高校、大学時代を通じて、岩崎が編集主幹を務めた『研究社新英和中辞典』『研究社新英和大辞典』第4版を使って英語を読んできたという。つまり斎藤の英語学習は岩崎の辞書とともにあった。
斎藤が英語で飯を食うようになってからは、職業柄、さすがに雑多な辞書に当たらざるを得なくなった。
それでも翻訳の仕事をするときだけは、もっぱら『研究社新英和大辞典』第5版を使って訳語をひねり出したという。
斎藤は『研究社新英和大辞典』第6版の執筆に関わり、岩崎辞書学の伝統の末席に座することができたことを誇りに思っている(斎藤、2003年[2011年版]、56頁~57頁)。
〇辞書を引くことの重要性
斎藤は、語学力は辞書を引く回数に比例して伸びるものだと信じている。少なくとも読解力に関して言えば、辞書をこまめに引くか引かないかが決定的な差となる。これは達人たちの学習法を見れば明らかである。
ドイツ語達人に関口存男(つぎお、1894-1958)がいる。14歳のとき独学で勉強を始めるが、そのときの学習法がすごい。いきなり洋書屋に行き、ドイツ語訳の分厚い『罪と罰』を買ってきて、わけもわからずに辞書を引きながら読みはじめたのだという。本人は、「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか?」で回想している。ただ辞書を丹念に引いて文章を読むだけでも語学力が向上することを示すいい例であろう。これだけでは話が極論すぎて説得力に欠けるかもしれない(斎藤、2003年[2011年版]、57頁~58頁)。
そこで、虎の威を借る狐の自慢話に堕してしまうことを覚悟で、一つの逸話を紹介している。
斎藤兆史の『英語達人列伝』の縁で、折りに触れて岩崎民平の長女・林きよ子と手紙のやりとりをしているという。斎藤は『英語の味わい方』(NHKブックス)を出版するに際し、自らの信念に基づいて、「あとがき」に「一番手っ取り早く、確実な(しかし根気のいる)英文読解の勉強法はなんと言っても英書の多読である。しかも辞書をこまめに引いて読まなくてはいけない」と書き記した。
出版直後、林きよ子からお便りをいただいた。書店で見かけ、買い求め、感想が記してあった。あとがきで、こまめに辞書を引くことは、父がよく云っていた言葉だったという。岩崎民平は、辞書や文法書や注釈書における膨大な業績のわりに、英語学習にまつわる体験談や個人的な意見をあまり発表していないそうだ。その娘さんから手紙をもらい、尊敬する英語達人の英語学習論に触れ、それによって自分の英語教育が間違いではなかったことを確認できたのは幸運であったという(斎藤、2003年[2011年版]、58頁~59頁)。
〇単語帳の作り方
必要な情報を単語帳に書き写していく。この作業には重要な意味がある。じつは単語帳を作ることの本当の意味は、単に語義を目で確認するだけでなく、手を動かすことによって体に練り込むことにある。
昔、小説家を志す者は、志賀直哉の文章を原稿用紙に書き写して小説の勉強をしたという。たしかに、辞書を食べたという話と同じく、努力のすさまじさを伝える伝説、あるいは隠喩の意味もあるかもしれない。だが、小説の神様と言われた作家の文章を実際に手でなぞってみることで、その文体、リズム、筆遣いが自然に体に練り込まれるという実利的な側面もあったのだろうと斎藤は推測している。
コピーなどという便利なものがなかった時代、貴重な文献を書写して勉強した僧侶や学者が、ときに現代の技術をもってしても不可能と思われるような学問業績を残している。偉人であったこともさることながら、体を使った学習の効果があったものと考えている。
英文を声に出して読んだり、手でなぞったりしながら、五感を総動員して勉強すると学習効果が高い(斎藤、2003年[2011年版]、65頁~67頁)。
語彙力を高めるために、単語帳を作ることを勧めている。単語カードでは駄目で、普通のノートを用意し、次のようなことを記す。
例えば、irkという単語で
irk / 発音記号を記す。vt.[通例 itを主語として] 疲れさせる, あきあきさせる, うんざりさせる; いらいらさせる : It ~s me to wait.人を待つのはうんざりだ, 待つ身はつらい.
―n. 疲れ[あきあき]させること; 悩み[いらだたしさ]の種
単語によって必要な情報量は異なるが、ノートの罫線に沿って普通の大きさの字で書いたとして、3~6行くらいが妥当であるという(斎藤、2003年[2011年版]、62頁~65頁)。
〇洗練された言語表現を体感
ピアノが上手くなりたかったら、クラシックの名曲を暗譜するくらいまで弾き込まなくてはならない。体が覚えるまで手本をさらうこと。この学習の基本原則を語学に当てはめれば、例文の素読・暗唱ということになる。
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう、1872-1951)は、若いころイギリスで師事した英語の先生に暗唱を仕込まれている。
暗唱の手本は名文に限る。名文を読むとは、もっとも洗練された言語表現を体感することである。その朗読・暗唱を通じて美しい言葉の形を体に練り込むことほど手軽で有効な語学学習法はない。
朗読用の名文を選ぶ基準としてもっとも重要なものは、内容、修辞、音調の3点である。内容的に深いものを含んでおり、修辞技巧に優れており、そのうえ音の調子がいい。この三つの条件が揃っていれば、まず名文と考えていいという(斎藤、2003年[2011年版]、72頁~73頁)。
〇学習の目安
暗唱は、語学には欠かせない学習項目であるとはいえ、じっくりと時間をかけて行なわなくてはいけないものでもないらしい。
語学において中心となるのは、多読、それから作文や会話ということになると斎藤兆史は考えている。
そこで、暗唱を実践するときの目安としては、学習の早い段階である程度集中的に行ない、あとは名文と呼ばれるものに出くわしたときにそれを暗唱してみるとか、あるいは自選の名文集などを作っておいて、折に触れて朗読しながら暗唱を試みるくらいで構わない。
その際は、ラッセルやオーウェルやモームのエッセイを少しずつ区切って暗唱していくといいだろう。現代の作家だと、デイヴィッド・ロッジ(1935-)やカズオ・イシグロ(1954-の文章が読みやすい。
(ただし、イシグロの作品中、『充たされざる者』(The Unconsoled, 1995)だけは、一風変わった不条理小説なのでお勧めできないそうだ。そのほかの長編小説なら、すべて素読・暗唱用の教材として最適であると斎藤はいう)
また余裕があるなら、チャールズ・ディケンズの小説の名場面や、キング牧師の演説中の有名な‘I have a dream.’のくだりなどを暗唱してみるとよいらしい(斎藤、2003年[2011年版]、84頁~85頁)。
□マーチン・ルーサー・キング(1929-1968、39歳で凶弾に倒れる)
1963年8月、25万人の大群衆とともに「ワシントン大行進」を行い、この力強い大演説を行なった。
Let Freedom Ring ― I Have a Dream.
I say to you today, my friends, so even though we face
the difficulties of today and tomorrow, I still have a dream.
It is a dream deeply rooted in the American Dream.
I have a dream that one day this nation will rise up,
and live out the true meaning of its creed :
“We hold these truths to be self-evident, that all men are
created equal.”
〇英語達人になるための必須条件
多読とは、読んで字のごとく、多く読むことである。雑誌だろうが、ペーパーバックだろうが、理解可能な英語で書いてあるものは片っ端から読む。
英語の達人たち(新渡戸稲造、斎藤秀三郎など)は、修業時代のどこかで例外なく大量の英書を読んでいる。逆に言えば、英書の多読は英語達人になるための必須条件だと言ってもいい。英語の多読なくして高度な英語力の養成はあり得ない。
〇教材選びの目安
多読は、見方を変えれば速読でもある。同じ読み方ながら、読む量に焦点を当てれば多読となり、速度に焦点を当てれば速読ということになる。とにかく速く、たくさん読めばいいのだが、何を読んでもいいというわけではない。
暗唱の場合には、英文の質が問題であった。英文の質がよければ、極端な話、内容が理解できていなくても構わない。それを何度も読んでいるうちに、いい英語のリズムが体に練り込まれる。
だが、多読をする場合には、英文の質はさておき、かなりの速度で読みながら内容が頭に入るものでなければならない(まったく理解できない英会話の音声がいくら聴いてもただの雑音でしかないのと同様に、速読して頭に入らない英文は、いくら眺めていても、ただの白黒の模様でしかない)。
多読によって英語力をつけようと思ったら、辞書なしで、さっと読んで内容が7、8割理解できる程度の英文を選ばなくてはならない。一口に7、8割といっても、どの程度の読解力を指すか不明なので、読解力判定試験を斎藤は提示している。
(斎藤、2003年[2011年版]、88頁~89頁)。
〇成績判定と学習方針
細かい語彙の知識を有する読者なら、5分で英文の主旨を読み取れるはず
正答数だけを目安として学習方針を解説している。
①設問1、2ともに不正解であった場合
語彙が難しかった、論旨がつかめなかった、時間が足りなかったなどの理由があるだろうが、まだ多読・速読に入るのは時期尚早の感がある。辞書を引きながら、「辞書活用法」の章で解説したような単語帳を作りながら、文章のやさしい文学作品などを二つ、三つ読んでみるのがよいとする。
取っつきやすい作品としては、
『ハツカネズミと人間』『真珠』(John Steinbeck, Of Mice and Men, 1937. The Pearl,1947)
『動物農場』(George Orwell, Animal Farm, 1945)
『ティファニーで朝食を』(Truman Capote, Breakfast at Tiffany’s, 1958)
『老人と海』(Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea, 1952)
映画版が大ヒットした『卒業』(Charles Webb, The Graduation, 1963)
その他、名作を平易な英語で書き直した改作版やハリー・ポッター・シリーズでもいいだろうという。
ただ、この段階で英字新聞などは勧められない。英字新聞は、限られた紙面で最大限の情報を伝えることを至上の目的としているために、語法上や特殊な約束事に基づいて書かれている。だから、はじめのうちは、できるだけ癖のない、上質な英文を教材とするに限る(斎藤、2003年[2011年版]、97頁~100頁)。
②正答が1問だけの場合
成人母語話者向けに書かれたものを辞書なしで読むのは、やや無理があるかもしれない。上記のやさしい英語で書かれた作品を多読したり、本書で言及した作品、あるいは以下で挙げる作品の中から自らの関心に合わせて数冊選び、辞書を引きながら読んでみるのがいいだろう。
③2問とも正解の場合
これはもう英字新聞だろうが、雑誌だろうが、手当たり次第に読めばいい。ただし、できれば上質の英語で書かれた文学作品や随筆をたくさん読むことが望ましい。推薦図書は以下のとおりであるという。
Charles Dickens, David Copperfield (1849-50)
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland (1865)
Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (1884)
Thomas Hardy, Tess of the D’Urbenvilles (1891)
Oscar Wilde, The Importance of Being Earness (1895)
J.R.R.Tolkien, The Lord of the Ring (1954-55)
J.M.Coetzee, Disgrace (1999)
<補足>
・ディケンズは、弱者へのあたたかい同情を含んだ庶民性など、その独特の作風で知られる。『デービッド・カパーフィールド』は、ディケンズの半自伝的な小説である。
父親の死後生まれたデービッドは、母がマードストン氏と再婚すると、過酷な義父によって寄宿学校へ追いやられる。母の死後ロンドンの靴墨工場へ働きに出され、悲惨な貧困生活を味わうが、工場を逃げ出し、大伯母を頼り、その援助で法律を学び、弁護士の娘ドーラと恋をし、結婚。やがて作家として名をあげる。幼な妻の典型のようなドーラの死後は、貞淑聰明なアグネスと再婚する。
・また『ダーバービル家のテス』は、村の貧しい娘テスが、男のエゴイズムの犠牲になり、殺人を犯して処刑されるまでを描く悲劇的な物語である。
〇速読の速度について
問題は読む速度ということになる。将来、英語で飯を食おうという学生には少なくとも1日平均30ページ(欲を言えば40~50ページ)は読んでほしい。高度な読解力の養成を目指す社会人なら、1日平均10ページといったところかという。
ちなみに新渡戸稲造は、「五号活字の四六半載(はんさい)形の英書であれば、二分間で読むことは少しも困難ではない」(『修養』)と書いている。四六半載形の英書とは、1ページが四六判と呼ばれる大きさ(縦約19センチ×横約13センチ)の英語の原書のことらしい。
斎藤の出題した問題文を約2分で読み解く計算になるという。200~300ページの英書なら1日で読み終えてしまう速度であるという。
そこまでの多読・速読能力を身につけるのは容易なことではないとはいえ、毎日たゆまず努力すれば不可能ではない。少なくとも、より高い目標を掲げれば、それだけ高いところに登れるというものである。精進してほしいという。
発展学習として、さきの参考図書リストや、本書で言及した作家・作品紹介を参考にして、1年以内に最低2000ページ分の英文を読みなさいとする(斎藤、2003年[2011年版]、101頁~102頁)。
〇作文
語学力を論じる際、それを聴解力、会話力、読解力や作文力の四つの能力に分けることが多い。そして、通例、話し言葉の運用能力として最初の二つを書き言葉の運用能力としてあとの二つを組み合わせる。昨今の英語教育において、残念ながら、前者にのみ力点が置かれていると斎藤は批判している。
斎藤自身の英語学習・教育の経験から言えば、学習段階が進むにつれ、聴解力は読解力に、会話力は作文力に近づいてくる。すなわち伝達内容が高度になれば、話し言葉と書き言葉の差が小さくなり、今度は語学力が理解(聴解と読解)と生成(会話と作文)という形で分極化するという。
だから、高度な内容のことを口頭で伝えられるようになりたかったら、作文の練習をみっちりやっておくとよい。最初は、1文書くのにも苦労するかもしれないが、やがて文章を書き慣れてくると、頭のなかだけである程度まとまった文章の枠組みを作ることができるようになる。そうなれば、しめたものだ。
今度は、それを元に空で文章を仕上げるような練習をすれば、会話や口頭発表もうまくなる。
もちろん、会話や口頭発表の上達を目的としたものでなくても、作文は作文として意味がある。それどころか、語学力のなかでおそらくもっとも高度な技術である作文術を会得しないかぎり、いくら日常的な英会話が器用にこなせたとしても、英語を習得したとは言いがたい。いやしくも英語を使って仕事をしていると言うからには、修辞法の利いた手紙や電子メール、あるいは文法的な誤りのない企画書を書くぐらいの英語力がなくてはいけない。
〇見たことのある英語表現だけを使う
作文練習を行なうにも、基本は同じである。真似と反復である。最終的には、文学的な創作という高みを目指すと言っても、最初から文法や文体的慣例を無視してただ書きまくっていたのでは、変な癖がついて、むしろ逆効果となる。例えば、当たり前の単語ばかりを使っているのに、その並び方、結びつき方が珍妙なために、英語のリズムに乗って、すんなりとその意味が頭に入ってこない。いったん変な英語を使う癖のついた学生に英作文を仕込むのは、一から英語を教えはじめるよりもはるかに骨が折れるそうだ。まずは、その体に染みついたおかしなリズムを忘れさせるために余計な手間がかかるから。
向学心も根性もありながら英語の語感だけが悪い大学院生に、英語の論文を書かせるのに、厳しい訓練項目を課すととともに、一つだけ特別な禁止条項を設けたという。それは半年の間、よほどの必要に迫られないかぎり、英語を話したり書いたりしてはいけないというものであった。その指導が功を奏して、1年後には語感もだいぶ矯正されていたという。
要するに、ひとりよがりの英語を書いてはいけないということである。最初のうちは、継ぎはぎだらけでもいいから、見たことのある表現だけを使って作文をする習慣を身につけること。もちろん読書量が少なければ、必然的に見たことのある英語表現は限られてくるから、ろくな作文はできない。
一つの文章を書き上げるのに、少なくともその数十倍の関連文献を読んで、使えそうな表現を拾い出すくらいの作業が必要である。欲を言えば、多読の修業中にもつねに自分が英語を書くときのことを想定し、役に立ちそうな表現が出てきたら、ノートに書き取っておくくらいの努力をしてほしい(ただし、剽窃の罪に問われる危険性があるので、手本として使用するのは、語彙項目や慣用表現くらいにとどめておくのが無難であるという)(斎藤、2003年[2011年版]、119頁~120頁)。
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