≪漢字について その5≫
(2021年3月20日投稿)
ひきつづき、漢字について、藤堂明保『漢字の話』(朝日選書)や『漢字の過去と未来』(岩波新書)をもとに考えてみる。とりわけ、漢語の本質、「者」の意味、唐宋音、和製漢字について述べてみたい。
ところで、白川静は漢字学の権威である。松岡正剛『白川静―漢字の世界観』(平凡社新書)をもとに、その漢字学の解説をしておきたい。
その他、漢字と教育との関係、日本語の変わりゆく意味についても付言しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
漢語の大部分は、右側の旁(つくり)を親として、それから派生した「ことばの仲間、漢字の仲間」からできているという。これが漢語の本質である。そして漢字教育の根本は、「ことばの仲間」をしっかりつかませることにあると藤堂明保は主張している。
例えば、旁の一つ侖(リン・ロン)は、冊(竹や木の机を並べた短冊つづり)と合(あわせる)の上半分をあわせた字で、短冊をきちんと並べて、順序が狂わないようにまとめたさまを表している。
①輪(きちんと車の矢を並べて、外枠でまとめたわ)
②倫(きちんと整理してまとめた人間関係)
③論(きちんと並べてまとめたことば)
これらは、リンまたはロンと発音し、すべて「きちんと並んでまとまる」というイメージを共有しており、その親は右側の「つくり」の侖であるというのである。
ただ、「整然と並べてまとめた物」をすべてリン(ロン)と表現するとすれば混同がおこるので、文字では車へん・人べん・言べんをそえ、話すときには車輪・人倫・言論のように、二字の熟語で表現することとなった。ここに漢語の本質の一つがあるという。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、260頁~261頁)。
【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】
漢字の話〈下〉 (朝日選書)
このように、言語の本質は「音と意味の結びつき」にあるという藤堂明保の持論に基づいて、漢字の「ことばの仲間」を一括して教えるのが漢字教育の本すじであると主張している。
他の例を挙げれば、主―柱―住―注―駐、青―清―晴―精―静、系―係―継、布―敷―普などが「ことばの仲間」である。
悠然、悠悠という形容語についても、日本人は誤解していると指摘している。その意味は「細く長く、絶えそうで絶えずに続くさま」をいうのであり、「悠悠たる生死、別れてより年を経たり」(長恨歌)とは、まさにその意味であるという。「ゆったり」などという意味ではない。「悠然として南山の見ゆる」とは「いつまでも、いつまでも」という意味である。
中国で魯迅が文学者の漢字乱用を戒めたのと、同じことが日本でもいえると批判している。その魯迅は、次のようなことを述べている。
「中国の文人は、嵯峨(さが)とか岑崟(しんきん)とか形容する山が、はたしてどんな山か、画を書いて示せと言われたら、当惑するだろう。ことばの意味を知らずに、ただ古いことばだというだけで、なんとなくその上にあぐらをかいて得意になっている」「雪が降るのを霏霏(ひひ)とか、紛紛(ふんぷん)とか形容するよりも、練りあげられた民間のことばを用いて、降りしきる(原文は下得緊、ひしひしと)と言ったほうが、ずっとよい」と(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、183頁~184頁、193頁~194頁)。
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漢字の過去と未来 (1982年) (岩波新書)
「者」というのは、煮(火力を集中する)のもとになる字である。これはコンロの上で柴を燃やして、火熱を放散させないようにしているさまを描いているという。だから「集中していっぱいにつめる」という意味があるようだ。要は、集中・充実するという意味がある。
この「者」を含む漢字として、例えば、
①都は、人間が集中していっぱいに詰まった所→みやこ
②堵(と)は、土をいっぱいつめる
③暑は、日の熱が集中する→あつい
④豬もしくは猪(ちょ、いのしし)は、「豕(ぶた)+者」からなっており、充実して肉がいっぱい詰まったけもの→いのししという意味になる。また猪(ちょ)は、貯蓄の貯(ちょ)で、いっぱい詰めこんであることを意味するという。
「者」の原義・イメージを理解しているだけで、語彙力が豊かになるのができる。ここに漢字学の真骨頂がある(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、47頁)。
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漢字の話〈上〉 (朝日選書)
新漢音の次に、かなり大幅に登場するのが、いわゆる「唐宋音」である。「唐宋音」は、鎌倉・室町時代に、中国の宋・元・明と往来した禅宗の僧侶、および御朱印船で往来した商人たちによって伝承された、“中世的”な漢語の発音である。禅宗の清規(しんぎ)(起居作法のきまり)には唐宋音がよく保存されているといわれ、当時輸入された日常器具や食物の名は多く、唐宋音で呼ばれた。
唐宋音の例としては、
<宗教>普請(フシン)、庫裡(クリ)、和尚(オショウ)
<食物>饅頭(マンジュウ)、饂飩(ウドン)、喫茶(キッサ)
<器物>瓶(ビン)、椅子(イス)、緞子(ドンス)、箪笥(タンス)、火燵(コタツ)、蒲団(フトン)、行灯(アンドン)、暖簾(ノレン)、算盤(ソロバン)
<雑>胡散(ウサン)、行脚(アンギャ)、栗鼠(リス)
たとえば、椅子は「イス」と読み、「イシ」と読まないのは、この唐宋音であったからとわかる。というのは椅子の「子」は、もとtsiで、漢音ではシと音訳したが、宋元時代にはそれがtsuuとなったので、唐宋音では「子(ス)」と音訳したからである
日本語の唐宋音の特色は、全体としては今日の北京語によく似ているそうだ。なぜなら、今の北京語は宋元時代の中原の共通語の、直系の子孫であるからであるという。北京語は日本の唐宋音とは「またいとこ」ぐらいの縁があり、似ているのも当然だと言えると藤堂明保は解説している(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、164頁~168頁)。
和製漢字を収録した書として名高いのは、江戸時代の学者新井白石の『同文通考』である。白石は、たとえ和製の漢字でも、生活に必要ならば用いてよいとの旨を述べ、多くの和製漢字を示している。
そのうち今日でも用いられている字としては、辻(つじ)、峠(とうげ)、裃(かみしも)、颪(おろし)、丼(どんぶり、中国では井戸の「井」の古い字体)、躾(しつけ)がある。
和製漢字の大部分は、いわゆる会意文字の原則に従って作られたものであるという。たとえば、
①神前に供える木を「榊」と書き、
②十字の路を「辻」と書き、
③身ぶりの美しさを「躾」と書き、
④上って下る山を「峠」」と書く場合がそれである。
「真(ま)+木(き)」のような訓を合わせて「槙」と書くのも、その中の特例を考えてよいと藤堂はみなしている(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、133頁~134頁)。
「文字は世界を記憶している方舟である」といわれる。白川静は96歳の生涯の大半をかけてその方舟に乗り続けた。『詩経』と『万葉集』を耽読することが古代文字文化研究の端緒となったといわれる(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、22頁、31頁)。
白川静は、古代人がどのような発想の言葉をもって、どのような場面やどのような出来事を、そしてどのような心境を、どのように起興していたのかについて、「興(きょう)」を焦点に考察した。
そこから、古代歌謡というものがかなり呪的な方法で歌を詠んでいたことが見えてきた。すなわち、「神的なものに対しては、呪的な言語が必要とするが、歌謡はその呪的な言語から起ったものである」と述べている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、128頁~129頁)。
白川静の詩経論や万葉論では、「歌謡の原質ともいうべきものは、人びとがなお神々の呪縛の中にある時代に発している」という根本的な視点がつらぬかれている。そのうえで、古代中国と古代日本が神々からの呪縛からはずれていく過程も論証されている。
中国における古代的な氏族の解体は西周の後期からはじまり、日本では『万葉集』初期の時代を想定している。『詩経』と『万葉集』という二つの古代歌謡集にみられる本質的類同には、この古代的氏族社会の崩壊という、社会史的事実に基づくと推測した。つまり二つの類同は、両者とも古代社会が崩壊した過程を共有していたからだとみている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、170頁~173頁)。
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白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)
『漢字―生い立ちとその背景―』(岩波新書、1970年[1972年版])において、白川静は、文字について、「文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するためのものであったからである」と結んでいる(白川、1970年[1972年版]、188頁)。
ところで、白川静の『漢字』(岩波新書)は、1970年、60歳のときの著作である。この著書に対して、当時高名な漢字学者であった藤堂明保が、「なぜに岩波ともあろう出版社があんな本を書かせたのか」という文句をつけた。これは“業界事件”の一つとなった。
一方、白川静は「文字学の方法」という反論により、自らの研究方法および藤堂明保批判を述べて、白川の圧勝に終わったといわれる(松岡、2008年、116頁~117頁)。
また、いわゆる語源を探究する際にも、西洋と東洋とでは、その相違点がある。欧米社会は表音文字が中心の社会であるので、アルファベットの字体そのものを考証する必要はなく、綴り(スペル)が調査され、そこから語源学を誕生させた。しかし、表意文字を中心とした漢字文化圏では、そうはゆかず、語源は字源と密接に結びつき、字源は密接に字体や字形と結びついているといわれる。その上、多くの字体字形は1000年をへて変化しつづけてきたから、東洋におけるレキシコグラファー(辞書編纂者)は、苦闘と苦心と刻苦勉励が求められた(松岡、2008年、199頁~201頁)。
ことばが、神とともにあり、神そのものであった時代に、神と交渉をもつ直接の手段は、ことばの呪能を高度に発揮することであった。「ことだまの幸(さき)はふ国」というのは、日本古代のみではない。中国にあっても、そのことだまへのおそれは、古代文字の構成の上にあらわれていると白川静は説く。
諺(げん)は日本では古く「わざうた」とよまれているが、「わざ」とは、呪的な力をもつ意である。ことわざも同じく、呪的な言語であったという。つまりことわざのわざは、わざわいを示す語であるから、諺は本来は呪言をいうとする。善悪の両義に用いられるが、いずれかといえば、呪詛に近い語である。言語はもともと呪言で、言は辛と祝告の「∀」に従って、自己詛盟の語、語は呪詛をふせぐ防禦的な語であるという(白川静『漢字』岩波新書、1970年[1972年版]、131頁~134頁)。
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漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)
また、たとえば、「道」という漢字に、なぜ「首」という字があるのだろうか。考えてみれば、不思議である。その理由を漢字の歴史という視点から、論理的、実証的に説明してくれるのが、漢字学者白川静である。
「道」に「首」がつくのは、中国古代の呪能、呪詛が関連していると説く。
「峠路や海上でなくても、道はおそるべきものであった。もし呪詛が加えられていると、人は必ずそのわざわいを受けた。そのため道路には、これを防ぐ種々の呪禁を加えておく必要がある。道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった。金文の字形には、首を手に持った字形がかかれている。それは戦争のための先導を意味する用法であるが、あるいは実際に首を捧げて、呪禁を加えながら行軍をしていたのかも知れない。異族神に対する行為であるから、おそらく異族の首を奉じていたのであろう。異族の首を境界のところに埋めておくことも、呪禁として有効であった」(白川、1970年[1972年版]、43頁)。
白川学によって、文字の意味を追っていくと、古代社会の根幹がヴィヴィッドに躍り出て、古代東洋の世界像がその相貌をあらわしてくる。文字を解義し、語源をつらねていくことは、われわれが歴史的世界観をもつためには、肝要なことである。
「道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった」と述べているように、「道」という字は、古代社会で最も呪術が施されてきたところであるという。道は正体不明の“さばへなす邪霊”が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するところであって、由々しいことが頻繁におこりうる。そこで、氏族の長や従者たちはあえて異族の首を掲げて行進したそうだ。恐ろしくも、「道」に首がついているのは、この理由によるという。このように、「道」はおそるべきものであったのである(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、196頁~197頁)。
高村光太郎の有名な詩「道程」(1914年刊)には、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」とある。
高村は、白川の説く「道」の原義を知っていたのであろうか。「道」に対する強い意志が感じられる男性的な詩が「道程」であるが、もし白川の言うような意味の「道」だとすると、おどろおどろしく、猟奇的な詩になってしまうであろう。余計な想像はこれくらいにしておこう。
日本の近代の漢字廃止論、漢字制限論は、近代郵便制度の創始者・前島密(ひそか)が1867年に建白書「漢字御廃止之議」を徳川慶喜に上申したことに端を発しているようである。福沢諭吉は、1873年に漢字制限論を唱えて、比較的穏健派に属した。しかし、最も過激なものは、後の文部大臣・森有礼(ありのり)の英語国語論(1872年)、志賀直哉の仏語国語論(1946年)がある。またローマ国字論を、1874年、哲学者・西周が提唱し、1946年、アメリカ教育使節団も提唱した。そして仮名書き論を、1876年に、国語学者・大槻文彦が唱えたりしている。
このように、近代以降、決して緻密とは言えない効率論で、漢字は不当に差別され続けてきた(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、205頁)。
【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社はこちらから】
現代作家100人の字 (新潮文庫)
ヨーロッパ人は漢字を“悪魔の文字”と呼んだといわれる。26字の組み合わせで言葉で綴っている彼らは、2000、3000という別個の文字を記憶することを大きな負担と考えた。第二次世界大戦後でさえ、昭和21年、アメリカ教育使節団は、報告書の一節「日本語の改革」の中で、「早晩普通一般の国字においては漢字は全廃され、ある音標式表記法が採用されるべきものと信ずる」と述べ、アメリカ軍総司令部に提出したようだ。
さて、漢字と教育との関係は古くて新しい問題であることを、冨田先生のエッセイを読んで痛感した。第4章「ベトナムに漢字教育の復活を」(120頁~132頁)とりわけ「漢字ルビとベトナム語教育」(130頁~132頁)、「漢字体の国際統一」(132頁)を読んで、そう感じる。
すなわち、ベトナムを含めた漢字文化圏の人々が無理なく共通の漢字に接近し、親しめる環境を作ることが急務であるとし、漢字を用いることが漢字文化圏の国々との経済的・文化的交流を飛躍的に高める効用を重視するとの立場から、中国(極端な簡体字)や日本の漢字体の多様化をもう一度見直し、国際的に統一する必要があると提言しておられる。
ところで中国語学者の阿辻哲次も『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』(PHP新書、1999年)において、コンピュータ社会で文字を機械で書く時代がますます進むために、漢字のコード体系を国際的に統一する必要が焦眉の急となっている点を力説している(阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年、212頁~233頁)。
現代では、「漢字文化圏」という集団が過去のような強力な文化的結束力をもたなくなっているのも事実だが、かつて東アジアに存在した「漢字文化圏」を正面に据え、その歴史的意義と今後の展望に関して、今後も熱心に議論されるべきであろう。
この点、大野晋は、1966年段階で既に、国語政策の課題に関して、次のような示唆的な言説を述べている。
「このままで行けば将来の日本語の中で漢語の占める役割は低下するであろう。しかし、日本語の造語力を回復する、新しい語彙の体系についての正しい見通しと方策とを持たなければ、依然として耳で聞いても簡単には分らないカタカナ英語などが、その後に入れ代るだけである。
単なる復古主義では、今後の新しい機械文明による文字の広汎な伝達の必要に応えることができないであろう。それと同時に、行きすぎた便利主義によって、言語の厳密な表現、正確な表現を削り去るならばそれは文化の低俗化だけをもたらすであろう。言語や文字は、どんな文化においても、厳密に、正確に、正統性をもって維持されなければならない。言語における必要な改革は、常に公正に行なわなければならない。それによってのみ言語は文化の媒体、文化それ自身として人間生活に重要な貢献をするのである。この両者を考え合わせ、すでに戦後二十年を経て、新しい教育をうけた多数の国民が世に出ていることを見、その間で、どんな道をとることが最善であるかを発見すること。それが今後の国語教育の課題である。そのためにも、日本語の歴史を静かに真剣に顧み、そこから出発して将来の文化の発展へと進まなければならない。」(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、289頁~290頁)
【阿辻哲次『漢字の社会史』はこちらから】
漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年 (PHP新書)
【大野晋『日本語の年輪』新潮文庫はこちらから】
日本語の年輪 (新潮文庫)
日本語の歴史には、意味の変化が見られる。例えば、「ありがとう」は、「有り難く」のウ音便で、もともと「めったにない」「珍しく貴重だ」の意味だったが、感謝の意を表すようになる。そして「さようなら」は「左様なら」「そういうことなら」と相手を肯定する意味から別れのあいさつの言葉になる。また「ごちそう」(漢字では「馳走(ちそう)」と書く)は、もとは「馬を駆って走り回る」の意味から「世話をする」、そして今では「おいしい料理」「もてなす料理」という意味に変化した。
(2021年3月20日投稿)
【はじめに】
ひきつづき、漢字について、藤堂明保『漢字の話』(朝日選書)や『漢字の過去と未来』(岩波新書)をもとに考えてみる。とりわけ、漢語の本質、「者」の意味、唐宋音、和製漢字について述べてみたい。
ところで、白川静は漢字学の権威である。松岡正剛『白川静―漢字の世界観』(平凡社新書)をもとに、その漢字学の解説をしておきたい。
その他、漢字と教育との関係、日本語の変わりゆく意味についても付言しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
<その5>
・漢語の本質について
・「者」の意味について
・唐宋音について
・和製漢字について
・白川静と漢字学について
・漢字と教育との関係について
・日本語の変わりゆく意味
漢語の本質について
漢語の大部分は、右側の旁(つくり)を親として、それから派生した「ことばの仲間、漢字の仲間」からできているという。これが漢語の本質である。そして漢字教育の根本は、「ことばの仲間」をしっかりつかませることにあると藤堂明保は主張している。
例えば、旁の一つ侖(リン・ロン)は、冊(竹や木の机を並べた短冊つづり)と合(あわせる)の上半分をあわせた字で、短冊をきちんと並べて、順序が狂わないようにまとめたさまを表している。
①輪(きちんと車の矢を並べて、外枠でまとめたわ)
②倫(きちんと整理してまとめた人間関係)
③論(きちんと並べてまとめたことば)
これらは、リンまたはロンと発音し、すべて「きちんと並んでまとまる」というイメージを共有しており、その親は右側の「つくり」の侖であるというのである。
ただ、「整然と並べてまとめた物」をすべてリン(ロン)と表現するとすれば混同がおこるので、文字では車へん・人べん・言べんをそえ、話すときには車輪・人倫・言論のように、二字の熟語で表現することとなった。ここに漢語の本質の一つがあるという。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、260頁~261頁)。
【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】
漢字の話〈下〉 (朝日選書)
このように、言語の本質は「音と意味の結びつき」にあるという藤堂明保の持論に基づいて、漢字の「ことばの仲間」を一括して教えるのが漢字教育の本すじであると主張している。
他の例を挙げれば、主―柱―住―注―駐、青―清―晴―精―静、系―係―継、布―敷―普などが「ことばの仲間」である。
悠然、悠悠という形容語についても、日本人は誤解していると指摘している。その意味は「細く長く、絶えそうで絶えずに続くさま」をいうのであり、「悠悠たる生死、別れてより年を経たり」(長恨歌)とは、まさにその意味であるという。「ゆったり」などという意味ではない。「悠然として南山の見ゆる」とは「いつまでも、いつまでも」という意味である。
中国で魯迅が文学者の漢字乱用を戒めたのと、同じことが日本でもいえると批判している。その魯迅は、次のようなことを述べている。
「中国の文人は、嵯峨(さが)とか岑崟(しんきん)とか形容する山が、はたしてどんな山か、画を書いて示せと言われたら、当惑するだろう。ことばの意味を知らずに、ただ古いことばだというだけで、なんとなくその上にあぐらをかいて得意になっている」「雪が降るのを霏霏(ひひ)とか、紛紛(ふんぷん)とか形容するよりも、練りあげられた民間のことばを用いて、降りしきる(原文は下得緊、ひしひしと)と言ったほうが、ずっとよい」と(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、183頁~184頁、193頁~194頁)。
【藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書はこちらから】
漢字の過去と未来 (1982年) (岩波新書)
「者」の意味について
「者」というのは、煮(火力を集中する)のもとになる字である。これはコンロの上で柴を燃やして、火熱を放散させないようにしているさまを描いているという。だから「集中していっぱいにつめる」という意味があるようだ。要は、集中・充実するという意味がある。
この「者」を含む漢字として、例えば、
①都は、人間が集中していっぱいに詰まった所→みやこ
②堵(と)は、土をいっぱいつめる
③暑は、日の熱が集中する→あつい
④豬もしくは猪(ちょ、いのしし)は、「豕(ぶた)+者」からなっており、充実して肉がいっぱい詰まったけもの→いのししという意味になる。また猪(ちょ)は、貯蓄の貯(ちょ)で、いっぱい詰めこんであることを意味するという。
「者」の原義・イメージを理解しているだけで、語彙力が豊かになるのができる。ここに漢字学の真骨頂がある(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、47頁)。
【藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書はこちらから】
漢字の話〈上〉 (朝日選書)
唐宋音について
新漢音の次に、かなり大幅に登場するのが、いわゆる「唐宋音」である。「唐宋音」は、鎌倉・室町時代に、中国の宋・元・明と往来した禅宗の僧侶、および御朱印船で往来した商人たちによって伝承された、“中世的”な漢語の発音である。禅宗の清規(しんぎ)(起居作法のきまり)には唐宋音がよく保存されているといわれ、当時輸入された日常器具や食物の名は多く、唐宋音で呼ばれた。
唐宋音の例としては、
<宗教>普請(フシン)、庫裡(クリ)、和尚(オショウ)
<食物>饅頭(マンジュウ)、饂飩(ウドン)、喫茶(キッサ)
<器物>瓶(ビン)、椅子(イス)、緞子(ドンス)、箪笥(タンス)、火燵(コタツ)、蒲団(フトン)、行灯(アンドン)、暖簾(ノレン)、算盤(ソロバン)
<雑>胡散(ウサン)、行脚(アンギャ)、栗鼠(リス)
たとえば、椅子は「イス」と読み、「イシ」と読まないのは、この唐宋音であったからとわかる。というのは椅子の「子」は、もとtsiで、漢音ではシと音訳したが、宋元時代にはそれがtsuuとなったので、唐宋音では「子(ス)」と音訳したからである
日本語の唐宋音の特色は、全体としては今日の北京語によく似ているそうだ。なぜなら、今の北京語は宋元時代の中原の共通語の、直系の子孫であるからであるという。北京語は日本の唐宋音とは「またいとこ」ぐらいの縁があり、似ているのも当然だと言えると藤堂明保は解説している(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、164頁~168頁)。
和製漢字について
和製漢字を収録した書として名高いのは、江戸時代の学者新井白石の『同文通考』である。白石は、たとえ和製の漢字でも、生活に必要ならば用いてよいとの旨を述べ、多くの和製漢字を示している。
そのうち今日でも用いられている字としては、辻(つじ)、峠(とうげ)、裃(かみしも)、颪(おろし)、丼(どんぶり、中国では井戸の「井」の古い字体)、躾(しつけ)がある。
和製漢字の大部分は、いわゆる会意文字の原則に従って作られたものであるという。たとえば、
①神前に供える木を「榊」と書き、
②十字の路を「辻」と書き、
③身ぶりの美しさを「躾」と書き、
④上って下る山を「峠」」と書く場合がそれである。
「真(ま)+木(き)」のような訓を合わせて「槙」と書くのも、その中の特例を考えてよいと藤堂はみなしている(藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]、133頁~134頁)。
白川静と漢字学について
「文字は世界を記憶している方舟である」といわれる。白川静は96歳の生涯の大半をかけてその方舟に乗り続けた。『詩経』と『万葉集』を耽読することが古代文字文化研究の端緒となったといわれる(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、22頁、31頁)。
白川静は、古代人がどのような発想の言葉をもって、どのような場面やどのような出来事を、そしてどのような心境を、どのように起興していたのかについて、「興(きょう)」を焦点に考察した。
そこから、古代歌謡というものがかなり呪的な方法で歌を詠んでいたことが見えてきた。すなわち、「神的なものに対しては、呪的な言語が必要とするが、歌謡はその呪的な言語から起ったものである」と述べている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、128頁~129頁)。
白川静の詩経論や万葉論では、「歌謡の原質ともいうべきものは、人びとがなお神々の呪縛の中にある時代に発している」という根本的な視点がつらぬかれている。そのうえで、古代中国と古代日本が神々からの呪縛からはずれていく過程も論証されている。
中国における古代的な氏族の解体は西周の後期からはじまり、日本では『万葉集』初期の時代を想定している。『詩経』と『万葉集』という二つの古代歌謡集にみられる本質的類同には、この古代的氏族社会の崩壊という、社会史的事実に基づくと推測した。つまり二つの類同は、両者とも古代社会が崩壊した過程を共有していたからだとみている(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、170頁~173頁)。
【松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書はこちらから】
白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)
『漢字―生い立ちとその背景―』(岩波新書、1970年[1972年版])において、白川静は、文字について、「文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するためのものであったからである」と結んでいる(白川、1970年[1972年版]、188頁)。
ところで、白川静の『漢字』(岩波新書)は、1970年、60歳のときの著作である。この著書に対して、当時高名な漢字学者であった藤堂明保が、「なぜに岩波ともあろう出版社があんな本を書かせたのか」という文句をつけた。これは“業界事件”の一つとなった。
一方、白川静は「文字学の方法」という反論により、自らの研究方法および藤堂明保批判を述べて、白川の圧勝に終わったといわれる(松岡、2008年、116頁~117頁)。
また、いわゆる語源を探究する際にも、西洋と東洋とでは、その相違点がある。欧米社会は表音文字が中心の社会であるので、アルファベットの字体そのものを考証する必要はなく、綴り(スペル)が調査され、そこから語源学を誕生させた。しかし、表意文字を中心とした漢字文化圏では、そうはゆかず、語源は字源と密接に結びつき、字源は密接に字体や字形と結びついているといわれる。その上、多くの字体字形は1000年をへて変化しつづけてきたから、東洋におけるレキシコグラファー(辞書編纂者)は、苦闘と苦心と刻苦勉励が求められた(松岡、2008年、199頁~201頁)。
ことばが、神とともにあり、神そのものであった時代に、神と交渉をもつ直接の手段は、ことばの呪能を高度に発揮することであった。「ことだまの幸(さき)はふ国」というのは、日本古代のみではない。中国にあっても、そのことだまへのおそれは、古代文字の構成の上にあらわれていると白川静は説く。
諺(げん)は日本では古く「わざうた」とよまれているが、「わざ」とは、呪的な力をもつ意である。ことわざも同じく、呪的な言語であったという。つまりことわざのわざは、わざわいを示す語であるから、諺は本来は呪言をいうとする。善悪の両義に用いられるが、いずれかといえば、呪詛に近い語である。言語はもともと呪言で、言は辛と祝告の「∀」に従って、自己詛盟の語、語は呪詛をふせぐ防禦的な語であるという(白川静『漢字』岩波新書、1970年[1972年版]、131頁~134頁)。
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漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)
また、たとえば、「道」という漢字に、なぜ「首」という字があるのだろうか。考えてみれば、不思議である。その理由を漢字の歴史という視点から、論理的、実証的に説明してくれるのが、漢字学者白川静である。
「道」に「首」がつくのは、中国古代の呪能、呪詛が関連していると説く。
「峠路や海上でなくても、道はおそるべきものであった。もし呪詛が加えられていると、人は必ずそのわざわいを受けた。そのため道路には、これを防ぐ種々の呪禁を加えておく必要がある。道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった。金文の字形には、首を手に持った字形がかかれている。それは戦争のための先導を意味する用法であるが、あるいは実際に首を捧げて、呪禁を加えながら行軍をしていたのかも知れない。異族神に対する行為であるから、おそらく異族の首を奉じていたのであろう。異族の首を境界のところに埋めておくことも、呪禁として有効であった」(白川、1970年[1972年版]、43頁)。
白川学によって、文字の意味を追っていくと、古代社会の根幹がヴィヴィッドに躍り出て、古代東洋の世界像がその相貌をあらわしてくる。文字を解義し、語源をつらねていくことは、われわれが歴史的世界観をもつためには、肝要なことである。
「道はその字形の通り、首を埋めて修祓を加えた道であった」と述べているように、「道」という字は、古代社会で最も呪術が施されてきたところであるという。道は正体不明の“さばへなす邪霊”が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するところであって、由々しいことが頻繁におこりうる。そこで、氏族の長や従者たちはあえて異族の首を掲げて行進したそうだ。恐ろしくも、「道」に首がついているのは、この理由によるという。このように、「道」はおそるべきものであったのである(松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年、196頁~197頁)。
高村光太郎の有名な詩「道程」(1914年刊)には、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」とある。
高村は、白川の説く「道」の原義を知っていたのであろうか。「道」に対する強い意志が感じられる男性的な詩が「道程」であるが、もし白川の言うような意味の「道」だとすると、おどろおどろしく、猟奇的な詩になってしまうであろう。余計な想像はこれくらいにしておこう。
漢字と教育との関係について
日本の近代の漢字廃止論、漢字制限論は、近代郵便制度の創始者・前島密(ひそか)が1867年に建白書「漢字御廃止之議」を徳川慶喜に上申したことに端を発しているようである。福沢諭吉は、1873年に漢字制限論を唱えて、比較的穏健派に属した。しかし、最も過激なものは、後の文部大臣・森有礼(ありのり)の英語国語論(1872年)、志賀直哉の仏語国語論(1946年)がある。またローマ国字論を、1874年、哲学者・西周が提唱し、1946年、アメリカ教育使節団も提唱した。そして仮名書き論を、1876年に、国語学者・大槻文彦が唱えたりしている。
このように、近代以降、決して緻密とは言えない効率論で、漢字は不当に差別され続けてきた(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、205頁)。
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現代作家100人の字 (新潮文庫)
ヨーロッパ人は漢字を“悪魔の文字”と呼んだといわれる。26字の組み合わせで言葉で綴っている彼らは、2000、3000という別個の文字を記憶することを大きな負担と考えた。第二次世界大戦後でさえ、昭和21年、アメリカ教育使節団は、報告書の一節「日本語の改革」の中で、「早晩普通一般の国字においては漢字は全廃され、ある音標式表記法が採用されるべきものと信ずる」と述べ、アメリカ軍総司令部に提出したようだ。
さて、漢字と教育との関係は古くて新しい問題であることを、冨田先生のエッセイを読んで痛感した。第4章「ベトナムに漢字教育の復活を」(120頁~132頁)とりわけ「漢字ルビとベトナム語教育」(130頁~132頁)、「漢字体の国際統一」(132頁)を読んで、そう感じる。
すなわち、ベトナムを含めた漢字文化圏の人々が無理なく共通の漢字に接近し、親しめる環境を作ることが急務であるとし、漢字を用いることが漢字文化圏の国々との経済的・文化的交流を飛躍的に高める効用を重視するとの立場から、中国(極端な簡体字)や日本の漢字体の多様化をもう一度見直し、国際的に統一する必要があると提言しておられる。
ところで中国語学者の阿辻哲次も『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』(PHP新書、1999年)において、コンピュータ社会で文字を機械で書く時代がますます進むために、漢字のコード体系を国際的に統一する必要が焦眉の急となっている点を力説している(阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年、212頁~233頁)。
現代では、「漢字文化圏」という集団が過去のような強力な文化的結束力をもたなくなっているのも事実だが、かつて東アジアに存在した「漢字文化圏」を正面に据え、その歴史的意義と今後の展望に関して、今後も熱心に議論されるべきであろう。
この点、大野晋は、1966年段階で既に、国語政策の課題に関して、次のような示唆的な言説を述べている。
「このままで行けば将来の日本語の中で漢語の占める役割は低下するであろう。しかし、日本語の造語力を回復する、新しい語彙の体系についての正しい見通しと方策とを持たなければ、依然として耳で聞いても簡単には分らないカタカナ英語などが、その後に入れ代るだけである。
単なる復古主義では、今後の新しい機械文明による文字の広汎な伝達の必要に応えることができないであろう。それと同時に、行きすぎた便利主義によって、言語の厳密な表現、正確な表現を削り去るならばそれは文化の低俗化だけをもたらすであろう。言語や文字は、どんな文化においても、厳密に、正確に、正統性をもって維持されなければならない。言語における必要な改革は、常に公正に行なわなければならない。それによってのみ言語は文化の媒体、文化それ自身として人間生活に重要な貢献をするのである。この両者を考え合わせ、すでに戦後二十年を経て、新しい教育をうけた多数の国民が世に出ていることを見、その間で、どんな道をとることが最善であるかを発見すること。それが今後の国語教育の課題である。そのためにも、日本語の歴史を静かに真剣に顧み、そこから出発して将来の文化の発展へと進まなければならない。」(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、289頁~290頁)
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漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年 (PHP新書)
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日本語の年輪 (新潮文庫)
日本語の変わりゆく意味
日本語の歴史には、意味の変化が見られる。例えば、「ありがとう」は、「有り難く」のウ音便で、もともと「めったにない」「珍しく貴重だ」の意味だったが、感謝の意を表すようになる。そして「さようなら」は「左様なら」「そういうことなら」と相手を肯定する意味から別れのあいさつの言葉になる。また「ごちそう」(漢字では「馳走(ちそう)」と書く)は、もとは「馬を駆って走り回る」の意味から「世話をする」、そして今では「おいしい料理」「もてなす料理」という意味に変化した。
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