≪漢字について その6≫
(2021年3月21日投稿)
今回のブログでは、漢字と日本語との関係について、丸谷才一『文章読本』(中央公論社)などを参考にしながら、考えてみたい。
また、馬琴の『南総里見八犬伝』、『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字との関わりについて、述べておきたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
馬琴は晩年目が見えなくなる。代わって筆を持ち、その口述に従って『南総里見八犬伝』を書き上げたのは、亡くなった一人息子の嫁のお路という女性であった。当時の女性の常として漢字を知らず、勉強をしたわけでもないお路が、一字一字口伝えで馬琴に字を教わりながら書き綴っていったそうだ。偏と旁(つくり)の区別さえ知らない彼女に理解させるのは容易ではなかったようだが、そのうち字も馬琴の字とそっくりにあり、原稿を取りに来た出版元の人間も、馬琴の字とお路の字を区別つかないほどであったという(安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年、279頁。徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]、38頁。)
前近代において、漢字は男性、仮名は女性がその担い手であるとする論は多く、その典型は三島の『文章読本』であろう。しかし、このお路の事例は、前近代の女性でも、不断の努力と勉強により、漢字を習得し、文章を綴れる可能性を示してくれる。
【安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫はこちらから】
安西篤子の南総里見八犬伝 (わたしの古典21)
【徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社はこちらから】
滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)
思えば、『古事記』『日本書紀』も、仮名が発明される前に書かれた書物であったから、漢字ばかりで書かれていた。
たとえば、有名な「出雲八重垣」のくだりの歌である。スサノオノミコトがクシナダヒメと結婚して新居をいとなんだ時の歌である。
『古事記』には、
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁
(八雲たつ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を)
『日本書紀』には、
夜句茂多莬伊弩毛夜覇餓岐莬磨語昧爾夜覇餓枳莬倶盧贈迺夜覇餓岐廻
(八雲たつ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣ゑ)
とある。
『万葉集』がほぼ同じ調子で行っている。この『万葉集』ふうの、漢字の音訓を借りて、日本語を表記する方法が万葉仮名と呼ばれる。このことは丸谷才一の名著『文章読本』(中央公論社、1977年)の「第五章 新しい和漢混淆文」(80頁~105頁)でも言及されている。
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文章読本 (中公文庫)
この点、高島俊男『漢字と日本人』(文春新書、2001年)でも解説している(高島、2001年、80頁)。
「を」(wo)もしくは「ゑ」(we)は間投詞である。
「夜幣賀岐(やへがき)」であれ、「夜覇餓岐(やへがき)」であれ、「やへがき」という音を表しているだけで、「八重垣」の意味はない。無味乾燥な音で、一字一音を表していて、文字の意味とことばの意味との関連性は全くない。
「伊豆毛夜幣賀岐」「伊弩毛夜覇餓岐」のように、漢字の意味を捨て、ただ音符(発音符号)として漢字を用いて、日本語を書き表すやり方を「万葉仮名」という。一字一音が多いが、一字二音などもある。
たとえば、柿本人麻呂の歌に
皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨
(おほきみはかみにしませばあまくものいかづちのうへにいほりせるかも)
とある。原文18字のうち、皇(おほきみ)、者(は)、神(かみ)、座(ます)、者(ば)、天(あま)、雲(くも)、之(の)、雷(いかづち)、之(の)、上(うへ)、廬(いほり)、爲(す)、鴨(かも)の14字までが訓であり、あとの4字、二(に)、四(し)、爾(に)、流(る)が音である。訓14字のうち、「鴨(かも)」を詠嘆の終助詞「かも」の表記を用いており、鳥の「鴨」の語義とは全く無関係である(高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年、76頁~81頁)。
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漢字と日本人 (文春新書)
丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。
徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。
文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、133頁~134頁)。
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文章読本 (中公文庫)
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名人 (新潮文庫)
さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、256頁~257頁)。
そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、283頁~284頁)。
日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、76頁)。
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文章読本 (中公文庫)
漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。
【井上ひさし『私家版 日本語文法』はこちらから】
私家版 日本語文法 (新潮文庫)
小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。
【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】
本居宣長(上) (新潮文庫)
【新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社はこちらから】
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)
「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。
【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】
本居宣長
現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。
そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。
日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、90頁)。
【野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社はこちらから】
日本語の世界 13 小説の日本語
【参考文献】
丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年
江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年
矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年
大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]
松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年
徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]
小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年
新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年
野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年
宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋、2015年[2016年版]
(2021年3月21日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、漢字と日本語との関係について、丸谷才一『文章読本』(中央公論社)などを参考にしながら、考えてみたい。
また、馬琴の『南総里見八犬伝』、『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字との関わりについて、述べておきたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
<その6>
・馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字
・『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字
・漢字と漢文について
・漢字の数について
・漢字に関する小林秀雄の見識
・日本語と小説家の役割
馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字
馬琴は晩年目が見えなくなる。代わって筆を持ち、その口述に従って『南総里見八犬伝』を書き上げたのは、亡くなった一人息子の嫁のお路という女性であった。当時の女性の常として漢字を知らず、勉強をしたわけでもないお路が、一字一字口伝えで馬琴に字を教わりながら書き綴っていったそうだ。偏と旁(つくり)の区別さえ知らない彼女に理解させるのは容易ではなかったようだが、そのうち字も馬琴の字とそっくりにあり、原稿を取りに来た出版元の人間も、馬琴の字とお路の字を区別つかないほどであったという(安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年、279頁。徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]、38頁。)
前近代において、漢字は男性、仮名は女性がその担い手であるとする論は多く、その典型は三島の『文章読本』であろう。しかし、このお路の事例は、前近代の女性でも、不断の努力と勉強により、漢字を習得し、文章を綴れる可能性を示してくれる。
【安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫はこちらから】
安西篤子の南総里見八犬伝 (わたしの古典21)
【徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社はこちらから】
滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)
『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字
思えば、『古事記』『日本書紀』も、仮名が発明される前に書かれた書物であったから、漢字ばかりで書かれていた。
たとえば、有名な「出雲八重垣」のくだりの歌である。スサノオノミコトがクシナダヒメと結婚して新居をいとなんだ時の歌である。
『古事記』には、
夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁
(八雲たつ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を)
『日本書紀』には、
夜句茂多莬伊弩毛夜覇餓岐莬磨語昧爾夜覇餓枳莬倶盧贈迺夜覇餓岐廻
(八雲たつ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣ゑ)
とある。
『万葉集』がほぼ同じ調子で行っている。この『万葉集』ふうの、漢字の音訓を借りて、日本語を表記する方法が万葉仮名と呼ばれる。このことは丸谷才一の名著『文章読本』(中央公論社、1977年)の「第五章 新しい和漢混淆文」(80頁~105頁)でも言及されている。
【丸谷才一『文章読本』中央公論社はこちらから】
文章読本 (中公文庫)
この点、高島俊男『漢字と日本人』(文春新書、2001年)でも解説している(高島、2001年、80頁)。
「を」(wo)もしくは「ゑ」(we)は間投詞である。
「夜幣賀岐(やへがき)」であれ、「夜覇餓岐(やへがき)」であれ、「やへがき」という音を表しているだけで、「八重垣」の意味はない。無味乾燥な音で、一字一音を表していて、文字の意味とことばの意味との関連性は全くない。
「伊豆毛夜幣賀岐」「伊弩毛夜覇餓岐」のように、漢字の意味を捨て、ただ音符(発音符号)として漢字を用いて、日本語を書き表すやり方を「万葉仮名」という。一字一音が多いが、一字二音などもある。
たとえば、柿本人麻呂の歌に
皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨
(おほきみはかみにしませばあまくものいかづちのうへにいほりせるかも)
とある。原文18字のうち、皇(おほきみ)、者(は)、神(かみ)、座(ます)、者(ば)、天(あま)、雲(くも)、之(の)、雷(いかづち)、之(の)、上(うへ)、廬(いほり)、爲(す)、鴨(かも)の14字までが訓であり、あとの4字、二(に)、四(し)、爾(に)、流(る)が音である。訓14字のうち、「鴨(かも)」を詠嘆の終助詞「かも」の表記を用いており、鳥の「鴨」の語義とは全く無関係である(高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年、76頁~81頁)。
【高島俊男『漢字と日本人』文春新書はこちらから】
漢字と日本人 (文春新書)
漢字と漢文について
丸谷才一は、漢字と漢文について、面白いことを述べている。丸谷は、文章上達の入門書の傑作として、谷崎潤一郎の『文章読本』とともに、荻生徂徠の『経子史要覧』を挙げ、伊藤仁斎を攻撃するくだりを引用した後で、次のように述べている。
「徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であらうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のものにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だらう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。
ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によつて厭になるくらゐ鋭い意見だ―別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことをちらりと思ひ出しただけで、話はすむのだけれど。そしてこの場合、幸ひなことに漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。また、ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつてゐないはずだ。われわれにとつてそのギリシア・ラテンに当るのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。」(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、38頁)。
徂徠が名文を書けたのは、漢文の素養があったからである。現代日本人も、簡潔と明晰を学ぶためには、漢文系のものを読む必要があると丸谷は主張している。
ニーチェが文筆家は母国語の感覚が鈍くなるから、外国語を学んではいけないと教えたのは、鋭い意見ではあるが、森鷗外とドイツ語、夏目漱石と英語のことを想起すれば、ニーチェの助言には従わない方がよいとする。日本語は漢字と漢文によって育ったのであるから、これらを除き去ることは、日本語の風化につながるという理由で、丸谷は漢文擁護論の立場であることがわかる。日本語と漢字・漢文について考える際に、大いに示唆を得られる。
文書上達の秘訣はただ一つ名文を読むことであると丸谷才一は言った。丸谷才一は『文章読本』で「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。」と述べた。また、森鷗外は年少の文学志望者に文章上達法を問われて、ただひとこと、『春秋左氏伝』を繰り返し読めと答えたといわれる。『春秋左氏伝』を熟読したがゆえに鷗外の文体はあり得たそうだ。われわれは文章を伝統によって学ぶから、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないと丸谷は言っている(丸谷、1977年、20頁~21頁)。
ただ、辞書で覚えただけの言葉を使ってはならず、馴染みの深い言葉を使うのがよいと丸谷はいう。各人の心のなかにある一つ一つの語の歴史が深ければ、よいという。しかし、この根本的な文章論に反して、時として文章の名人である作家といえども、あやまちを犯す場合もある。その例として、川端康成の『名人』の一節を引用している。その中で「高貴の少女の叡智と哀憐」と記すが、丸谷にはこの「叡智」も「哀憐」も、背後にいささかの歴史も持たない薄っぺらな言葉のように見えるし、そして「泥臭い悪趣味、単なる嘘つ八のやうに感じられる」と酷評している。その理由について次のように説明している。
「こんなことになつたのは、一つには、二字の熟語を四つもべたべたつづける不用意、ないし耳の悪さのせいもあらう。が、大和ことばや日常語的な漢語のときはこの種の不用意をほとんど見せず、かなり耳のいい川端なのに、日常語的ではない大げさな意味の漢語となると、どうして変な具合に取り乱すのか。これはわたしに言はせれば、「叡智」も「哀憐」も彼が日ごろ親しんでゐない言葉だからで、その浅い関係にもかかはらず強引にはめこんで用を足さうとするとき、語彙は筆者に対してかういふたちの悪い復讐をおこなふのだ。」としている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、133頁~134頁)。
【丸谷才一『文章読本』中央公論社はこちらから】
文章読本 (中公文庫)
【川端康成『名人』はこちらから】
名人 (新潮文庫)
さて、現代日本の文章は、漢字と片仮名と平仮名、この三種類の文字を取り混ぜて書き記すのを通例とする。場合によってはローマ字まではいるから、厄介なことこの上ない。普通のヨーロッパの言語なら、ローマ字だけ、中国語なら漢字だけで、国語の表記という点では、単純である。日本語の表記がややこしいのは、日本文化史の複雑さの正当な反映である。
丸谷はこう指摘した上で、普通なら漢字を当てるところを平仮名をたくさん用いる谷崎潤一郎の『盲目物語』の一節を引用して、日本語の視覚的な効果について考察している。この平仮名の多用により、読者は谷崎の小説をすらすら読むことができず、自ずから盲人の訥々(とつとつ)たる語り口をじかに聞くような効果があるのだといい、谷崎の技巧を絶賛している(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、256頁~257頁)。
そして、日本語の文章と日本人の思考について、丸谷は面白いことを述べている。
日本語の文章は本来、ぞろぞろと後につづいてゆく構造のもので、そのため句読点がどうもつけにくい。平安朝の文章には句読点がなく、今日読まれている『源氏物語』や『枕草子』にそれがついているのは、後世の学者の親切ないし老婆心のおかげであるという。
日本語の文章に句読点がつけにくい性癖があるのは、日本人の思考の型と関係がある。つまり、日本人の思考は並列的で、さながら絵巻物のように、さまざまの要素を横へ横へとべたべたと付け加えていく型であるという。それは、何でも取り入れて、いろいろのものを包みこんでしまう思考の型で、まるで風呂敷のようである。この態度は、あらゆるものを神様にして、敬意を表するあたり、つまり多神教的思考に最もよくあらわれていると述べている(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、283頁~284頁)。
日本語の文章の綴り方、句読点の付け方から、日本人の思考様式の特徴を考え、日本人の多神教的精神にまで、言及している点は、丸谷の見識の鋭さを物語るものであろう。
丸谷才一によれば、一般に達意の文章と評されるものは、細微なことや精妙なことは避け、あるいは頭から諦め、大ざっぱなことを一わたり書いて、それでお茶を濁しているものだが、これに反して名文は、林達夫の『「旅順陥落」』のように、あれこれとこみいった微妙なことをあっさり言ってのけるのであるという(丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年、76頁)。
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文章読本 (中公文庫)
漢字の数について
漢字の習得に、小中学生の学習負担の軽減が漢字制限論者や撤廃論者の十八番(おはこ)である。
井上ひさしはこの点に反対で、日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの学習にあてるべきだとの立場をとっている。漢字制限論者の理屈は逆立ちしていると主張している。そして漢字は数も多く複雑だといわれるが、その総数は5万もない。この5万という数字は、中国の『康煕字典』(清朝時代に編まれた42巻の漢字の字書)の親文字数40,545字と、諸橋轍次の『大漢和辞典』の親文字数48,902字を踏まえている。さらに私達は5万の文字をすべて使うわけではなく、その10分の1、たかだか5千字である。ちなみに『古事記』に用いられている漢字は1500字余、『万葉集』で2500字余である。だから5千字を読み書きできれば、たいへんなもので、3千字でも充分に間に合うというのが井上ひさしの主張である(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、98頁)。
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私家版 日本語文法 (新潮文庫)
漢字に関する小林秀雄の見識
小林秀雄は、晩年の大著『本居宣長』の中で、日本にもたらされた文字である漢字について想像をめぐらしている。すなわち、
「わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。」(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年、330頁。新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、227頁~228頁)。
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本居宣長(上) (新潮文庫)
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人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)
「漢語に固有な道具としての漢字」と小林が表現しているが、古代人がそうであったように、「書く為の道具」として漢字をみている。
ただ、後述するように、わが国第一の批評家の小林秀雄といえども、漢字をいわゆる“美の対象”としては見ていなかったことに気づく。つまり、小林といえども、書ないし漢字の美しさ、あるいは書の歴史については教えてくれないのである。
ところで、『古事記』について、小林は、宣長の見解を紹介している。
「口誦(こうしょう)のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて漢字の格(サマ)に書かれると、変質して死んで了(しま)うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。
この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長はそう見ていた」(新潮社編、2007年、229頁)。
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本居宣長
日本語と小説家の役割
現代日本語の文章語の成立に、小説家の貢献がいかに大きかったかについては、丸谷才一の名著『文章読本』に記している。
「つまり現代日本文においては、伝統的な日本語と欧米脈との折り合ひをつける技術がとりあへず要求されてゐるわけだが、それが最も上手なのはどうやら小説家であつたらしい。宗教家でも政治家でもなかつた。学者でも批評家でもなかつた。歴史家でも詩人でもなかつた。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だつたし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。」(丸谷、1977年、17頁)。
つまり「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであつた」(丸谷、1977年、18頁)。
そして野口武彦は、この丸谷才一の指摘を受けて、日本の言語文化史上、小説の言葉が日本語の創造的改革に貢献したことは、3度あったと理解している。
①10世紀と11世紀の変わり目、平安時代の中頃
②17世紀の終わり頃、江戸時代の元禄年間
③明治時代
これらの時期はいずれも日本語の言語史上の一種の危機の時代であった。つまり日本語の発音、語彙、用言の活用、語の意義変遷など、移り変わりのテンポがかなり早い時代であった。そして話し言葉(口語)と書き言葉(文章語)の違いが極端にひろがり、才能ある人々が言いたいことは言いえても、言いたいことは書けないという言語の危機を感じとっていた時代であったというのである。
例えば、11世紀のはじめに、『源氏物語』が出現しなかったら、当時の貴族社会の日常の話し言葉をもとにして、こまやかな情感や人間心理、思惟のひだまで、表現できたかは疑問であろう。というのは、この時代までは、宮廷の公文書はもとより、政治上の意見、男性貴族の日記、あらたまった手紙などはすべて漢文で記されていた時代であったからである(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、16頁~18頁)。
日本では、古くから言葉のはたらきは植物の比喩で語られることが多かったようだ。たとえば、『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」と記している。また「ことば」とはもともと「言端(ことは)」であり、いまだ「事」と「言」とが意識の上で未分化であった時代に、言語表現の片端(かたはし)にあらわれたものを意味していたといわれる。葉もまた植物の片端であり、その比喩は、古い時代から「言葉」という漢字表記に定着している(野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年、90頁)。
【野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社はこちらから】
日本語の世界 13 小説の日本語
【参考文献】
丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年
江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年
矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年
大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]
松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年
徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]
小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年
新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年
野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年
宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋、2015年[2016年版]
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