歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪ヨーロッパの封建社会~高校世界史より≫

2023-07-15 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪ヨーロッパの封建社会~高校世界史より≫
(2023年7月15日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、ヨーロッパの封建社会について(とりわけ領主制の観点から)、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

なお、ヨーロッパの封建社会について、次の著作により、補足説明しておく。
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
とりわけ、木村尚三郎『西欧文明の原像』では、「ベリー公の豪華な時禱書」にもとづいて、ヨーロッパの農民生活について、そして、各地域の封建社会の特徴については、浜林正夫『世界史再入門』の記述は参考となる。




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ヨーロッパの封建社会の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・ヨーロッパの封建社会の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
【補足】
・「働く人」「戦う人」「祈る人」~木村尚三郎『西欧文明の原像』より
・各地域の封建社会の特徴~浜林正夫『世界史再入門』より






ヨーロッパの封建社会の記述~『世界史B』(東京書籍)より


【東京書籍より】
ヨーロッパの封建社会~高校世界史より

第2編 広域世界の形成と交流
第9章 ヨーロッパ世界の形成
2 西ヨーロッパ中世世界の成立
3 西ヨーロッパ世界の成熟

第9章 ヨーロッパ世界の形成
2 西ヨーロッパ中世世界の成立
【封建社会の安定】
 西ヨーロッパを舞台として古代世界の解体とともに新しい社会秩序が生まれ、人と人とが直接に結びつき、主君と臣下との間に双務契約の関係が結ばれた。主君は臣下に封土を与え保護下に置くかわりに、臣下は主君に忠誠を誓い騎士として軍務を負った。この封建的主従関係は、ノルマン人などの外部勢力の侵入を防ぐ必要に促されて、一代限りのものから、やがて世襲されるようになった。それとともに、授封された者が土地の一部をさらに従者に与えたので、国王、諸侯、騎士などの主従関係は重層化していった。この封建社会は、11世紀から13世紀にかけて最盛期を迎える。貴族(諸侯、騎士)はそれぞれ世襲所領のなかで独自の課税権や裁判権をもち、国王の権力も貴族の所領内には及ばなかった(不輸不入権 immunitas)。
 8世紀ごろから、貴族や教会・修道院を領主とする荘園(manor)が広くみられるようになった。この荘園制が封建社会の経済的基盤であった。
 荘園では、耕地は領主直営地と農民保有地とからなり、ほかに森林や牧草地などの共同地(入会地)があった。農民は、保有地での生産の一部を領主におさめ(貢納)、領主直営地での一定日数の労働を義務づけられた(賦役)。それとともに、教会には十分の一税をおさめた。農民には、保有地処分や移住の自由はなく、領主の支配は、裁判権の行使はもちろん、水車やパン焼きがまの使用料徴収から、結婚税や死亡税にまで及ぶようになる。そのため、中世の農民は農奴とよばれる。やがて、領主直営地を農民保有地にかえ、生産物や貨幣で地代を取る領主が多くなり、中世末の荘園制の解体につながっていく。

<新しい社会秩序>
一般に封建制というが、主君・臣下間の法的な関係(封建的主従関係)、生産様式(荘園制)、中世西ヨーロッパの社会文化の総体(封建社会)の三つに大まかに分けられる。

<主君と臣下の双務関係>
主君と臣下の双務関係は、ゲルマン社会の従士制と、主君が臣下に勤務の代償として土地を与えるローマ帝政末期以来の恩貸地制とが結合したものとみなす説が有力である。

<中世の荘園>
荘園では、貨幣・労働・現物の負担が入り組んでいた。9世紀のサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の所領明細帳からは、荘園農民の負う多種多様な義務がわかる。たとえば、ある家族は毎年、銀貨4枚、ワイン、木材、メンドリ3羽、卵15個を負担し、男性は領主直営地を耕した。別の家族はブドウ畑での集約的労働に従事した。さらに別の女性は布を織り、ニワトリを育てた。男性は耕作に多くの時間を費やしたのに対し、女性はもっぱら領主の館で布を染め、衣服をぬい、料理をした。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、149頁)

3 西ヨーロッパ世界の成熟
【大開墾時代と中世の農民生活】
 11世紀になると、気候が温暖になり、外部勢力の侵入による混乱もおさまって、西ヨーロッパの社会も安定してきた。11世紀後半から13世紀前半にかけて、森や荒れ地の開墾がすすみ、いわゆる大開墾時代を迎える。それとともに農法なども改良され、それまで播種量の3倍程度であった麦の収穫は、6倍前後にまで向上した。生産高に余剰が生まれ、それらが取り引きされると、商業交易の拠点としての都市が興隆する。交通も発達し、社会全体が活気づいた。人口は増大し、ヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる。
 中世社会には、戦う人(貴族)、祈る人(聖職者)、働く人という三つの身分があったが、働く人の大多数は農民であった。12世紀ごろから、農業技術の改善がなされ、鉄製農具、有輪犂や水車が普及し、牛馬に農具をひかせる方法も改良された。さらに、三圃制の農法が多くの地域に普及して、農業生産力は安定した。また、領主による荘園の形成にともない、農民の集落の規模も大きくなった。
 荘園の耕地は垣や堀で仕切られない開放耕地であることが多かった。このために、主要な農作業は共同で行われ、農民は相互扶助と相互規制の両面をもつ村落社会の結合を強めた。農事暦による祭礼や教会行事はもちろん、過酷な領主支配に対抗する一揆や逃散も、村落社会全体で行われた。
 村落社会のまとまりは、村を単位とする教区教会によって象徴される。教区司祭は冠婚葬祭や日曜ミサなどを通じて日ごろから住民たちへの布教に努めた。しかし庶民の信仰は、マリア信仰や聖人・聖遺物崇敬、あるいは泉水での治癒祈願などにみられるように、土俗的色彩の濃い信心のうえにキリスト教の要素がつぎあわさったものであった。

<農民の生活>
『ベリー公の豪華時禱書』に描かれた農民生活の風景。
3月、7月、9月の生活風景で、3月は春耕地の種まきとブドウの剪定、7月は秋耕地の収穫と羊毛の刈り取り、9月は果実の収穫のようすである。

【カトリック教会の発展と教会改革】
 カトリック教会は、ローマ教皇を頂点として大司教、修道院長、司教、司祭などからなる聖職位階制がピラミッド状に形成されていた。司教と修道院長は、信仰生活の中心として精神文化の権威であったが、同時に、土地や財産の寄進を受けて、広い荘園をもつ領主でもあった。このように教会と世俗社会とのかかわりが深まると、暴力や教会改革などの問題に対して、聖俗の有力者が協同して取り組むようになる。
 10世紀末からフランスなどで、貴族間の私闘(自力救済権の行使)や教会財産の侵害をおさえるために、司教や伯を中心に「神の平和」運動がおこされた。また、紛争の際には、法廷で有罪か無罪かを決めず、対立する両者が妥協することで、おたがいの名誉を損なわないような解決がはかられた。
 当時は、聖職者の結婚、世俗領主による聖職者の任命はありふれたことで、聖職売買もめずらしくなかった。これに対し、11世紀になると、フランスのクリュニー修道院を先陣とする改革運動が本格化した。同時期に神聖ローマ帝国でも改革がはじまり、皇帝の支持を得た教皇レオ9世(Loe IX, 在位1049~54)が1049年に即位すると、ローマ教会を中心とした教会改革運動が推進された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、149頁~151頁)

・ヨーロッパの封建社会の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


『詳説世界史』(山川出版社)では、次の章に次のように記述している。
【山川版】
第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1 西ヨーロッパ世界の成立
【封建社会の成立】
 民族大移動後の長い混乱期に、西ヨーロッパの商業と都市は衰え、社会は農業経済に大きくたよるようになった。貨幣よりも土地や現物が価値をもつようになり、またたびかさなる外部勢力の侵入から生命財産をまもるため、弱者は身近な強者に保護を求めた。ここからうまれた西ヨーロッパ中世世界に特有のしくみが、封建的主従関係と荘園(manor)であり、この二つのしくみの上に成り立つ社会を封建社会(feudal society)という。
 皇帝・国王・諸侯(大貴族)・騎士(knight 小貴族)や聖職者などの有力者たちは、自分の安全をまもるため、たがいに政治的な結びつきを求めるようになった。
 そこで、主君が家臣に封土(領地)を与えて保護するかわりに、家臣は主君に忠誠を誓って軍事的奉仕の義務を負うという、人と人との結びつきがうまれた。これを封建的主従関係という。この関係は主君と家臣の個別の契約によって結ばれたが、やがて世襲化した。西ヨーロッパの封建的主従関係は、主君と家臣の双方に契約をまもる義務がある(双務的契約)のが特徴で、主君が契約に違反すれば家臣には服従を拒否する権利があった。また一人で複数の主君をもつこともできた。
 封建的主従関係は、ローマの恩貸地制度とゲルマンの従士制に起源があり、地域防衛のしくみとしてとくにフランク王国の分裂以後、本格的に出現した。一般にこのしくみに基づく支配体制は地方分権的で、多くの騎士を家臣として従えた大諸侯は国王にならぶ権力をもって自立し、国王は実質的に大諸侯の一人にすぎなかった。
 封建的主従関係を取り結ぶ有力者たちは、それぞれが大小の領地を所有し、農民を支配する領主であった。領主の個々の所有地を荘園という。荘園は村落を中心に領主直営地・農民保有地および牧草地や森などの共同利用地から成り立つ。農民は農奴と呼ばれる不自由身分で、移動の自由がなく、また結婚税や死亡税を領主におさめる義務を負うなど、結婚・相続の自由も制限された。彼らは領主直営地で労働する義務(賦役)と、自分の保有地から生産物をおさめる義務(貢納)を領主に負った。荘園には手工業者も住み、自給自足的な現物経済が支配的であった。
 農奴はローマ帝政末期のコロヌスや没落したゲルマンの自由農民の子孫で、長い混乱期に身分の自由を失い、領主に保護を求めるようになった人々である。領主は国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりするのを拒む不輸不入権(インムニテート Immunität)をもち、農民を領主裁判権によって裁くなど、荘園と農民を自由に支配することができた。
 このように封建社会は、荘園を経済的基盤とし、その上に封建的主従関係による階層組織をもつ社会であった。封建社会は10~11世紀に成立し、西ヨーロッパ中世世界の基本的な骨組みとなった。

<恩貸地制度>
土地所有者が自分の土地を有力者に献上してその保護下にはいった後、改めて有力者からその土地を恩貸地として貸与してもらう制度。

<従士制>
貴族や自由民の子弟が、ほかの有力者に忠誠を誓ってその従者になる慣習。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、129頁~131頁)

【教会の権威】
 封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威をおよぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教や修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園をもつ大領主でもあった。また教会は農民から十分の一税を取り立て、教会法に基づく独自の裁判権さえもっていた。高位の聖職者が諸侯とならぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物(俗人)をその地位に任命し、教会に介入するようになった。
 こうして世俗権力の影響をうけた教会では、聖職売買などさまざまな弊害が生じた。これに対して10世紀以降、フランス中東部のクリュニー修道院を中心に改革の運動がおこった。教皇グレゴリウス7世(Gregorius VII, 在位1073~85)はこの改革をおしすすめ、聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、131頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)には、ヨーロッパの封建社会について、次のように記述している。
Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 9 :Establishment of European Society
2 Feudal Society and Cities
■Stabilization of Feudal Society
The new social order, which appeared in western Europe with the declining of ancient
world, is known as Feudalism(封建制). There people were directly bound as lord and vassal
under reciprocal contracts(双務契約). The lord provided the vassals with fiefs and
protection. In return, the vassals pledged loyalty and became responsible for military
service. This feudal lord-vassal relationship changed from the short-term contract to
the hereditary one in order to protect their territories from the invasion by outside powers.
Some parts of the fiefs provided to vassals were once again given to some of their own
followers, thus the lord and vassal relationship between kings, lords and knights, became
multilayered. This feudal system reached its zenith during the 11th century to the 13th
century. The aristocrats(貴族[諸侯, 騎士]) (lords and knights) had their own right of
taxation and justice in their hereditary lands, and the power of the kings was not
applied to these lands(immunitas, 不輸不入権 ).
From around the 8th century, a system of manor(荘園) prevailed where the aristocrat, church or monastery were landlords. This manorial system(荘園制) was the economic base for feudal society.
In the classical manor, the lord managed both demesne lands and peasants’ holdings.
In addition, there were common lands(commons, 共同地[入会地]) such as forest and
meadow areas. Peasants paid a part of the product from their own lands (a tribute, 貢納)
to the lord and had the responsibility to work in the lord’s land for a certain period
(indentured labour service, 賦役). On top of it, they paid tithes(十分の一税) to the church.
Peasants were not allowed to dispose of their land and move freely. The extent of the
control by the lords ranged from jurisdiction to the collection of the rental of watermill
baking oven as well as to marriage fine and heriot. These people were called serfs(農奴).
Then lands under the direct management of lords were gradually replaced by peasant’s
holdings. More and more landlords received rent through product and money. These lands
were now called land rent-paying manors(地代荘園[純粋荘園]). At the end of
the Middle Ages, this type of manors increased and led to the destruction of the manorial
system which was the base of feudal society.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、119頁)

■Peasant Life in the Middle Age
There were three classes in the Middle Ages; warriors(戦う人, aristocrats 貴族),
priests(祈る人, clergy 聖職者) and workers. Most of the workers(働く人) were peasants.
Since around the 12th century, there was much innovation in agricultural technology.
The use of iron farming tools, carrucas(有輪犂, heavy wheeled turn plows) and water
mills became widespread, and how to use farming tools with cattle was improved.
Furthermore, a three-field system(三圃制) was adopted in many areas, which greatly
stabilized agricultural production. As the manorial system was established by landlords
farm villages grew accordingly.
Many of the manors had open fields which were not separated by walls or canals. Thus
major farming was done in cooperation, and peasants strengthened their ties each other
with both mutual assistance and mutual control in their society. Not only festivals and
church events based on the farming year calendar(農事暦), but also riots against cruel
landlords and abandonment of lord’s land, were conducted by a village community as a
whole. This village community was organized by the parish church(教区教会).

<Life of Farmers(Très Riches Heures du Duc de Berry)>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、119頁~120頁)




・「働く人」「戦う人」「祈る人」~木村尚三郎『西欧文明の原像』より


【「働く人」「戦う人」「祈る人」】
 11世紀から13世紀にかけ、ヨーロッパ農村社会の本格的成立とともに、古代ローマに存在した自由人と非自由人(奴隷)の明確な対立的概念は完全に消滅した。かわってあらわれたのは「働く人」(農民)、「戦う人」(俗界貴族)、「祈る人」(聖界貴族、聖職者)という、人間すべてをその社会的な役割分担にもとづいて三つに仕分けする、まことに簡明直截な、聖職者の側からの発想であり、「働く人」農民については、もはや「農民(ルステイキ)」「村民(ヴィラニ)」といった表現しか史料にはあらわれない。
 11世紀から13世紀にかけての時代は領主の農民支配権が発達し、いわゆる封建社会の最盛期であったが、この時代の農民を「農奴(セルフ)」とよぶのは、学者の学問的な概念としてのことである。史料的に「農奴(セルフ)」の語があらわれるのは、封建社会の崩壊がはじまり、領主権の弱化と王権の強化がみられる14、15世紀以降のことで、領主権から解放された農民(ヴィラン)に対し、未だその下におかれた農民を指すことばとして使用されたにすぎない。

【農業社会の「原民主主義」――自由の概念について】
(前略)
 農業世界に生きる人びとには、したがって自由人も不自由人もない。あるのはただ農民、あるいは人間そのものである。出身身分がたとえ奴隷であろうと自由人であろうと、それは11、12世紀以来、意味を失い、身分上のちがいはやがて忘れられ、すべてが「働く人」「農民」「村人」として統一的に意識されるにいたった。(中略)
 社会の組織度が強ければ強いほど、人びとの相互依存度が緊密であればあるほど、その社会の体制権力も強力である。その意味では現代の国家権力は史上最高の強大性を実現しているが、11~13世紀の北西部ヨーロッパを中心に封建社会が発達し、領主権がもっとも典型的な発展をとげたのは、そこにまた、もっとも組織的、先進的な農業社会の成立があったからであった。領主や兵士たち、軍馬などを養う経済的余力とまとまりをそなえる村落の成長があってはじめて、「働く人」と「戦う人」の社会的機能の分化が可能になり、村は軍事専門家に防衛され、支配・保護されるに値するものとなる。もし領主の支配下におかれたゆえをもって封建社会の農民を「不自由」とするなら、時とともにいよいよ強大化する国家権力の支配下におかれる近・現代人は、よりいっそう「不自由」としなければならない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、175頁~179頁)

第二章 ヨーロッパの原像」の「農民生活の12ヵ月」



パリから北に4, 5キロ行ったところにあるサン・ドニ修道院(のち大教会堂[バジリク]、ついで1966年以来、大聖堂[カテドラル])は、カペー王家の菩提寺であり、フランス諸王の墓があることで知られている(ただし、フランス革命のとき民衆に荒らされ、諸王の遺体は棺よりとり出されて捨てられた)。
最初630年ころに、フランク王ダゴベルト1世により建てられたといわれるこの寺院は、修道院長シュジェールが12世紀前半に再建を開始したゴシック式建築物であり(12~13世紀)、飛梁(アルク・ブータン)や穹窿(きゅうりゅう、オジーヴ)のゴシック的技法が、ここではじめて大規模な建築物に適用されたことでも有名である。
ところで、その正面にある三つの入り口のうち、むかって右側の南入り口(ポルタイユ・シュド)には、農民生活の12ヵ月をあらわすカレンダーが石に浮き彫りされている。これをベリー公ジャン(国王ジャン2世の第3子、1340~1416)の時禱書(シャンティイ、コンデ博物館)や、1423年ころのベドフォード公の時禱書(フランスの作、大英博物館)に描かれた農民の姿とひきくらべながら見ていこう。(下略)

※ベリー公の時禱書について
時禱書は俗人用につくられたお祈りの文句集で、修道院のお勤めの時間に従ってお祈りが配列されている。そのもっとも有名なのは、15世紀はじめの「ベリー公の豪華な時禱書」といわれるもので、当時の貴族や農民の日常生活が極彩色でみごとに描き出されている。
(現在、フランス、シャンティイのコンデ博物館所蔵)
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、171頁)

<牧草の刈り取り ベリー公の時禱書 6月>
聖霊降臨祭が過ぎると農民たちは本格的に畑仕事に精を出し、やがて六月がやってくる。
六月のカレンダーは、サン・ドニ修道院のばあいもベリー公やベドフォード公の時禱書のばあいも、ひとしく牧草の刈り取りである。
人びとは長柄の大きな草刈り鎌を使って牧草を刈り、干草にして家畜の飼料にした。羊の毛を刈り、休耕地に犂返しをするのもこの月であった。そして、結婚式も現在と同様にこの月がもっとも多かった。
結婚式は、葬式や赤ん坊の誕生とともに、せいぜい数十人ていどの村人たちにとって一大事件であった。村人すべてが――そして領主も――これに参加し、これを祝ったのである。花婿が「よそ者」のばあいは、村の若者たちから一人の女性を奪った「お詫び」のしるしとして、彼らに葡萄酒を振る舞わねばならなかった。もっともこの点では花嫁のほうも同罪で、時として彼らにパンを配る必要があった。
領主の息子や娘が結婚するときにも、戸外で領民に御馳走が出され、公共の泉に葡萄酒が注がれて、領民すべてがこれに招かれた。同様なことは今日でも見られる。(中略)
しかしながら今日とはちがって封建社会の場合には、結婚式の諸費用も領民が負担させられたから、あまり手放しでは喜べなかった。ことに領主の長女の結婚式は、領主長男の騎士叙任式、戦争で捕虜となった領主の身代金調達、領主の十字軍遠征とともに領民がその莫大な費用を分担せねばならない「四つのばあい」であった。これらは彼らにとって、もっとも重い租税であるとともに、いつやってくるか分からぬことが多かったから、「恣意税(しいぜい)」などともよばれている。(中略)

 秋に入り、九月、十月はリンゴその他の果物や葡萄の収穫期であり、ドイツ語のヘルプスト(秋)が英語のハーヴェスト(収穫)と語源を共通にしていることからも分かるように、ヨーロッパにとって、一年のうちもっとも喜ばしい季節であった。ことにその中心である葡萄の収穫は、九月末から十月初めにかけてなされ、大天使聖ミカエルの祝日(九月二十九日)やフランス大司教聖レミギウスの祝日(十月一日)がその目じるしであった。十月は一方で冬畑を耙(まぐわ)でならし小麦や裸麦(ライムギ)などの種を蒔く時期であった。男も女も前掛けに種をいっぱいに入れ、左手でその端を持ち上げ右手で蒔いていった。種の入った小箱を首からかけるばあいもあった。烏やかささぎなどが待ってましたとばかり、蒔いた種を早速についばむ。この鳥たちを追いはらうため種を蒔き終えた畑には糸が張られ、布はしなどを結びつけて風にヒラヒラさせたり案山子を立てたりした。これまた洋の東西を問わぬ田園風景である。
 十月で秋は終わる。春から秋にかけて、村人たちは農作業のほかに、領主が要求する夫役(ぶえき)に従事した。それらには、城の修復、道路の整備、橋作りその他、さまざまなものがあったが、全体として村の秩序維持や軍事防衛を目的とした公的な性格のものが多く、領主個人の恣意から発したものは案外少なかった。領主とその家族、将兵・軍馬の食糧をまかなうための生産物年貢や、前述した「四つのばあい」の賦課租(ふかそ)も同様である。
 すなわち「四つのばあい」のうち、たとえば領主長子の騎士叙任式は、領主貴族の後継者を地方の諸貴族に知らせる「お披露目」であり、領主貴族が死亡したその瞬間から新領主貴族として立つべき者の存在とその力量を、天下に、すなわち招待した諸貴族に公表する重要な機会であった。農業社会にあっては、土地防衛の最高責任者が土地と人びとを代表して象徴するから、土地と人びとの一定の関係が安定的に存続するためには、その最高責任者は死ぬことが許されず、「肉体の延長」としての世襲の法理が必然化される。したがって騎士叙任式は、まさに土地の人びとにとっては「国事」であった。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、171頁、208頁~222頁)

各地域の封建社会の特徴~浜林正夫『世界史再入門』より


〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
 この著作は、各地域の封建社会の特徴を考える際に、参考となる。
 以下、その記述をみてみよう。

第4章 封建制の時代
2 西ヨーロッパ封建制 イギリス、フランス、ドイツ
 西ヨーロッパ封建制の最大の特徴は領主制にある。ドイツにくらべてフランスやイギリスは
中央集権的であったとはいえ、近代国家のように官僚的行政機構による支配がおこなわれていたわけではない。イギリスでは州郡制がしかれてシェリフ(州知事)や治安判事などの一種の官僚がおかれ、フランスでもバイイ、セネシャルという裁判官がおかれて地方行政の監視にあたっていたけれども、しかし地域支配の実権を握っていたのは領主であった。彼らは国王から封土を与えられ、領主裁判権をもってその地の農民を支配していた。国王もまた領主のなかのひとりにすぎず、その権力は他の領主以上に大きな領地(王領地)をもつことによって支えられていたのであり、軍事的には領主の家臣団にたより、財政的にも王領地からの収入以外はさまざまな名目の領主からの上納金によって支えられていたのであって、国王が直接に国民から租税をとりたてるというのは例外的な場合だけにかぎられていた。このように領主が行政、司法、課税の権利をもつことが領主制の特質であり、これを不輸不入権(インムニテート)という。
 国王と農民とのあいだには上位領主、中間領主、下位領主など何重にも領主が介在していたが、最終的には農民の年貢(封建地代)がこれらの上部構造の全体を支えていた。領主は村落を荘園として支配し、その耕地は共同で耕作されたのち、ほぼ10ヘクタールぐらいが農家一戸あたりの持分とされ、収穫が終わるとふたたび共同耕地へもどるという開放耕地制が一般的であった。(中略)

 11世紀から12世紀ころにかけて三圃制農法が普及し、農業の生産力が向上してくると、領主も直営地を夫役で耕作させるよりも、これを農民に貸出して地代をとる方が有利と考え、夫役から生産物地代への転換をすすめるようになる。
 イギリスではさらに14世紀ごろに地代の金納化がすすんで貨幣地代が一般化するが、フランスでは18世紀のフランス革命まで生産物地代が一般的であり、ドイツ(とくにドイツ東部)では16世紀にふたたび夫役への逆もどりがみられた。これを再版農奴制という。
 西ヨーロッパの封建制社会では、このように、フランスのことわざにあるとおり「領主の土地以外の土地はない」というのが原則であったが、しかしこれには重要な例外があった。それは自治都市である。(中略)

 封建社会は国王から農民にいたるまで主従関係でつらぬかれた「タテ社会」であるが、そのなかで自治都市は商人や手工業者が横に連帯した「ヨコ社会」である。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、96頁~99頁)

 「封建制」というものを領主制として理解するなら、それはヨーロッパ(とくに西ヨーロッパ)にのみみられたものである。
 これに近いものとして日本の幕藩体制をあげることができる程度である、と著者はいう。
 それ以外の地域では、皇帝あるいは国王が中央集権的に支配する「帝国体制」がつづいていた。
 したがって、ヨーロッパとそれ以外の地域では、社会発展のコースはまったく異なっていたとみることができるとする。

・しかし、ヨーロッパとそれ以外の地域にある程度の共通性を見出すことも不可能ではないという。
 「帝国体制」の基本は、皇帝が全国土を所有し、これを一代かぎりで官僚もしくは軍人に貸し与え、それぞれの地域を支配させるとともに、租税のとりたてをおこなわせるということにあった。
 そして、その点では、ヨーロッパの封建制も例外ではない。
 ヨーロッパにおいても理念としては、国土はすべて国王のものであり、それが一代かぎりの封土として領主に与えられたのである。
 したがって、領主が死ぬとこの封土はいったん国王へ返還され、その相続人に再授封されるという形式をとっていた。
 しかし、実際には封土は世襲化され、返還・再授封という形式は、相続税の支払いだけにとどまることとなった。
 こうして、領地の不輸不入権が成立し、国王は領主をとおして租税をとりたてるのではなく、領主の軍事奉仕その他の義務にのみ依存するようになる。

・ヨーロッパ以外の地域でも、このような封土の世襲化と領主の自立化への傾向はつねにみられ、それが皇帝や国王の中央集権的支配と衝突をくりかえしていた。しかし、領主の自立化はついに達成されなかった。
・宋代の中国が、「領主制なき農奴制」とか「国家的農奴制」とかよばれていることが、こういう非ヨーロッパ地域の特徴をよくあらわしている。
※したがって、ヨーロッパの封建制を「完成された封建制」とするなら、それ以外の地域の「帝国体制」は古代帝国から完全には脱しきれていない「未完成の封建制」といってもよいとする。

〇こういう違いはなぜ生じたのであろうか。
 これは難しい問題である。
 この問題を考えるための手がかりとして、つぎの二点をあげている。
①ヨーロッパにはそもそも古代帝国なるものがなかったということである。
 ヨーロッパの古代帝国といえばローマ帝国であるが、その中心はイタリアであり、ヨーロッパ大陸の大部分はその支配下におかれていたとはいえ、ローマ帝国のいわば辺境地域にあり、
ケルトあるいはゲルマンの氏族社会から封建社会へと移行した。
※ここには律令制のような古代国家は成立せず、したがって王権はそれほど強固ではなく、モンゴルやイスラムの支配も、ロシアや東ヨーロッパの一部とスペインを除いては、ヨーロッパにはおよばなかった。

・イギリスは11世紀にノルマン人に征服され、そのためヨーロッパ諸国のなかでは比較的中央集権的性格がつよかったが、しかし全体としていえば、ヨーロッパ諸国は古代いらい分権的な社会体制をもっていた。
 国王と領主との関係が双務的契約関係であるというヨーロッパ封建制の特徴もここから生じている。

②第一点とも関連するけれども、西ヨーロッパでは家父長制的な大経営は比較的早く解体し、自立的な小経営が、おそらくは10世紀ころには成立していたということである。
・もちろん奴隷は存在していたけれども、しかし奴隷制社会とよぶことができるような段階はみられなかった。
 その点でも、西ヨーロッパは氏族社会から奴隷制を経由せずに農奴制へと移行したと、著者は考えている。

・日本で惣とよばれた封建的小農の共同体は、ヨーロッパでは10世紀ないし11世紀に成立していた。
 このように農奴制が早い時期に成立したことの背景には、有畜農業による生産力の上昇があったものと思われる。
 ともあれ、生産力発展の中心舞台は、地中海世界から西ヨーロッパへとうつることとなった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、129頁~132頁)

各地域の封建制の特徴については、次のように述べている。
<中国の場合>
・宋・元時代の中国を封建制社会とみてよいのかどうかについては、学界で長い論争があり、いまだに決着はついていない。おもな対立点は佃戸を西ヨーロッパの農奴と同じようなものとみるのか、それとも佃戸はまだ自立した経営をいとなんでいない家父長制下の奴隷に近いものとみるのか、という点にある。
この点について断定をくだすことは困難であるけれども、しかし、かりに佃戸が農奴であったとしても、中国の場合に西ヨーロッパ的な領主層が存在しなかったことはたしかであって、領主ではなく国家が農奴を直接に支配していたという意味で、これを「国家的農奴制」と名づけている研究者もいる。中国の封建制の特徴はその点にあるといってよいであろう。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、121頁)

<インドの場合>
 インドのグプタ朝とマウリヤ朝について
 土地の私有化はあまりすすんでいなかった。国王は王有地をもち、また新しく土地を開墾したものには一代かぎりの私有がみとめられたが、ローマのラティフンディアのような大規模な農場は生まれず、したがって農耕奴隷は例外的にしか存在しなかった。グプタ朝の時代になると村落のなかでも土地の私有化がすすんだといわれるが、しかしその私有地といわれるものも売買や贈与にあたっては村落共同体の同意を必要とするという制限つきのもので、むしろ占有に近いものであった。形式的には国土はすべて国王が所有するものとされ、それを村落が分有し、さらに農民がこれを占有するという重層的な関係にあったとみることができよう。奴隷は主として家内奴隷であった。国王と村落共同体とのあいだには領主のような中間搾取者はなく、国王が直接に租税を徴収していたが、中央集権的な支配もマウリヤ朝の場合はガンジス川流域にほとんどかぎられていた。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、74頁~75頁)

<イスラムの場合>
 アラブ、イスラム、オスマンとつづくこれらの帝国は、どのような社会のうえになりたっていたのであろうか。
 これらの帝国の基礎となっていたのはアラブのイクター制である。これは軍人にたいして一定の地域内の徴税権を与える制度で、これによって自営の小農民層を軍事的に支配するとともに、帝国の財政を維持しえたのである。征服地には総督(アミール)がおかれたが、被征服民には納税以上の義務は課せられなかった。この制度はオスマン帝国のティマール制へもひきつがれた。これらの制度の基本にある考え方は、土地はすべて国家(具体的にはスルタン)の所有であり、これが封土として与えられる場合も世襲をみとめないというものであって、現実にはイクターはしだいに世襲化され、そのことがイスラム帝国を動揺させる原因となったのであるが、オスマン帝国になるとスルタンはイェニ・チェリという強力な直轄軍をもち、また奴隷身分のものに特別の教育をほどこして官僚や軍人として使うというデヴシルメ制によって、領主層の勃興をおさえ中央集権国家をつくりあげた。これは軍事的封建制といわれるけれども、西ヨーロッパの封建制にくらべるとスルタンにたいし領主層がきわめて弱体であったことが特徴的である。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、109頁~110頁)



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