歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪井上ひさしの『自家製 文章読本』≫

2021-05-22 18:18:14 | 文章について
≪井上ひさしの『自家製 文章読本』≫
(2021年5月22日投稿)
 



【はじめに】


今回のブログでは、井上ひさしの『自家製 文章読本』を紹介してみたい。
 井上ひさしは、日本語について、様々な視点から、考察している。それは、英語との比較的視点であったり、オノマトペ、漢語的表現、擬声語、音節数、接続詞、エントロピー、七五調の視点であったりする。
 また、各作家の『文章読本』の寸評も興味深い。



【井上ひさしの『自家製 文章読本』はこちらから】

自家製 文章読本







さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・井上ひさしの『自家製 文章読本』について
・日本語と英語の比較について
・オノマトペに関する議論について
・漢語的表現について
・擬声語について
・音節数と漢字の重要性
・接続詞について
・エントロピーについて
・七五調について







井上ひさしの『自家製 文章読本』について


井上ひさしは自らが『文章読本』を試みることは「滑稽な冒険」と断りつつ、「滑稽な冒険へ旅立つ前に」と題して、各作家の『文章読本』の寸評を記している。
「奇体なことに、丸谷読本以外の文章読本の文章は、それぞれ書き手のものとしては上等とは言い難い。金のために書かれた、あるいは啓蒙読物として書かれたなどの、執筆時の事情もあるだろうが、日頃の文章より数段落ちるという印象がある。」と井上は手厳しく批評している(井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫、1987年、7頁~11頁)。

例えば、井上は谷崎潤一郎について、次のように評している。
「話し言葉と書き言葉の無邪気な混同。大文豪にしてはどうかと思われる、陳腐この上なく、かつ判(わか)ったようで判らない比喩など、谷崎潤一郎の文章読本の瑕(きず)を数えればきりがない。」(井上、1987年、7頁)。
また三島読本については、
「三島読本で愉快なのは、創作では抑えられていたこの小説家の茶目ッ気が大いに発揮されている巻末附録の「質疑応答」である。」とコメントしている(井上、1987年、9頁)。
また中村読本については
「中村真一郎の文章読本には卓見がちりばめられている。なかでも、鷗外の、漱石の、そして露伴のあの文体がどのようにして成ったかを、「文章の土台、苗床」という鍵言葉を駆使して大胆かつ細心に追跡してゆく件(くだり)は圧巻である。中村読本の前半の主題は、「近代口語文の完成は、考える文章と感じる文章との統一である。」とその要点を述べている(井上、1987年、10頁)。

そして丸谷読本については、
「丸谷才一の文章読本は掛け値なしの名人芸だ。たとえば文体論とレトリック論を、大岡昇平の『野火』一作にしぼって展開してゆく第九章などは、おそろしいほどの力業である。なによりも文章が立派で、中村読本に凭(もた)れかかっていえば、考える文章と感じる文章との美事な統一がここにはある。」と絶賛している(井上、1987年、10頁~11頁)。
丸谷才一によれば、文章上達の秘訣は名文を読むこと以外に道はないという。ただ、井上ひさしはこの丸谷読本以外の文章読本の文章に不満を覚えている。

日本語と英語の比較について


研究者の論文を参照し、データを提示し、分析している点で、一番“学問的”なのは、意外にもといっては失礼かもしれないが、井上ひさしの『文章読本』である。
井上ひさしの『自家製 文章読本』の解説を、ロジャー・パルバースという作家が書いている。井上読本を読んで、パルバースは井上の勉強家ぶりにあらためて、驚嘆している。パルバースが井上の『我が友フロイス』を英訳した際に、作品の中に出てくる300年以上も前のポルトガルの地名、人名などがわからなかったので、井上に資料を送ってもらったところ、大量の書き込みや付箋・メモが施されたフロイス全集など何十冊の本があったという。
パルバースは井上の勉強家ぶりに感心しているが、この読本をみても、その読書家ぶりが窺えるほど、研究者の名前が陸続と登場してくる。おそらく『文章読本』と名のつく本で、これほど研究者名がでてくる読本はないであろう。

ところで、パルバースは、日本語の文章と英語圏の文章を比較しているが、日本語がさほど豊かな「体験」をしている言葉であるとは思っていないと述べている。すなわち、英語はイギリスからアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドと、新しい開拓地、植民地へ渡り、変化してきた。移り住んだ人々が、まだ見たこともなかった物や、新しい社会制度や生活習慣が存在したので、新しい言葉や表現なども生まれてきた。それに対して、日本語は、明治以来の西洋文化の急速な導入にともなって新語は生まれたが、日本語そのものが海外を「放浪」して生まれ変わるといったことはなかったという。日本語は英語のような豊かな「体験」を得ることは今後も望めないだろうが、日本語には万葉集以来の伝統がある。その伝統を柔軟に捉え、かつ徹底的に掘り起こしてゆくことが、日本語を豊かにすることにつながると説く。

パルバースは井上読本を「真剣に日本語の文章を考え直させる本である」と評価している。たとえば、日本語の文章ではオノマトペを多用してはいけないという考え方に対して、井上は、その効用を説いている点を、支持している。つまりロマン・ヤコブソンの教えを受けたパルバースは、オノマトペを大いに使うべしという考え方は当然であるという。ヤコブソンは言葉の持つ響きを重視したが、パルバースも作家が言葉を選ぶときに、その意味でなく響きによって選んでいるケースがかなり多いのではないかと思っている。
だが、そんな考え方は日本語の文章の世界では軽視されてきたし、「オノマトペは子供っぽい。大人が使う言葉ではない」という思い込みから、豊かな日本語が生まれることを阻んできたという(井上、1987年、260頁~265頁)

オノマトペに関する議論について


井上ひさしの『自家製 文章読本』は、自らも断っているように、三島読本を手がかりないし足がかりに批判的に持論を展開している。
井上は三島が大衆小説、娯楽小説、読物小説の書き手たちを意味もなく蔑視していることに閉口している(三島、1987年、106頁)。
ところで、この三島はオノマトペについて、その『文章読本』で次のように述べている。
「擬音詞は各民族の幼児体験の累積したものというべきであります。日本の猫はニャオと鳴き、西洋の猫はミャアオと鳴きます。ミャアオをニャオと翻訳すれば、それだけで一つの民族の幼児体験が、われわれの民族の幼児体験に移されます。こんな理由で擬音詞を濫用した翻訳は、非常に親しみやすいうまい翻訳に見えますが、上等の翻訳でないことは言うまでもありません。」(三島、1973年[1992年版]、142頁)。
「擬音詞は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えますが、同時に表現を類型化し卑俗にします。鷗外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少いものであります。それが鷗外の文章の格調をどれほど高めているか知れません。大衆小説などにいまだに使われている手法に、「そうですか。アハハハハ……」というような笑声の擬音詞があります。いまではそんな手法の子供らしいことはだれも気づいていることでしょう。「玄関のベルがチリリンと鳴った」「開幕のベルがジリジリジリと鳴って、芝居が始った」子供はこういう文章を非常に使いたがります。」(三島、1973年[1992年版]、140頁~141頁)。
つまり、擬音詞は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えるが同時に表現を類型化し卑俗にするという。鷗外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少ないものであった。それが鷗外の文章の格調を高めている一因だと三島は理解している。三島が鷗外に学んだのは、擬音詞(オノマトペ)を節約することであったというのである。

オノマトペの問題に関して、井上ひさしは詳述している。
一般に鷗外はオノマトペを使わない作家といわれる。しかし井上はこの点に反論している。つまり、鷗外もオノマトペを愛用していた時期があったというのである。たとえば、『雁』という作品の前半部の山場、高利貸の末造とお玉の目見(めみ)えの場面を引用している。400字詰原稿用紙で200枚の小説中にオノマトペは160個、すなわち1.25枚に1個の割合で現れるとデータを挙げている。ホトトギス派の写生文ほど多用してはいないものの、鷗外も小説の山場では、オノマトペを“総動員”したというのである。
オノマトペには物事を具体的に、直接的にあらわす働きがあり、感覚的効果もいちじるしいので、円顔(まるがお)といえば「ふっくら」といった具合に紋切型になるおそれはあるものの、読者に言語をとおして体験してほしいと作者が願う山場では、オノマトペを用いると井上はみている(井上、1987年、106頁~112頁)。

ただ、鷗外は、乃木希典大将の殉死に深い感銘を受け、これを機に、大正期には歴史小説や史伝小説を書く。すると途端にオノマトペは激減し、三島読本や世間の常識が好む冷徹厳正な文体の持主、森鷗外が誕生する。『山椒大夫』(大正4年[1915年])は、60枚の作品だが、オノマトペはわずか20個足らずであるし、『渋江抽斎』(大正5年[1916年])になるとさらに徹底して450枚に10個前後で、45枚に1個の割合であるという。
井上ひさしは、このことを、「『渋江抽斎』からオノマトペを探すのは、雪原に二つ三つ撒(ま)かれた角砂糖を拾うよりなおむずかしい」という比喩で表現している。
そして、日本語の文章の規範は鷗外の考証ものの文体にあると声高に言われると、閉口すると井上はいう。鷗外の後期文体を奉じない者に向かって、悪罵を浴びせられることは困るという。

日本文学史上、空前のオノマトペの使い手であった宮沢賢治は、この点でだいぶ損をしたと説く。たとえば、「なめとこ山の熊」は23枚の作品なのに、擬声・擬態語は68個もあるという。
そして平明でかつ冷徹厳正な鷗外の文体では、とかく面白味のない、誠実っぽい文章になりがちとなり、そういう文章が「名文である」とありがたがられるのは怖ろしいとも主張している。

オノマトペになぜ、井上はこだわるかと言えば、日本語の特質問題に関わるからであるというのである。つまり、日本語の動詞は弱く、そのままで用いると概念的になってしまい、まだるっこく、的確さを欠くことになるので、動詞にはオノマトペという支えが要ると説く。
そもそも日本語の動詞は、そのまま単独で用いると、意味を訴える力が弱い。だから、「動詞連用形+動詞」の構造を持つ複合動詞が多いのだという。たとえば、「思い出す」は一語のように見えるが、実は「思う」の連用形「思い」+「出す」という構造を持った複合動詞である。こうした動詞を二つ組み合わせた複合動詞は、英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語といった現代のヨーロッパ諸語などには見えない造語法だといわれる。
では、なぜ日本語の動詞は単独で用いられると弱いのかという点に関しては、日本語の構文では動詞が一等最後に来るせいであるという。日本語では、構文全体で意味を拡げたり、あるいは意味を限定してゆく際に、さまざまな意味の盛られた文を、動詞が最後にぴしゃりと完結させてやらなくてはならないが、そのとき動詞一個では力が足りないということが生じてくる。そうした際に、複合動詞やオノマトペを使うのが有効であると説く。ただ、「歩く」というのではなく、「連れ歩く」「捜し歩く」としたり、「歩く」の内容をより具体的にし、聴き手の感覚に直接訴えたいと思うとき、「いそいそ」「うろうろ」「ぐんぐん」「すたすた」「ちょこちょこ」「どすんどすん」といった擬音語(外界の音を写した言葉)や擬態語(音をたてないものを音によって象徴的に表わす言葉)を選んで、「歩く」を補強するのだという(井上、1987年、114頁~121頁)。
このように、オノマトペの有効性について、説得的な議論を井上ひさしは展開している。

漢語的表現について


また井上ひさしによれば、「ひそかに」は、漢文訓読的な表現であるという。この言葉は、吉永小百合と橋幸夫の絶唱『いつでも夢を』(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)の歌い出しに、
「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘(こ)はいつも 歌ってる……」とでてくる。
この「ひそかに」という語について、井上ひさしは興味深いことを記している。紫式部は和文と漢詩文とを強烈な文体意識で峻別しているので、この「ひそかに」という語を一度も使わなかったというのだ。『源氏物語』の作者は、「ひそかに」(和語なら、しのびやかに)のほかに、「たがひに」「すみやかに」なども使わなかったそうだ。これらはいずれも漢文訓読特有の語法だからであるというのが理由である。
もとより井上ひさしは歌謡の作者を非難しているのではなく、庶民の歌謡に漢詩文の形や語法が多く使われていることを指摘したいだけである。つまり明治大正昭和三代の唱歌集や軍歌集には訓読特有の語法が多く見られ、和臭(わしゅう)の歌詞が少なくて、漢臭(かんしゅう)のものが圧倒しているという(井上、1987年、183頁~184頁)。
また付言しておけば、夫婦、天地、解散、英雄、鬼神、栄華、国家、国土、国威といった私達の顔馴染みの漢語は、平安朝の読書人階級が「必須の教養」として暗誦した『文選(もんぜん)』にある漢語であるといわれる。「百姓」も、この『文選』の第一巻に登場する歴とした漢語であるが、もっともその意味は「人びと」で、今とは少しちがった意味であった。

日本語に同音異義語が多いのは漢字のせいではなく、音節数が少ないせいである。日本語の音節数は約140である。それに対して英語の音節数は約4000(7000という説もある)である。140しかない日本語はすぐ手が詰まり、仕方なく同じ音の言葉を次から次へとつくり出すしかなく、同音語があちこちで衝突することになった。この同音衝突地獄に救いの手をさしのべているのが、漢字であった。たとえば、コウエンでも、「芝居の公演」、「喋る講演」といった具合に、漢字表記により区別される。

一方、ヨーロッパの言語では、同音が衝突した場合、混乱を避けるためにどちらか一方の語が、別の語に置き換えられてしまうという。たとえば、かつて発音の異なっていた英語のquean(女)とqueen(女王)が音声変化によって同音語となったために、現在ではquean
はほとんど使用されず、「女」を意味する場合はwomanで置き換えられたというのである(井上、1987年、201頁~202頁)。

擬声語について


三島由紀夫が『文章読本』で、表現を類型化し卑俗にするとして、使わぬようにと述べた擬声語に、井上は注目した。
鷗外の逆を行く、宮沢賢治は擬声語のすぐれた使い手で、たとえば、『どんぐりと山猫』という短い作品ではじつに55個の擬声語で飾っている。そして作品としての抽象度も高く、格調があると高く評価している。
また、和歌や俳句で扱われた擬声語にも唸らせられるものが多いが、中には、
 大海の磯もとどろによする波
  われてくだけてさけて散るかも
という実朝の歌のように、歌全体が一個の擬声語の如き役目を果たしているのさえあると力説している。
とりわけ、「warete cudakete sakete」という[*a*ete]という音の連なりが3回繰り返されている。エという、母音の中ではイと並んでもっとも鋭いひびきを持つこの音の連打(3回反復)は、波の動き―それも波打際への―を彷彿させると解説している。卓見であろう(井上、1984年[1994年版]、18頁~21頁)。

音節数と漢字の重要性


日本語の音節はごくごく少なく、せいぜい140から150であるといわれる。これは北京官話の3分の1、英語の30分の1であるそうだ。音節の数が少ないから自然、同音異義語が多くなる。たとえば、「ごぜんが ごぜんを ごぜんにごぜん めしあがった」は、ひらがなだけで漢字を混えないと、ちんぷんかんぷんである。混乱が生じないのは、漢字があるからである。漢字を混じえて、「御前が御膳を午前に五膳召し上がった」と書けば、明瞭である(井上、1984年[1994年版]、100頁~101頁)

接続詞について


井上ひさしは、『私家版 日本語文法』(新潮文庫、1984年[1994年版]、79頁~86頁)において、「論より情け」と題して、接続詞の使い方から日本人論を展開している点が興味深い。
日本人は一般に接続詞を軽視する風潮があるという。学校の文法の授業でも、動詞や形容動詞や助動詞の活用にその時間を費やされ、接続詞は感動詞と共に、国語教師の説明から落ちこぼれた。
そもそも大小説家の多くが接続詞を胡乱(うろん、「う」も「ろん」もともに唐宋音)なもの、なにやらうさんくさいものとして、敬遠した。井伏鱒二は、描写に「しかし」や「そして」は要らないと喝破した。また谷崎潤一郎はその『文章読本』で、接続詞は品位に乏しく、優雅な味わいに欠ける、それは接続詞が含蓄を減殺して、古典文にみられる叙述の間隙を充塡してしまうからだと嘆いている。
そもそも接続詞の成り立ち方、その素姓そのものが曖昧模糊としているようだ。発生論的見地からすれば、日本語にはもともと接続詞というものがなかったといわれている。
ところで、接続詞に逆接の接続詞というのがある。たとえば、「しかし」というのがそれである。いかにも接続詞接続詞した接続詞である。とくに逆接の接続詞を用いるには現象Aと現象Bとの間にある因果関係を発掘しなければならず、きちっと接続詞を立てるということは、論を立てることであると井上はみる。あまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということと同義ではないかという。
わたしたち日本人は、情感を表現するのに有効でないものは使おうとしない。谷崎潤一郎が好んだ古典文、とりわけ平安時代の女流かな文学の文章は、「軽い」働きの接続助詞を駆使して、長く長く連ねられる。つまり論理性を捨て、文と文との間に断崖のできるのをおそれて、「軽い」接続助詞で次々と繋いで行くというのである。現在のわたしたちが「が」を並べてことばの運用を続けていく。どうやら、わたしたちはやはり依然として「論より情け」を重んじた紫式部たちの子孫であるらしいと井上は述べている。
ただ、日本人には徹底的に逆接の接続詞を多用して論理的な作品を創り出た作家もいることも付言している。たとえば、大岡昇平である。彼の『俘虜記』という作品で、アメリカ兵との不意の遭遇のくだりでは、「しかし」を連発している。また接続詞という点では、『野火』で、屍体の上膊部を切り取ろうとする主人公の右手を左手が押さえるくだりでは、「つまり」を羅列している(井上、1984年[1994年版]、79頁~86頁)。

エントロピーについて


川端の『文章読本』をいささかけなしすぎたきらいがあるので、その小説の文章を賞賛している論者の説を紹介しておこう。それは井上ひさしである。
情報理論では、文の推移を予測できる確率が高くなることを「エントロピー(entropy, 不確定度)が小さい」という。逆に、次にどんな文・句がくるのか見当のつかない場合は、「エントロピーが大きい」と称する。
川端康成の小説『雪国』の冒頭は、井上ひさしによれば、その文を構成する句群は、エントロピーが大であると解説している。
その冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。」である。「夜の」の次に「底が」とくる意外性があり、加えてその「夜の底が」「白くな」るという意表をつく飛躍が見られるというのである。この連続が読者の心をしっかりと摑むのであるという。
おしなべて良い作家の文章はエントロピーが大であり、読者の予測を許さないのではないかと井上は述べている。その出だしを読めば、末尾まで見当のつく文章など、だれだって身銭を切ってまで読もうとは思うまいと付言している(井上、1984年[1994年版]、271頁~272頁)。

七五調について


井上ひさしは、七五調について次のような面白い話をしている。
「音韻に関してもうひとつ、七五調の凋落も目につく。『北の宿』(歌・都はるみ、作詞・阿久悠)以来、七五調的歌詞でヒットしたのは、ジュディ・オングの『魅せられて』ぐらいなものだろう。
《南を(ママ)向いてる/窓を明け 一人で見ている/海の色 美しすぎると/怖くなる 若さによく似た/真昼の蜃気楼 wind is blowing from the Aegean 女は海 好きな男の/腕の中でも 違う男の/夢をみる Uh--- Ah--- Uh---Ah---私の中で/お眠りなさい wind is blowing from the Aegean 女は恋……》(作詞・阿木燿子)
正確には(8・5)を基調にしており、後半には英語がそっくりそのまま出てきたりして、このごろの歌謡曲の基調である[七五調破壊]を実行しているが、しかし前半はなんとなく七五調に似せている。七五調の基本リズムを守るかにみせて、基本を破り、この操作によって複雑なリズム感をつくり出しているあたり、なかなか手のこんだ、巧者な芸であるといわなくてはならない(井上、1984年[1994年版]、200頁~201頁)。
この七五調の問題は、後日、別の機会(「フォークソング考」)に論じてみたい。



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