ヤコブはラバンに言った。
「約束の年月が満ちましたから、
わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」
「創世記」 / 29章 21節 旧約聖書 新共同訳
私たちは自分だけの幸せのために
神様を尋ねたのではありません。
神様が
私たち人間の親であることを知り、
その神様が悲しみのお方であることを
知った時から、
自分だけの喜びをすてて
親なる神様をなぐさめたいと
決心したのです。
今、あなたの心がその出発の動機から
はずれていないかをたしかめなさい。
Photo 仙台藩祖伊達政宗のかぶとの飾り (参照)
(ブログ『山城踏査日記』さん)
★河北新報/河北春秋
◆河北新報 2013年9月16日
宮城県内の公的施設でよく目にする三日月のデザインは、言わずと知れた仙台藩祖伊達政宗のかぶとの飾りに由来する。商品にも使われ、先日は洋酒のラベルに「A」の図案文字を見つけた
▼三日月は政宗の主張が強く込められた形ではないとの説がある。戦国武将のうち月を信奉すると、満月が太陽と間違われるので三日月にしたのだという。それが後々ブランド力を持つのだから面白い
▼慶長遣欧使節船出帆400年を記念した本紙連載『潮路はるかに』(毎週金曜日)を読み進んで分かるのは、あの船も歳月を経て輝きを放ったことだ。一時は歴史から葬り去られようとさえした
▼渡航目的の宣教師派遣と貿易はかなわなかった。幕府のキリスト教弾圧で状況が一変した。乗組員を統率し、志半ばのまま帰国した支倉常長はその後、表舞台に立つことなく病没する
▼しかし、踏まれた土から芽が出た。使節派遣は津波に襲われた慶長三陸地震(1611年)から復興を目指した事業との見方が有力になってきた。政宗の雄図に励まされる震災被災者は多かろう
▼時の流れは価値観を変える。どこか月の満ち欠けにも似ている。政宗の辞世の句は<曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く>。
19日は十五夜だという。
(河北新報 2013年9月16日)
▲『樅ノ木は残った』山本周五郎
▼宮城県庁のHPより
★慶長遣欧使節船出帆 400年
潮路はるかに
(32)ソテロの最期/潜入失敗、長崎で殉教
◆河北新報社 2013年09月13日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1117/20130913_01.htm
慶長遣欧使節が帰路のスペインで迷走を繰り返した原因は、イエズス会とインディアス顧問会議による妨害と、使節を率いた宣教師ルイス・ソテロの強烈すぎる個性に求められる。
インディアス顧問会議の本質は情報機関と言ってよく、日本におけるキリスト教界の現状と未来、幕府と蜜月関係にあるオランダやイギリスとスペインの力関係がはっきりと見えていた。
「日本人をローマに行かせてはならない」
顧問会議はスペイン国王にたびたび忠告した。ローマ法王がソテロの口車に乗せられ、スペインの立場を難しくする勅令を発するかもしれない。宣教師の奥州派遣を法王が強く後押しした場合、スペインは法王の意思を拒絶できるだろうか。
日本人巡礼者が求める高位聖職者の増員についても、認めることはできなかった。
伊丹宗味ら3人の巡礼者はソテロに伴われてローマ法王に謁見し、日本で布教しているフランシスコ会、ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会のそれぞれに司教を置き、三派の中から日本の信徒を束ねる大司教1人を任命するよう請願した。フランシスコ会の中で、日本の司教にふさわしい人物といえば、ソテロをおいて他にない。
伊丹らは、聖職者が武士階級の利害にかかわる政治、経済に首を突っ込んだことが信者の迫害に結び付いたと指摘した。南蛮貿易の利でキリシタン大名らを縛り付け、数々のトラブルを引き起こしたイエズス会を批判したようなものだった。
イエズス会も、禁教下の日本に高位の聖職者を送り込むことはできなくなっていた。法王の許可の下、他の修道会が司教の渡航を強行すれば、日本にキリスト教の種をまいたと自負しているイエズス会は、布教の主導権とともに面目まで失う。
だが、インディアス顧問会議にはイエズス会のシンパがそろっていた。
「支倉常長は罪人の子である」「伊達政宗は幕府統制下の地方大名にすぎない」「ソテロは自身の出世に執着し、司教位を狙っている」。イエズス会は、支倉常長らが日本を出発した直後から宣伝戦を展開し、顧問会議の上奏に反映させる形で、使節を窮地に追い詰めていった。
スペインから追い出されたソテロは、アカプルコへ続くメキシコ中央高原の道を、常長らとともに下っていった。途中、マニラ帰りの船員から「今ごろ日本へ行くなんて、死にに行くようなものだ」と忠告された。「われらは人々に福音を伝えるため赴くのです」。一行は意気軒高に答えた。
ソテロのかばんには、政宗宛ての法王の返書が入っていた。また、彼は北日本に新たな布教区を設立する許可と、新布教区の管区長の肩書を手に入れていた。これらを根拠に、奥州を神の世界に変える構想を描いていたのだろう。
マニラ到着は1618年8月。ソテロは早速、新布教区の設立に向け行動を開始する。彼の熱意は周囲の目に独善的と映ったようだ。20年8月、反対派の工作により新布教区設立の許可が取り消され、ソテロはメキシコへの出頭命令を受けた。
常長の帰国から2年後の22年9月中旬、ソテロは出頭命令を振り切るように日本潜入を強行した。薩摩領内の寄港地で捕縛され、マニラから付き添ってきた日本人のルイス笹田修道士、ルイス馬場という14歳の少年とともに長崎へ送られ、大村(長崎県大村市)の特別牢で殉教の日を迎える。
放(ほう)虎(こ)原(ばる)の殉教地跡は、大村警察署の南東400メートルほどの住宅地にある。ここで24年8月25日に行われた火刑の一部始終を、馬方に化けた信徒が目撃したという。
ソテロは笹田と馬場、別に捕らえられたイエズス会とドミニコ会の宣教師と一緒にはりつけ柱に縛られた。5人は炎の中で聖歌を歌った。わら縄が焼き切れると、笹田と馬場はソテロの前にひざまずき、祝福を願った。ソテロは穏やかに言った。「あなた方は既に神に選ばれたのです。罪深い私こそ、あなた方の祈りによって神の祝福を乞わねばならぬ身なのです」
役人が火勢を盛んにし、やっと崩れたソテロの体の上に聖具などの所持品を積み上げ、薪で覆った。法王の返書もこの時に灰になったのだろう。
(本稿は日本海事史学会会員、慶長遣欧使節研究家・高橋由貴彦氏の所説および著書「ローマへの遠い旅」、ロレンソ・ペレス著、野間一正訳「ベアト・ルイス・ソテーロ伝」などを基に執筆した)
(生活文化部・野村哲郎/写真部・高橋諒)
▲長崎県大村市の放虎原では、ソテロの火刑をはじめ、
信者の殉教劇が幾度となく繰り返された。
殉教は喜びなのか、悲劇なのか。
祈念碑のレリーフにさまざまな思いが交錯する。
▲『殉教』山本博文 (光文社新書)
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