[書籍紹介]
明治維新を推進した大隈重信の一代記。
伊東潤により、
佐賀新聞に2019年8月2日から2020年12月31日まで連載された。
私は日本の歴史において、
国家的危機時、日本人が奇跡的な形で変革を遂げたことが
2度あると思っている。
一つは明治維新、もう一つは敗戦。
その明治維新は、
欧州列強の圧力で
アジア諸国のように植民地化される危機に際し、
それを回避し、近代化を成し遂げた。
その中心にいた大隈重信を通じて、
維新の志士たちが
何と闘い、何を成し遂げたかが、よく分かるのが本書だ。
何と闘ったか。
それは、265年続いた幕藩体制だ。
大政奉還という知恵を使って、
徳川幕府は倒れたが、
武士たちの頭の中は、
「家」と「藩」というものが、
隅々まで支配していた。
それはそうだ。
生まれた家柄で藩の中の職務が決まり、
それをしてさえいれば、
「禄」が与えられる。
その体制に265年間もどっぷり浸かっていたのだ。
そう簡単に頭は切り替わらない。
ゼロから新国家を立ち上げるどころか、
幕藩体制というマイナスからの出発だった。
だが、幕府がなくなり、
藩がなくなり、
禄がなくなってしまった。
武士たちが全員失業した。
よくぞ「廃藩置県」という方策を考え、
実行したものだと感心する。
そして、武士たちの頭の中が、
藩ではなく、日本という概念が定着する。
佐賀の国学者、枝吉神陽がこう言う。
「これからは皆、一藩士ではなく、
一日本人として振舞うように」
「日本人、ですか」
「そうだ。われらは日本人だ。
同じ家中ということ以上に、
同じ日本人だという自覚が、
この国には必要なのだ」
──日本人か。いい言葉だな。
この時、大隈は新たな時代の到来を感じた。
佐賀藩の一藩士・大隈八太郎が
激動の幕末の中で、
成長し、時代を押し出していく姿。
次第に大隈は「藩」というものから「国家」を中心に考えるようになる。
そして、武士や商人などという身分の違いが
いかに馬鹿馬鹿しいかを痛感するようになる。
「このままでは、この国は外夷の食い物にされる。
それを防ぐには、迅速な近代化が必要だ。
近代化のためには
幕藩体制の頸木から脱さねばならぬ。
つまり諸藩の富や兵を中央政府が一元的に管理するのだ。
それが版籍奉還であり、
版籍奉還こそが近代化への第一歩となる」
「つまるところ、おはんは藩も武士もなくすっちゅうとな」
「ああ、なくす。
そんなものはこの国にとって百害あって一利なしだ」
明治維新は、藩主や重鎮でなく、
下級武士によってなされたのだ。
大政奉還は元々佐賀藩の志士たちの立案だったが、
それを船で送ってくれた土佐藩の後藤象二郎に話したために、
建白書を先に出され、
功を土佐藩に奪われてしまった、などという話は初めて聞いた。
廃藩置県も元々は大隈が推進していたが、
諸般の情勢から、西郷隆盛にその役を代わったというのも興味深い。
大隈は「国際法」を重視し、
諸外国と対したというのも、なかなかのものだ。
あの短い期間に、
そこまで意識が到達していたのは驚嘆に値する。
薩摩と長州という、
維新の功労者が、
政府の要人を独占することに
大隈は激しく闘う。
明治政府の中にも、
幕藩体制の残滓が強く残っていたのだ。
藩閥政治を終わらせることが大隈の大きな目標になる。
武士が失業し、その不満分子が世間をかき乱すのとも
大隈は戦わなければならなかった。
江戸時代の武士たちは、
仕事をせずとも家禄で食べていけた。
それが士族には染みついているので、
働くという概念自体が欠落しているのだ。
鉄道の敷設にも大隈は深く関わる。
「この国が近代国家となるために必要なのは物流です。
それを支えるのは国家の背骨たる鉄道です。
すでに欧米諸国には鉄道が通り、
国内の重要な町を結んでいます。
鉄道によって人も物も迅速に移動できるようになり、
産業が急速に発達しています。
物流なくして国家なし。
鉄道なくして物流なし。
これは欧米の常識でもあるのです」
実は、この考えには、
物流によって藩という境界をなくする意図があった。
そして、大隈の業績の一つは、教育の機会均等。
それを実現するために東京専門学校、後の早稲田大学を作る。
「これからの世界で最も大切なのは教育です」
福澤諭吉との対比も面白い。
福澤はついに、政治には関わらなかった。
下野を繰り返しても、
再び必要とされ、
総理大臣を2度もつとめた大隈とは対称的である。
その初対面の描写。
福澤の身長は高く、肩幅も広く、骨柄もいい。
だが何と言ってもその顔だちが立派だった。
──どこから見ても美丈夫だな。
学者肌の人物に美丈夫は少ない。
美丈夫は周囲からもてはやされるので、
こつこつと努力を重ねるようなことはしないからだ。
──だが、この男は違うようだ。
福澤により、
地方分権と地方自治が提言されるのも興味深い。
福澤は国権を二つに分け、
第一を政権とし、
立法、軍事、外交、徴税、貨幣鋳造など
全国一致を必要とする権限を有するものとする。
第二を治権とし、
警察、道路などの営繕、学校、衛生など
地方ごとの事情に通じた施策を必要とする権限を持たせるという考えを述べた。
なるほど、地方分権は福澤諭吉の提案だったか。
そして、福澤は言う。
「最も大切なことは、
国民に言論の自由を保障し、
イギリスをモデルとした議員内閣制と
二大政党制を軸とした国会を早期に開設することです」
国会の開設は地方議会の開設にも通じる。
今に至る国の形は、
明治の時代に作られたのだとうよく分かる。
本当に明治の元勲たちの知恵はほとほと感心する。
しかし、明治政府も政争にあけくれ、混迷する。
内閣は何度も倒れ、大隈もその渦の中に巻き込まれる。
伊藤博文や大久保利通らの歴史的人物も登場する。
大隈と道は違えど、
「この国を良くしたい」という思いは一つだということはよく分かる。
それにしても、明治維新という大仕事がどうして成し遂げられたか。
それについては、こう書く。
「日本は三千年の歴史を持つ道徳国家だ。
この道徳は日本国民の中に染み込んでおり、
欧米のように権利ばかりを主張し、
義務を怠るような国民性ではない。
明治維新後、日本は「和魂洋才」を合言葉に
西洋文明を取り入れ、
アジア諸国の中で、
いち早く産業革命の果実を手にした。
それができたのは道徳精神を持つ優秀な国民がいたからだ。
本来なら清国こそアジアのリーダーたるべき存在だ。
しかし清国人は利己的で道徳心を持たない。
だから目先の利益に囚われ、
長い目で産業を育て、時には利他的なこともする文化が育たなかった。
しかし誇りばかりは高い。
これでは近代化は図れない」
多くのことを成し遂げた大隈は、
大正11年(1923年)、1月10日、永眠する。
享年83歳。
数々のことを成し遂げた大隈だが、
海外に行きたいという夢は、ついにかなわなかった。
最後にこう書く。
幕末から明治維新という動乱期に青春を迎え、
明治国家の建設という大任を負った一人として壮年期を過ごし、
さらに大正時代まで国家に貢献してきた大隈の人生は、
才ある者として最高のものだったに違いない。
まさに威風堂々としたその人生に悔いなどなかったばずだ。
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