年中児、年長児・・・この年代になると、ほぼすべての子どもが「はなまる」コレクターと化しています
学習したことをしっかりと理解していようが、理解していまいが、ペーパーを解く段階になると、もう、はなまるをゲットすることしか頭にないようです
私の教室の子ども達には、「自分で考え、理解することはすばらしい!そうして、賢くなってくことはとってもかっこいいし、ステキだ!」と教えています
させられるから、しかたなく、イヤイヤやる・・・これでは、本当には賢くはなれないし、そんなサーカスの動物みたいなことはつまらないじゃない・・・と説いているのです
ですから、これはちょっと自慢ですが、私の生徒達は、常に嬉々として学び、新しいことを学ぶことが嬉しくて楽しくて仕方がない、という様子です
しかし、そんな私の生徒達でさえ、学習がペーパーに移ると、急にソワソワし始め、目が泳ぎだし・・・
自分が即座に正答を導き出せないとなると、じっくり頭を働かせて考えよう!とするよりも、少なくとも今は誰かの解答を見て、とりあえずは「はなまる」をもらえるようにしよう!と心の中では思っていることがすぐにわかります
とりあえずは「はなまる」・・・困ったものです。
これでは、いくら学習をしたところで、本末転倒。一応、次の学習への意欲の原動力となるように、全問正解した場合には「はなまる」をつけるのですが、子ども達の様子を見ていると、「はなまる」だけが独り歩きをしているように思えてなりません
では、どうして彼らは「はなまるコレクター」になるのでしょうか?
もう、おわかりですね。それは、親が「はなまる」を喜ぶからです
「おっ、はなまるじゃないか!いいねえ。よくがんばったね」
こうパパに言われれば、それは嬉しいですよね
「あらー、今日は一枚もはなまるがないのねえ なんだあ。残念 今度はがんばらないとね
ママの浮かぬ顔、全身で落胆を表すようなトーンでこう言われると、子どもは悲しいでしょう
幼い子ども達がね。
自分がわからない時、ちょっとむずかしい時・・・目を皿のようにして、隣の子や、お向かえの子のペーパーにこっそりと目をやり、その後でこそこそと同じ印をつけている様子・・・
想像してみてください かなり卑屈で、正直、とっても醜く、まるで大人のようです
大切なのは、学習したことをしっかりと理解すること、です
わからなければ、何度も教わって、できるように、わかるようになればいいだけです
わかってもいないのに、できもしないのに、ひとまねこざるのように人の解答を盗み、それではなまるをもらって、親に誉められる?!違うでしょう。
「はなまる、をもらえることはステキなことだね でも、はなまるは、本当にわかってよかったね!という意味なんだよ。だから、はなまるがもらえなくても、君が一生懸命に頭をつかって考え、問題を解こうとしたのならば、それはとってもかっこいいことだよ さあ、今度こそ、きみがきちんと理解できるまで、一緒にゆっくりと考えてみよう」
こういう姿勢こそ大切であり、決して大袈裟ではなく、そういう親の姿勢が、本当の意味での「理解力の高い、考えることを惜しまない、聡明な子ども」を育てることになるのです
親がはなまるばかりを誉めていたら、知らず知らずのうちに、わが子は「ひとまねこざる」になってしまいますよ。
人から盗んだ「○印」で、はなまるをもらえたとしても、本当はうれしくないはずですし、幼いながらも、どこかに良心の呵責のような思いは残っています。
ところが、まるでその重い気持ちを払拭するような・・・
「はなまる、良かったわね」というママの満面の笑顔があると・・・またまた、その子は「本当の学習の意義」を理解できずに、単なるはなまるコレクターに成り下がってしまいます
学習したことをしっかりと理解していようが、理解していまいが、ペーパーを解く段階になると、もう、はなまるをゲットすることしか頭にないようです
私の教室の子ども達には、「自分で考え、理解することはすばらしい!そうして、賢くなってくことはとってもかっこいいし、ステキだ!」と教えています
させられるから、しかたなく、イヤイヤやる・・・これでは、本当には賢くはなれないし、そんなサーカスの動物みたいなことはつまらないじゃない・・・と説いているのです
ですから、これはちょっと自慢ですが、私の生徒達は、常に嬉々として学び、新しいことを学ぶことが嬉しくて楽しくて仕方がない、という様子です
しかし、そんな私の生徒達でさえ、学習がペーパーに移ると、急にソワソワし始め、目が泳ぎだし・・・
自分が即座に正答を導き出せないとなると、じっくり頭を働かせて考えよう!とするよりも、少なくとも今は誰かの解答を見て、とりあえずは「はなまる」をもらえるようにしよう!と心の中では思っていることがすぐにわかります
とりあえずは「はなまる」・・・困ったものです。
これでは、いくら学習をしたところで、本末転倒。一応、次の学習への意欲の原動力となるように、全問正解した場合には「はなまる」をつけるのですが、子ども達の様子を見ていると、「はなまる」だけが独り歩きをしているように思えてなりません
では、どうして彼らは「はなまるコレクター」になるのでしょうか?
もう、おわかりですね。それは、親が「はなまる」を喜ぶからです
「おっ、はなまるじゃないか!いいねえ。よくがんばったね」
こうパパに言われれば、それは嬉しいですよね
「あらー、今日は一枚もはなまるがないのねえ なんだあ。残念 今度はがんばらないとね
ママの浮かぬ顔、全身で落胆を表すようなトーンでこう言われると、子どもは悲しいでしょう
幼い子ども達がね。
自分がわからない時、ちょっとむずかしい時・・・目を皿のようにして、隣の子や、お向かえの子のペーパーにこっそりと目をやり、その後でこそこそと同じ印をつけている様子・・・
想像してみてください かなり卑屈で、正直、とっても醜く、まるで大人のようです
大切なのは、学習したことをしっかりと理解すること、です
わからなければ、何度も教わって、できるように、わかるようになればいいだけです
わかってもいないのに、できもしないのに、ひとまねこざるのように人の解答を盗み、それではなまるをもらって、親に誉められる?!違うでしょう。
「はなまる、をもらえることはステキなことだね でも、はなまるは、本当にわかってよかったね!という意味なんだよ。だから、はなまるがもらえなくても、君が一生懸命に頭をつかって考え、問題を解こうとしたのならば、それはとってもかっこいいことだよ さあ、今度こそ、きみがきちんと理解できるまで、一緒にゆっくりと考えてみよう」
こういう姿勢こそ大切であり、決して大袈裟ではなく、そういう親の姿勢が、本当の意味での「理解力の高い、考えることを惜しまない、聡明な子ども」を育てることになるのです
親がはなまるばかりを誉めていたら、知らず知らずのうちに、わが子は「ひとまねこざる」になってしまいますよ。
人から盗んだ「○印」で、はなまるをもらえたとしても、本当はうれしくないはずですし、幼いながらも、どこかに良心の呵責のような思いは残っています。
ところが、まるでその重い気持ちを払拭するような・・・
「はなまる、良かったわね」というママの満面の笑顔があると・・・またまた、その子は「本当の学習の意義」を理解できずに、単なるはなまるコレクターに成り下がってしまいます