しょこらーでさんからご朱印頂きましたパート2。
長野県の松本市・四柱神社と長野市・善光寺。
四柱神社(よはしらじんじゃ) 長野県松本市大手
ご祭神:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおお天かみ)
四柱とは四人の神をさし、すべての願い事が叶う「願い事むすびの神」と最強のパワースポットとして
有名になりました。
明治5年(1872年)に筑摩県松本に設置された神道中教院で、明治7年(1874年)から四柱の神を祀ったことが始まりです。
明治12年(1879年)に現在地に社殿を造営し、村社の四柱神社として遷座しました。
明治21年(1888年)の松本大火で社殿を焼失し、大正13年(1924年)に再建しました。
大鳥居
鳩が寄り付かないように微電流が流れてるそうです。
三峯神社
町内会の方が、埼玉の三峯神社をお祀りしてるそうです。
定額山 善光寺 長野市元善町
ご本尊:一光三尊阿弥陀如来【いっこうさんぞんあみだにょらい】(善光寺如来)
善光寺の創建は聖徳太子が没して20年後くらい、飛鳥時代の642年頃とされます。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、
欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光【ほんだよしみつ】が信濃の国へとお連れし、
はじめは今の長野県飯田市(元善光寺)でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。
皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
飯田市の元善光寺は
「一度詣れよ元善光寺、善光寺だけでは片詣り」と言われてます。
仁王門
1918年建立。善光寺参りの入口となるのがこの仁王門です。仁王には仏敵からお寺を守る役割があります。
高村光雲・米原雲海作、仁王像
山門(三門)
1750年建立。善光寺本堂正面にある大きな門です。「善光寺」の文字の中に五羽の鳩が隠されている鳩字の額が有名です。
上層部は拝観可能となっており、中には智慧の仏である文殊菩薩騎獅像、四天王像、四国八十八ヶ所霊場ゆかりの仏像などが安置されています。
更に回廊からは長野市を一望でき、本堂を上方から見ることができます。
本堂
1707年建立。国宝に指定される木造建築としては4番目の大きさです。
善光寺の御本尊は一光三尊阿弥陀如来。
本堂は入り口を俗世、最奥を極楽、外陣(げじん)には人間を裁く閻魔大王を、
内陣には俗世の救済者である弥勒菩薩と地蔵菩薩が配されています。
最も奥の瑠璃壇(るりだん)には絶対秘仏のご本尊、一光三尊阿弥陀如来像が御安置されています。
瑠璃壇の下には、極楽浄土への往生が約束されるお戒壇巡りがあります。
徳川家大奥供養塔
江戸幕府3代将軍徳川家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉院など、大奥関係者の供養塔です。
江戸で善光寺の出開帳が行われた際には、大奥の強い希望で前立本尊が江戸城内に招き入れられるなど
善光寺は徳川将軍家から篤く信仰されていました。
忠霊殿
戊辰【ぼしん】戦争〜第二次世界大戦で戦死された英霊方を供養しています
経蔵
1759年建立。中には八角の輪蔵【りんぞう】があり、その中には全てのお経を網羅した一切経が収められています。
鐘楼
1853年(嘉永6年)の再建。南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられてます。
回向柱(えこうばしら)
善光寺御開帳(七年に一度)のシンボルとも言えるのが「回向柱」です。
偶然ですが三回お参りしたのですが2回、御開帳の年でこのご利益にあずかってます。
輪回塔
石柱にはめ込まれている車輪状の石(輪廻車)を回すと、諸々の苦悩を抜け出すことができると言われています。」とあります。
輪廻塔は経蔵前に一対で建立され「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています。
聖徳太子の碑(聖徳皇太子の碑)
大勧進
大勧進の寺名は、人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進する「勧進」を意味します。
弘仁8年(817年)伝教大師最澄さま(762~822)、が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠されました。
国宝の本堂と国重要文化財の山門、経蔵がある天台宗大本山の寺院。
護摩堂
一日5回の時間を定め護摩祈願を奉修しておられます。
しょこらーでさん、ありがとうございました。