ぼちぼち日記

シニアの暮らし方や思い、猫たちのことなどをマイペースで記録しています。

「役に立たない日々」  著者:佐野洋子

2024-06-24 11:21:23 | 
私の見栄ってこういう表れ方をするのか。フーン。しかし見栄というものは世間がないと生まれないものである。あれ程私の一生、自分は世間になるまいと腹を固くふんばって来たのに、自分の中に世間が埋蔵されていたのだ。困ったことだ。私の肝は世間に負けた。路地を私はうつむいて歩いていた。
私は、老人になってせめて姿勢だけは良く歩こうといつも思っていたら、ある日道でばったり知り合いに会った。
「あなた何いばってふんぞり返っているの」と知り合いは云った。世間はむずかしい。

もう亡くなってしまったけれど、佐野洋子さんが好きだ。
生き方があまり上手でなく、嘘がつけない人という印象がある。
この人のエッセイを読んでいると、時々自分と重なって切ない気持ちになる。

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「世にも危険な医療の世界史」 著者:リディア・ケイン ネイト・ピーターセン

2024-06-24 10:55:51 | 


私たちのなかには何種類ものバイアスがある――確証バイアス[自分の願望や信念を裏づける情報に目がいきがちなこと]、内集団バイアス[自分の所属する集団の能力や人格が優れていると評価しがちなこと]、そして購入後の正当化などの心理的要因だ。私達がハーブ入りの咳止めだの、ガン活性消滅療法、高価なPRP療法だのといった、さまざまな治療法をシステマチックに評価する際には、こうしたバイアスの影響を受けるのである。
最終的には次の簡単な問いを自問するといいだろう。その治療法には信頼できるエビデンスがあると思うか?副作用が出ても構わないか?それから忘れてはならない問がもう一つ――治療費にいくらまで払えるか?



読めば読むほど恐ろしい。
今となれば身の毛がよだつ治療も、その時代にはおおまじめに行われており、どれほどの被害であったろう。
正気ではないと呆れても、その時代には正気で行われていたという事実。
多大な犠牲のもとに今がある。
しかし、現代の医療技術があれば安心とも言えず。
グローバル社会。被害のスケールは昔の比ではないだろうな。


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「葬式消滅」 著者:島田裕巳

2024-05-21 21:30:46 | 
今や葬式をめぐってはひとつの大きな流れが生まれています。
葬式は不要のものになり、それは墓にまで及んできました。
葬式は徹底して簡略化され、墓を造らないことが常識になりつつあります。
それは葬式も墓もすっかり時代遅れのものになってしまったからです。
また、もう一つ重要なこととしては、死のあり方が大きく変わってしまったことがあげられます。死は以前に比べて重要なものではなくなりました。
死によって、その人の人生が決定的に断ち切られるということではなくなりました。
人は、年を重ねるとともに、次第に死の世界へ近づき、徐々にそこに溶け込んでいくようになったのです。フェイドアウトしていくととらえてもいいでしょう。死が重要性を失えば、死の後に執り行われる葬式はさほど意味を持ちません。個人と一緒に暮らしてきた家族にとっては、それなりに重い出来事であっても、家族以外の他者にとっては、さほど重要な意味を持たないのです。
そこに「葬式消滅」という事態が生まれているのです。

高齢者が亡くなっていくその様子をフェイドアウトというのはわかりやすい表現だ。若い人たちとは葬式の在り方が全く異るのも自然なことだ。
紹介した文だけ切り取ると、冷たい言いように感じる人もいるだろうが、今の時代を考えれば著者の説明はよく理解出来る。
この本を読んで、改めて自分の死生観についても考えを固めることが出来た。
是非多くの人に読んでほしい一冊だ。
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「死なれちゃったあとで」  著者:前田隆弘

2024-05-12 11:36:26 | 
情けない人生でした。
その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれた。死別の悲しみとは違う涙。悔し涙に近い。情けないって、そんな言葉で人生締めくくる奴があるかよ。どうせ死ぬのならせめて楽しい思い出を振り返ってほしかった。死ぬその瞬間まで情けなさに包まれていたなんて。情けない人生の中に、ささやかでもいいから何か灯りのようなものを見出してほしかった。


著者が亡くした大切な人への思いが、独特の温かい文章でつづられている。
身近な人の死について、生について。
いつまでも続くと思いこんでいた人とのつながりは、意外にあっけなく切断されること。
それでもその人の思い出の数々は容易に消え去るものではなく、残された人の胸に痛みを伴って残されるものであることなど。

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「死んだ動物の体の中で起こっていたこと」著者:中村進一

2024-04-22 16:32:12 | 
・・・・・病理解剖していると、このような「意図せぬ虐待」にしばしば遭遇し、そのたびに胸が痛みます。
別のケースでは、飲食店を経営されていた飼い主さんが「店で余ったラーメンや残飯をイヌに毎日与えていた」ということもありました。このイヌも偏った栄養からくる病を発症して亡くなっていました。
動物を飼うということは、極論すれば人間の一方的な都合です。であれば、不幸にして動物が亡くなったとき、せめて人はその死の原因をしっかりと究明するべきです。そして、死の検証から何らかの「教訓」を引き出すのは獣医病理医の仕事であり、その教訓をしっかりと学ぶのは動物を飼う者の義務です。

ここには沢山の動物たちの死が紹介されている。著者は死んだ動物を病理解剖し、その死因をつきとめる獣医だ。どの動物の死も胸が痛む。
意図せぬ虐待という言葉も胸に刺さった。これまで共に過ごした動物たちのことを思い起こしながら、まさに自分もその罪を負っていることを痛感する。
せめて少しでも動物たちに害しない人間でありたいと願いながら行動するほかないと、改めて感じた。
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