初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
何かが出現する以前に、すでに、そこにいる、ある、過ぎ去っている皆様、笑
独りで扇風機に当たりながらブログ更新している豊田です。
今日は8時50分ごろに悠聖がギャン泣きして、起こされてしまった。
なんと美女軍団が夢の中にいたのだ!
それを、ハッと目を覚まされたから、もうちょっと続きーと思っていたのだがww
気分悪く「ちぃちゃん! ちぃちゃん!」と呼んでいたのだが、返事がないので、居間へ向かうと、同時に、千鶴さんも和室を覗きこんできた。
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「しゃーないやん、子供なんやで!」と怒っている……。
苛々病に支配されたダメ人間だめまは「食べさせ、食べさせ―、食えやん言っても、食べさせろ―」と最悪の失言を連発してしまうのです……orz
おいおい、感謝してるんじゃなかったのか?
まあ、こんなもんで、ただ、美女が出てきた夢が消えたので、怒っていたのです、爆笑
ごめん!
で、苛々しながら、洗面をして、なんか言い合い。
悠聖は落ち着いたり、泣いたりをしばらくだけしていたが、機嫌を直して、笑っている。
自由奔放じゃなあww
洗面を終えると、気分を直して、座禅1時間です。
1時間やるのは超久しぶりだったので、めんどそうで迷った。
やってみると、まあ、時間は、あ、と言う間ですね。
胸と背中が痛んでいる。
短時間では気づかなかったが、やっぱり、胸を守ろうとして、ぎゅうっと前方に丸まっているので、肩も硬くなるのだろうね。
だんだんと感覚が回復するときの兆候である、痺れが、やってくる。
なかなか、重症じゃなあとか、思考が、様々に、ぐるぐると回転していく。
静かな空間が、ぜんぶを吸収している。
悠聖がやってきて、背中に、抱き着いて「あわあわー」と言うww
しばらくするとピピピと携帯のアラームが鳴って、座禅終了。
座禅なのに、眼を瞑っているのだが、瞼を開ける時は、特に慎重に、感じながらやる。
中々、難しい。
眼を開けると、柔らかい白光が溢れている。
眼には見えない白光である。
あと、だいたい、いつも座禅を終えると胸に手を当てて、深呼吸しながら、呼気とともに「アーー」とやる。
すると呼吸が深いとみぞおちが振動するが、浅いとうまく響いていないのが、わかる。
あとは手や首をのばしたり、回したりして、身体の感覚をみる。
「いつまで座っとんの?」と千鶴さんが呆れているww
「休みの日だから1時間座ったの」と言っていると肩をもんでくれたのだが、痛い、痛い。
「こってるから痛いんやに」と言いながら、ぐりぐりとやってくるので、短時間でやめてもらったww
なんだ、座禅より、肩もんでもらう方が、肩の力抜けるんじゃないかとか思った、爆笑
まあ、対処療法的であるが……。
で、座禅を終えてから、コーヒー、煙草、あんど、読書のはずなのだが、悠聖が外へ出てきて、歩き回るので、全然集中できない。
1行読んでは「ゆうちゃーん、そっち行ったらあかんよー」みたいな感じです。
まあでも、このストレスも、いいことなのだと、僕は気が付いたのですよ。
いてくれることが、いいのです。
まあ、本の内容は、生死を明らめるとか、書いてありましたね。
死ぬのは一体、誰なのか?
生きるのは一体、誰なのか?
生きる前、死んだあとに何があるのか?
まあ、死の恐怖というものが、人を宗教に向かわせる根本ですよね。
人間の計算では計り知れないことを、探求したくなる。
で、結局、最後には「考えても何にもわからん」
それ以前に、ぜんぶ、ちゃんと、このまんま、自然のまんまで、それが仏の消化物だ。
まあ、これは僕の意見で、書いてあったのは、一如であるということです。
生死も仏も一如にして、ここにあるということですね。
生きる死ぬの姿も、消え去った仏さんも、ここに、この世にいるのです。
これが究極の真理『天国地獄はこの世にござる』である。
読書を終えると、食事です。
バタバタしながら、一緒に準備する。
悠聖が「まんま」を欲しがるww
豆腐が好きなようで、指をさして、コレくれと合図。
成長したなあ。
ご飯、みそ汁、豆腐の焼いたやつ、キムチ、納豆玉子で、食べました。
満腹になってから、母親の家で、昨日見ていた『堀澤祖門さんと大和田菜穂さんの対談』を見る。
まあ阿部さんもいたww
ここから(出典:ウィキペディア)
堀澤祖門
堀澤 祖門(ほりさわ そもん、昭和4年(1929年)- は、天台宗の僧侶。平成25年(2013年)から、三千院門跡門主。それ以前は叡山学院院長。
京都大学経済学部学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し、叡南祖賢の弟子となる。叡南祖賢に千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められ、「侍真」として「十二年籠山」を、佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行。これにより明治以来途絶えていた本格的な十二年籠山比丘が復興した。
著書[編集]
『求道遍歴 : 十二年籠山、そしてその後(法藏選書, 31)』法蔵館, 1984.11
叡南祖賢
叡南 祖賢(えなみ そけん、明治36年(1903年)5月15日 - 昭和46年(1971年)1月4日)は、天台宗の僧侶。
第二次世界大戦直後に比叡山の北嶺千日回峰行を満行する。延暦寺無動寺谷明王堂などにおいて数多くの弟子を育て、また延暦寺執行として制度の改正、諸堂の営繕など一山の興隆に務めた。 当時、比叡山門前町である坂本では、「和尚さんといえば叡南祖賢大和尚のこと」であった。
経歴
明治36年(1903年)、愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。
明治43年(1910年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正の戒師により得度。同年、愛知県龍光寺住職・稲田祖珪師の養子となり、名を賢一から祖賢と改名。
大正7年(1918年)、地元愛知の中学校から、比叡山中学に転校。
大正11年(1922年)、天台宗西部大学に入学。
大正12年(1923年)、比叡山無動寺谷玉照院にて四度加行履修(阿闍梨叡南覚誠師)。
大正13年(1924年)、登担受戒(伝戒師吉田源応大僧正)。
大正15年(1926年)、西部大学専修院別科修了、本科入学。
昭和2年(1927年)、賢林寺徒弟より叡南覚誠徒弟に転師。
昭和5年(1930年)、西部大学専修院本科卒業。天台宗史を専門として卒論は2,000枚の大論文であり、教学をになう学僧として将来を嘱望されていた。回峰行初百日満行。
昭和8年(1933年)、叡山学院講師拝命。
昭和15年(1940年)、私淑していた三千日回峰行者の奥野順玄大阿闍梨が遷化。そのあとを継ぎ無動寺谷明王堂輪番となる。延暦寺幹事拝命。籠山十二年に入る。
昭和16年(1941年)、回峰行二百日満行。
昭和19年(1944年)、明王堂参籠(断食断水)満行。
昭和21年(1946年)9月19日、壱千日大行満相承得業。
昭和21年(1946年)11月11日、京都御所土足参内玉体加持奉修。
昭和24年(1949年)、安楽律院住職。好相行を修し満行。十万枚大護摩奉修。安楽律院火災で同寺本堂などを焼失。その後、坂本の松禅院跡に律院を創建。
昭和26年(1951年)、叡南覚誠師の養子となり、稲田祖賢から叡南祖賢に。
昭和27年(1952年)、天台修験道管領。
昭和34年(1959年)、師僧叡南覚誠の延暦寺執行就任で副執行就任に。
昭和35年(1960年)、法灯護持会結成発起人会。同会結成に尽力する。
昭和37年(1962年)、大僧正補任。
昭和38年(1963年)、比叡山執行。手足となった秘書は森川宏映探題だった。
昭和39年(1964年)、戸律説法勤仕。
昭和41年(1966年)、奧比叡自動車道開通。横川恵心院焼失。西塔に居士林開設。
昭和42年(1967年)、擬講に補任。
昭和44年(1969年)、比叡山執行三選。延暦寺長臈職拝命。
昭和46年(1971年)、自坊(慈門庵)にて遷化(67歳)。
昭和63年(1988年)、坂本・律院の本堂横に銅像が建てられる。
エピソード
学問僧として天台宗西部大学専修院の卒業論文「台密諸流史の研究」は原稿用紙2000枚の大論文であった。京都大学松本文三郎博士をして「きちんと考証すれば学位論文になる価値は十分」と言わしめた。それまで、「峰の白サギ」などと、行ばかりが専一で学問はなおざりと山内の僧から見られていた無動寺が「学・行」の気風を備えることとなった。千日回峰行昭和15年、三千日回峰の大行満・奥野玄順阿闍梨の急死により、東塔無動寺谷に伝えられてきた千日回峰行は後継者が途絶えんとした。当時、西部大学専修院講師であった祖賢師は、千日回峰と十二年籠山を決意する。「有り金全部を京都の祇園や大津の料亭でスッカラカンになるまでつこうて」から、刻み煙草二袋とキセルをお供に無動寺谷にのぼる。終戦の年の九百日大回り回峰行では、アメーバー赤痢にかかり何度も雨中に倒れたほどの苦行であった。千日回峰行者の満行を報告する京都御所土足参内は、明治維新以来中断していたが後に弟子となる勧修寺厚顕元伯爵の奔走で実現した。諸堂の整備と諸制度の改正昭和28年に明王堂輪番を葉上照澄師に譲ってからは、坂本におりて律院、恵光院、蓮華院、止観院、竜珠院、泰門庵など人手に渡りかけていた里坊の整備につとめた。また、副執行、執行として奧比叡ドライブウェー建設、居士林・修行院の開設、諸堂の営繕、経営合理化などで宗政をリードした。修行に関わる諸制度の改正にも熱心であった。執行時代の秘書に森川宏映探題がいた。人材育成(弟子・法嗣・寄宿者)戦中から戦後の食糧難の時代にあって、多数の小僧たちと山中の無動寺で起居をともにした。物に執着せず、せっかく信者が持参した食物なども、訪ねて来た他の信者に分け与えてしまうことがたびたびであった。小僧たちが失敗し貴重な什器などを破損しても、嘘を言わなければとがめることはなかった。一方で、行には厳しさを求めた。弟子・法嗣・寄宿者は百数十名といわれ、比叡山はおろか天台宗興隆の基礎となる人材を育てた。
弟子・法嗣
葉上照澄 東京帝国大学を卒業、大正大学教授をしていたが、敗戦を機に決然として比叡山にのぼり千日回峰行を満行する。祖賢師とは義兄弟の契りを結ぶ仲だった。葉上師は祖賢師を「三〇〇年に一人の人材、天海大僧正以来の人物」と評価する。
勧修寺信忍祖賢 大阿闍梨の御所土足参内に貢献した元伯爵。葉上照澄師に続き千日回峰行を満行。
叡南覚照 前赤山禅院住職。千日回峰行を満行。祖賢師に師事する小僧の筆頭であった。弟子に「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」出演のバラエティタレント栢木寛照。
叡南覚範 毘沙門堂門跡門主。
藤光賢 曼殊院門跡門主。
村上光田 善光寺一山住職、延暦寺一山東塔院住職。最澄が東山道(現在の中山道)の難所神坂峠に開いた布施屋(宿泊施設)広拯院を復興し、信濃比叡広拯院を開山した。他、比叡山の諸堂の仏像を数体寄進し、復興に寄与している。
堀澤祖門 三千院門跡門主、前叡山学院院長。京都大学学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し弟子となる。「侍真」として「十二年籠山」を満行。これにより明治以来途絶えていた本格的な十二年籠山比丘が復興した。
中野英賢 堀澤祖門師に続いて十二年籠山を満行。東塔の復興新築に寄与。
叡南俊照 律院・赤山禅院住職。叡南覚照師の弟子で祖賢師の謦咳にも接している。千日回峰行を満行。
福田徳衍(徳郎) 小学5年(12歳)のときに弟子となり22歳まで祖賢師の元で小僧生活をして過ごす。大学卒業後、朝日新聞の記者・カメラマンとなり、司馬遼太郎『街道をゆく』「叡山の諸道」では福田師自身の法華大会(広学竪義)を司馬が御簾ごしに見学し、「すべてが鬱金色のなかに沈んでいる」と表している。
参考資料
『叡南祖賢大和尚を偲びて』芝金聲堂、1971年
葉上照澄『道心』春秋社、1971年
福田徳衍「道心の人・叡南祖賢師」『大法輪』、1988年(昭和63年)8月号
長尾三郎『忘己利他』講談社、2002年
ウィキペディア、ここまで。
時間のある人は↓↓ Youtubu見てみるとおもしろいかも?
行 ~比叡山 千日回峰行~
「情熱」を持ち続ける心構えがあれば、人生は必ず開ける~慈眼寺住職・塩沼亮潤氏
おもしろいなあ。
まあ考えるから、分からなくなるんだよねww
ただ、ここにいるだけ、という純粋経験は、もう終わっているのだ。
だから、誰かに起きているわけじゃないという表現になる。
しかし、機能としての、この縁起した世界は展開しているし、これからも展開し続けるだろう。
個人がいないのは、縁しかないからである。
そして、考えないところ、知らないところ、存在しないところに、ニルヴァーナがある。
あるのだが、ないのだ、爆笑
ないのが、あるのだ。
で、対談を楽しく見終わってから、ブログの更新をしています。
今日は悠聖くん、水疱瘡の予防接種2回目に、小児科へ連れて行かないとです。
注射かわいそーやなあ。
んじゃ、またです!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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何かが出現する以前に、すでに、そこにいる、ある、過ぎ去っている皆様、笑
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今日は8時50分ごろに悠聖がギャン泣きして、起こされてしまった。
なんと美女軍団が夢の中にいたのだ!
それを、ハッと目を覚まされたから、もうちょっと続きーと思っていたのだがww
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苛々病に支配されたダメ人間だめまは「食べさせ、食べさせ―、食えやん言っても、食べさせろ―」と最悪の失言を連発してしまうのです……orz
おいおい、感謝してるんじゃなかったのか?
まあ、こんなもんで、ただ、美女が出てきた夢が消えたので、怒っていたのです、爆笑
ごめん!
で、苛々しながら、洗面をして、なんか言い合い。
悠聖は落ち着いたり、泣いたりをしばらくだけしていたが、機嫌を直して、笑っている。
自由奔放じゃなあww
洗面を終えると、気分を直して、座禅1時間です。
1時間やるのは超久しぶりだったので、めんどそうで迷った。
やってみると、まあ、時間は、あ、と言う間ですね。
胸と背中が痛んでいる。
短時間では気づかなかったが、やっぱり、胸を守ろうとして、ぎゅうっと前方に丸まっているので、肩も硬くなるのだろうね。
だんだんと感覚が回復するときの兆候である、痺れが、やってくる。
なかなか、重症じゃなあとか、思考が、様々に、ぐるぐると回転していく。
静かな空間が、ぜんぶを吸収している。
悠聖がやってきて、背中に、抱き着いて「あわあわー」と言うww
しばらくするとピピピと携帯のアラームが鳴って、座禅終了。
座禅なのに、眼を瞑っているのだが、瞼を開ける時は、特に慎重に、感じながらやる。
中々、難しい。
眼を開けると、柔らかい白光が溢れている。
眼には見えない白光である。
あと、だいたい、いつも座禅を終えると胸に手を当てて、深呼吸しながら、呼気とともに「アーー」とやる。
すると呼吸が深いとみぞおちが振動するが、浅いとうまく響いていないのが、わかる。
あとは手や首をのばしたり、回したりして、身体の感覚をみる。
「いつまで座っとんの?」と千鶴さんが呆れているww
「休みの日だから1時間座ったの」と言っていると肩をもんでくれたのだが、痛い、痛い。
「こってるから痛いんやに」と言いながら、ぐりぐりとやってくるので、短時間でやめてもらったww
なんだ、座禅より、肩もんでもらう方が、肩の力抜けるんじゃないかとか思った、爆笑
まあ、対処療法的であるが……。
で、座禅を終えてから、コーヒー、煙草、あんど、読書のはずなのだが、悠聖が外へ出てきて、歩き回るので、全然集中できない。
1行読んでは「ゆうちゃーん、そっち行ったらあかんよー」みたいな感じです。
まあでも、このストレスも、いいことなのだと、僕は気が付いたのですよ。
いてくれることが、いいのです。
まあ、本の内容は、生死を明らめるとか、書いてありましたね。
死ぬのは一体、誰なのか?
生きるのは一体、誰なのか?
生きる前、死んだあとに何があるのか?
まあ、死の恐怖というものが、人を宗教に向かわせる根本ですよね。
人間の計算では計り知れないことを、探求したくなる。
で、結局、最後には「考えても何にもわからん」
それ以前に、ぜんぶ、ちゃんと、このまんま、自然のまんまで、それが仏の消化物だ。
まあ、これは僕の意見で、書いてあったのは、一如であるということです。
生死も仏も一如にして、ここにあるということですね。
生きる死ぬの姿も、消え去った仏さんも、ここに、この世にいるのです。
これが究極の真理『天国地獄はこの世にござる』である。
読書を終えると、食事です。
バタバタしながら、一緒に準備する。
悠聖が「まんま」を欲しがるww
豆腐が好きなようで、指をさして、コレくれと合図。
成長したなあ。
ご飯、みそ汁、豆腐の焼いたやつ、キムチ、納豆玉子で、食べました。
満腹になってから、母親の家で、昨日見ていた『堀澤祖門さんと大和田菜穂さんの対談』を見る。
まあ阿部さんもいたww
ここから(出典:ウィキペディア)
堀澤祖門
堀澤 祖門(ほりさわ そもん、昭和4年(1929年)- は、天台宗の僧侶。平成25年(2013年)から、三千院門跡門主。それ以前は叡山学院院長。
京都大学経済学部学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し、叡南祖賢の弟子となる。叡南祖賢に千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められ、「侍真」として「十二年籠山」を、佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行。これにより明治以来途絶えていた本格的な十二年籠山比丘が復興した。
著書[編集]
『求道遍歴 : 十二年籠山、そしてその後(法藏選書, 31)』法蔵館, 1984.11
叡南祖賢
叡南 祖賢(えなみ そけん、明治36年(1903年)5月15日 - 昭和46年(1971年)1月4日)は、天台宗の僧侶。
第二次世界大戦直後に比叡山の北嶺千日回峰行を満行する。延暦寺無動寺谷明王堂などにおいて数多くの弟子を育て、また延暦寺執行として制度の改正、諸堂の営繕など一山の興隆に務めた。 当時、比叡山門前町である坂本では、「和尚さんといえば叡南祖賢大和尚のこと」であった。
経歴
明治36年(1903年)、愛知県丹羽郡豊富村(現、一宮市千秋町)の伊藤家の二男として生まれる。
明治43年(1910年)、7歳で愛知県西春日井郡賢林寺において密蔵院中村勝契大僧正の戒師により得度。同年、愛知県龍光寺住職・稲田祖珪師の養子となり、名を賢一から祖賢と改名。
大正7年(1918年)、地元愛知の中学校から、比叡山中学に転校。
大正11年(1922年)、天台宗西部大学に入学。
大正12年(1923年)、比叡山無動寺谷玉照院にて四度加行履修(阿闍梨叡南覚誠師)。
大正13年(1924年)、登担受戒(伝戒師吉田源応大僧正)。
大正15年(1926年)、西部大学専修院別科修了、本科入学。
昭和2年(1927年)、賢林寺徒弟より叡南覚誠徒弟に転師。
昭和5年(1930年)、西部大学専修院本科卒業。天台宗史を専門として卒論は2,000枚の大論文であり、教学をになう学僧として将来を嘱望されていた。回峰行初百日満行。
昭和8年(1933年)、叡山学院講師拝命。
昭和15年(1940年)、私淑していた三千日回峰行者の奥野順玄大阿闍梨が遷化。そのあとを継ぎ無動寺谷明王堂輪番となる。延暦寺幹事拝命。籠山十二年に入る。
昭和16年(1941年)、回峰行二百日満行。
昭和19年(1944年)、明王堂参籠(断食断水)満行。
昭和21年(1946年)9月19日、壱千日大行満相承得業。
昭和21年(1946年)11月11日、京都御所土足参内玉体加持奉修。
昭和24年(1949年)、安楽律院住職。好相行を修し満行。十万枚大護摩奉修。安楽律院火災で同寺本堂などを焼失。その後、坂本の松禅院跡に律院を創建。
昭和26年(1951年)、叡南覚誠師の養子となり、稲田祖賢から叡南祖賢に。
昭和27年(1952年)、天台修験道管領。
昭和34年(1959年)、師僧叡南覚誠の延暦寺執行就任で副執行就任に。
昭和35年(1960年)、法灯護持会結成発起人会。同会結成に尽力する。
昭和37年(1962年)、大僧正補任。
昭和38年(1963年)、比叡山執行。手足となった秘書は森川宏映探題だった。
昭和39年(1964年)、戸律説法勤仕。
昭和41年(1966年)、奧比叡自動車道開通。横川恵心院焼失。西塔に居士林開設。
昭和42年(1967年)、擬講に補任。
昭和44年(1969年)、比叡山執行三選。延暦寺長臈職拝命。
昭和46年(1971年)、自坊(慈門庵)にて遷化(67歳)。
昭和63年(1988年)、坂本・律院の本堂横に銅像が建てられる。
エピソード
学問僧として天台宗西部大学専修院の卒業論文「台密諸流史の研究」は原稿用紙2000枚の大論文であった。京都大学松本文三郎博士をして「きちんと考証すれば学位論文になる価値は十分」と言わしめた。それまで、「峰の白サギ」などと、行ばかりが専一で学問はなおざりと山内の僧から見られていた無動寺が「学・行」の気風を備えることとなった。千日回峰行昭和15年、三千日回峰の大行満・奥野玄順阿闍梨の急死により、東塔無動寺谷に伝えられてきた千日回峰行は後継者が途絶えんとした。当時、西部大学専修院講師であった祖賢師は、千日回峰と十二年籠山を決意する。「有り金全部を京都の祇園や大津の料亭でスッカラカンになるまでつこうて」から、刻み煙草二袋とキセルをお供に無動寺谷にのぼる。終戦の年の九百日大回り回峰行では、アメーバー赤痢にかかり何度も雨中に倒れたほどの苦行であった。千日回峰行者の満行を報告する京都御所土足参内は、明治維新以来中断していたが後に弟子となる勧修寺厚顕元伯爵の奔走で実現した。諸堂の整備と諸制度の改正昭和28年に明王堂輪番を葉上照澄師に譲ってからは、坂本におりて律院、恵光院、蓮華院、止観院、竜珠院、泰門庵など人手に渡りかけていた里坊の整備につとめた。また、副執行、執行として奧比叡ドライブウェー建設、居士林・修行院の開設、諸堂の営繕、経営合理化などで宗政をリードした。修行に関わる諸制度の改正にも熱心であった。執行時代の秘書に森川宏映探題がいた。人材育成(弟子・法嗣・寄宿者)戦中から戦後の食糧難の時代にあって、多数の小僧たちと山中の無動寺で起居をともにした。物に執着せず、せっかく信者が持参した食物なども、訪ねて来た他の信者に分け与えてしまうことがたびたびであった。小僧たちが失敗し貴重な什器などを破損しても、嘘を言わなければとがめることはなかった。一方で、行には厳しさを求めた。弟子・法嗣・寄宿者は百数十名といわれ、比叡山はおろか天台宗興隆の基礎となる人材を育てた。
弟子・法嗣
葉上照澄 東京帝国大学を卒業、大正大学教授をしていたが、敗戦を機に決然として比叡山にのぼり千日回峰行を満行する。祖賢師とは義兄弟の契りを結ぶ仲だった。葉上師は祖賢師を「三〇〇年に一人の人材、天海大僧正以来の人物」と評価する。
勧修寺信忍祖賢 大阿闍梨の御所土足参内に貢献した元伯爵。葉上照澄師に続き千日回峰行を満行。
叡南覚照 前赤山禅院住職。千日回峰行を満行。祖賢師に師事する小僧の筆頭であった。弟子に「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」出演のバラエティタレント栢木寛照。
叡南覚範 毘沙門堂門跡門主。
藤光賢 曼殊院門跡門主。
村上光田 善光寺一山住職、延暦寺一山東塔院住職。最澄が東山道(現在の中山道)の難所神坂峠に開いた布施屋(宿泊施設)広拯院を復興し、信濃比叡広拯院を開山した。他、比叡山の諸堂の仏像を数体寄進し、復興に寄与している。
堀澤祖門 三千院門跡門主、前叡山学院院長。京都大学学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し弟子となる。「侍真」として「十二年籠山」を満行。これにより明治以来途絶えていた本格的な十二年籠山比丘が復興した。
中野英賢 堀澤祖門師に続いて十二年籠山を満行。東塔の復興新築に寄与。
叡南俊照 律院・赤山禅院住職。叡南覚照師の弟子で祖賢師の謦咳にも接している。千日回峰行を満行。
福田徳衍(徳郎) 小学5年(12歳)のときに弟子となり22歳まで祖賢師の元で小僧生活をして過ごす。大学卒業後、朝日新聞の記者・カメラマンとなり、司馬遼太郎『街道をゆく』「叡山の諸道」では福田師自身の法華大会(広学竪義)を司馬が御簾ごしに見学し、「すべてが鬱金色のなかに沈んでいる」と表している。
参考資料
『叡南祖賢大和尚を偲びて』芝金聲堂、1971年
葉上照澄『道心』春秋社、1971年
福田徳衍「道心の人・叡南祖賢師」『大法輪』、1988年(昭和63年)8月号
長尾三郎『忘己利他』講談社、2002年
ウィキペディア、ここまで。
時間のある人は↓↓ Youtubu見てみるとおもしろいかも?
行 ~比叡山 千日回峰行~
「情熱」を持ち続ける心構えがあれば、人生は必ず開ける~慈眼寺住職・塩沼亮潤氏
おもしろいなあ。
まあ考えるから、分からなくなるんだよねww
ただ、ここにいるだけ、という純粋経験は、もう終わっているのだ。
だから、誰かに起きているわけじゃないという表現になる。
しかし、機能としての、この縁起した世界は展開しているし、これからも展開し続けるだろう。
個人がいないのは、縁しかないからである。
そして、考えないところ、知らないところ、存在しないところに、ニルヴァーナがある。
あるのだが、ないのだ、爆笑
ないのが、あるのだ。
で、対談を楽しく見終わってから、ブログの更新をしています。
今日は悠聖くん、水疱瘡の予防接種2回目に、小児科へ連れて行かないとです。
注射かわいそーやなあ。
んじゃ、またです!