初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ただ過ぎ去る行為の中に、思いをとどめず、流れ去るがままに身を任せている皆様。
ただいま、ガムを噛みながら母親の家でブログ更新を始めました豊田です。
車のバックするピーピーピーピーという音や、走る音、時計の音、鳥のさえずり、自分の噛んでいる音、PCの音等々、様々な音がしている。
普段無意識の時にはしない音は、開放されると感じられるようになる。
ただ、焦点を絞るか開くか、能動的であるか受動的であるかの違いなのである。
今日は12時半過ぎに起きてきました。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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ゴロゴロしていると千鶴さんがくる。
悠聖はギャンギャンと泣きわめいている。
洗面をしながら観察しているとどうもバナナが食べたい様子。
食べたいのだが「アワアワしやなやらんに!」と千鶴さんが切れているので、どうも手を洗わないようだ。
バナナが先の方がいいのだろう、笑
子供って腹が立ったら泣き、痛かったら泣き、嫌なことがあったら泣き、と、よく泣くが、関心が次のことに移ると瞬時に笑顔になって笑っていたりする。
そのような、ことが、自然なのであって、後から身に着けた礼儀と常識がそれを阻害しているだけなのである。
全然暴力的じゃない。
子供の方が平和であるし、人間の調和がとれている。
洗面を終えると座禅40分ですね。
「座禅するで静かになあ」と言ったら、千鶴さんが和室の襖を閉めた。
しばらく座っていると悠聖が開けようとしてガサガサとしている。
どうも開かなかったようで、諦めて、どこかへ行った。
座っていると様々な妄念がくる。
眠くなって意識が持っていかれそうになり、ピクンとなる。
瞬間に恐怖心も沸く。
自分をどうこうしたいという欲望もある。
身体の角度やら、感覚の不在に注意が向くときもある。
何もしていないようでも、様々な心の動きが観察されてくる。
方向のないめちゃくちゃ行き当たりばったりの、気づきと、思考の群れたち。
瞬間、それらが払われて、明らかになる現在。
人間が作り上げたものではない、過ぎ去る前の無点とも呼べそうな、そのあるがままが、姿を顕す。
座禅を終えると、コーヒーを入れて玄関脇で読書ですね。
今日も日差しが強く、顔に当たるのでポカポカと暖かくなる。
工場建設工事の音も余り気にならず、読書に集中できる。
本には、跡をとどめないと書いてあった。
痕跡を残さない。
無覚であるということですね。
これは非常に難しいですが、まあ、やろうと努力することはできますよね。
つまり考えないということです。
俺がああした、アイツがこうした等々を記憶にとどめ置いて、そこから、次の手が出てくる。
怒ってみたり、泣いてみたりする。
するとまた、そのことをとどめて、あれがこうだ、これがああだとやっていく。
覚えないなら、残さないなら、それは、そのままで、また違うことがやってくると分かるわけですね。
でも、だからと言って、思いが消滅するわけではないのであります。
つまり、あるがままなのですが、そのあるがままの生ずる母体が、我であるか、自然縁起であるかの違いなのです。
片一方は頑なに考えて自己の利益を追求する。
もう一方は、あまり考えすぎずに、今、自分の手が何をしているのかを知って、それについて考える。
自然の、今ある働きの中で、結果を手放しているわけです。
ああなるこうなるは、なく、今、この手が、何をすべきか、何をすることが道理に叶うのか、そういった方向に思考が傾くわけですね。
だから、別に考えなしになるわけじゃないですが、やっては消えていく思考に跡は残らないわけです。
瞬間瞬間のことですからね。
で、読書を終えると千鶴さんが作ってくれた焼うどんを食べます。
座禅する前に「そんなに遅いんやったら今日はカップラーメンやに」と言っていたのだが、作ってくれたようだ。
ありがたやー。
「こっちのがいいやろ?」と言っている、笑
やっぱり手作りが一番いいのですね。
外食でも一緒ですが、顔の見える関係性の方がいいのだ。
誰かが作ってくれている。
そこには、何か、暖かいものがあるのだが、機械的に、常識的になると、すべてが失われる。
管理されたものには利便性、利益があるが、何か、一番肝心なものが失われるのである。
食べ終えてから旅行のパンフレットを見て、ここがいいんじゃないなどと話す。
食器を洗う。
東大生のコンパで飲みすぎて亡くなった方の裁判のニュースが流れている。
裁判!?
まあ微妙な問題だなと千鶴さんは呟いている。
裁判と言うのは、人間が人間を裁くのであり、その裁きは法に基づいている。
しかし、その法は、昔、神より授けられたものだが、何と今は、人間が律法を作るのだwwwwwwww
そんな馬鹿な話があるわけがない。
自然の、天地の道理に違うかどうかを人間が判断できるわけがない。
だけれども社会生活を送る上で、便利になるように裁判なるものをしていくわけだ。
汝、人を裁くなかれと言った人は、裁判で死刑判決されたのだった!
で、煙草一本吸ってから、母親の家で、ブログの更新をしています。
ああ、なんか、家を出る時、嫁が「時は金なり。織田は信成!!」と得意げに言っていた。
無視していると「冷たいやつやなあ」とおっしゃられるww
まあ、そういうとこ、好きだけどなあ、笑
というわけで、もうちょい、のんびりしてから夜勤へ行ってきまーす。
時は金なり!?
時は今なりwwwww
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ただ過ぎ去る行為の中に、思いをとどめず、流れ去るがままに身を任せている皆様。
ただいま、ガムを噛みながら母親の家でブログ更新を始めました豊田です。
車のバックするピーピーピーピーという音や、走る音、時計の音、鳥のさえずり、自分の噛んでいる音、PCの音等々、様々な音がしている。
普段無意識の時にはしない音は、開放されると感じられるようになる。
ただ、焦点を絞るか開くか、能動的であるか受動的であるかの違いなのである。
今日は12時半過ぎに起きてきました。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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ゴロゴロしていると千鶴さんがくる。
悠聖はギャンギャンと泣きわめいている。
洗面をしながら観察しているとどうもバナナが食べたい様子。
食べたいのだが「アワアワしやなやらんに!」と千鶴さんが切れているので、どうも手を洗わないようだ。
バナナが先の方がいいのだろう、笑
子供って腹が立ったら泣き、痛かったら泣き、嫌なことがあったら泣き、と、よく泣くが、関心が次のことに移ると瞬時に笑顔になって笑っていたりする。
そのような、ことが、自然なのであって、後から身に着けた礼儀と常識がそれを阻害しているだけなのである。
全然暴力的じゃない。
子供の方が平和であるし、人間の調和がとれている。
洗面を終えると座禅40分ですね。
「座禅するで静かになあ」と言ったら、千鶴さんが和室の襖を閉めた。
しばらく座っていると悠聖が開けようとしてガサガサとしている。
どうも開かなかったようで、諦めて、どこかへ行った。
座っていると様々な妄念がくる。
眠くなって意識が持っていかれそうになり、ピクンとなる。
瞬間に恐怖心も沸く。
自分をどうこうしたいという欲望もある。
身体の角度やら、感覚の不在に注意が向くときもある。
何もしていないようでも、様々な心の動きが観察されてくる。
方向のないめちゃくちゃ行き当たりばったりの、気づきと、思考の群れたち。
瞬間、それらが払われて、明らかになる現在。
人間が作り上げたものではない、過ぎ去る前の無点とも呼べそうな、そのあるがままが、姿を顕す。
座禅を終えると、コーヒーを入れて玄関脇で読書ですね。
今日も日差しが強く、顔に当たるのでポカポカと暖かくなる。
工場建設工事の音も余り気にならず、読書に集中できる。
本には、跡をとどめないと書いてあった。
痕跡を残さない。
無覚であるということですね。
これは非常に難しいですが、まあ、やろうと努力することはできますよね。
つまり考えないということです。
俺がああした、アイツがこうした等々を記憶にとどめ置いて、そこから、次の手が出てくる。
怒ってみたり、泣いてみたりする。
するとまた、そのことをとどめて、あれがこうだ、これがああだとやっていく。
覚えないなら、残さないなら、それは、そのままで、また違うことがやってくると分かるわけですね。
でも、だからと言って、思いが消滅するわけではないのであります。
つまり、あるがままなのですが、そのあるがままの生ずる母体が、我であるか、自然縁起であるかの違いなのです。
片一方は頑なに考えて自己の利益を追求する。
もう一方は、あまり考えすぎずに、今、自分の手が何をしているのかを知って、それについて考える。
自然の、今ある働きの中で、結果を手放しているわけです。
ああなるこうなるは、なく、今、この手が、何をすべきか、何をすることが道理に叶うのか、そういった方向に思考が傾くわけですね。
だから、別に考えなしになるわけじゃないですが、やっては消えていく思考に跡は残らないわけです。
瞬間瞬間のことですからね。
で、読書を終えると千鶴さんが作ってくれた焼うどんを食べます。
座禅する前に「そんなに遅いんやったら今日はカップラーメンやに」と言っていたのだが、作ってくれたようだ。
ありがたやー。
「こっちのがいいやろ?」と言っている、笑
やっぱり手作りが一番いいのですね。
外食でも一緒ですが、顔の見える関係性の方がいいのだ。
誰かが作ってくれている。
そこには、何か、暖かいものがあるのだが、機械的に、常識的になると、すべてが失われる。
管理されたものには利便性、利益があるが、何か、一番肝心なものが失われるのである。
食べ終えてから旅行のパンフレットを見て、ここがいいんじゃないなどと話す。
食器を洗う。
東大生のコンパで飲みすぎて亡くなった方の裁判のニュースが流れている。
裁判!?
まあ微妙な問題だなと千鶴さんは呟いている。
裁判と言うのは、人間が人間を裁くのであり、その裁きは法に基づいている。
しかし、その法は、昔、神より授けられたものだが、何と今は、人間が律法を作るのだwwwwwwww
そんな馬鹿な話があるわけがない。
自然の、天地の道理に違うかどうかを人間が判断できるわけがない。
だけれども社会生活を送る上で、便利になるように裁判なるものをしていくわけだ。
汝、人を裁くなかれと言った人は、裁判で死刑判決されたのだった!
で、煙草一本吸ってから、母親の家で、ブログの更新をしています。
ああ、なんか、家を出る時、嫁が「時は金なり。織田は信成!!」と得意げに言っていた。
無視していると「冷たいやつやなあ」とおっしゃられるww
まあ、そういうとこ、好きだけどなあ、笑
というわけで、もうちょい、のんびりしてから夜勤へ行ってきまーす。
時は金なり!?
時は今なりwwwww