豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

気にすることはない、どうせ我々は、今日、馬鹿騒ぎをしているんだからな!

2015-10-29 15:18:08 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

これであると決定できない混沌たる未知でありながらも、整然とした道理の中で歩み続ける、最高の存在で在られる皆様。

ただいま『めぐり逢い』を久しぶりに聴きながらブログ更新を始めました豊田です。


こういうリラックスできる楽曲を聞くのも体を落ち着ける効果がありますよね。

他にも、お風呂にゆっくりと入るとか、美味しい食事をいただくとか、大空を見上げるとか、色々あります。

そして、それが体を寛がせ、寛いだ体が、心を落ち着かせるわけです。

それと座禅と、別にあるわけではなくて、ただ、心身を緩めるために、じっと座るわけですね。



《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



お風呂に似ています。

普段はガチガチに功利的に考えて、考えて、身体はカチンコチンになっていきます。

柔らかなものの中に平和があるので、なんらかの目的とか、手段があると邪魔なんですよね。

ただ、ふぅうっとため息でもつきながら、美味しい日本茶を飲んだりする。

そこには、別に、考えの入り込む隙が無いのであれば、それが放心していることで、現在が顕になっていることなのです。



さて、今日は12時半に目を覚ましました。

嫁様は、いきなり布団を引き剥がして、激しい調子で、起こすので、起きることができます、笑

なかなか、しっかりしている部分もあるのだ。

なんか会話を交わしながら洗面へ。

「あ、なんか綺麗になってない?」

嫁「なにが?」

「洗面台」

嫁「昨日、アンタが言うで洗ろたやんか」

なんと、洗面台が綺麗になっていることに、1日も気が付かないとは、余程、妄念の彼方へ去っていたのだろう、笑

ゆっくり洗面をすると座禅40分です。


悠聖ボウズ、なにやらガチャガチャとか、僕の周りで「アッアッ」とか、いろいろと動き回る。

隣の部屋では千鶴さんが、怒鳴り散らしながら、家事をしている様子が聴こえてくる。

注意が、しょっちゅう、そちらへ張り付いて、感情が奪われると怒りが湧いてくる。

このように、自分が、心配したり、恐怖している対象には、注意力を奪われてしまうのです。

それを本能的に、知っていて、悪用している人がたくさんいるので、気を付けましょう。

もちろん、本人は、このようなメカニズムを頭で知っているわけではなく、生きていく中で、直観的に感じ取って、自動的にやっているので、無意識です。

なにしろ、私たちが出合う、ほとんどの人が無自覚であるからなのですね。

自己の意識にも五感の働きにも、観察の光が入っていないので、自己VS他者の中で、自己を保存する行為を無意識のうちにして、それが、機械的になり、もはや、自分が、そこに存在していることも、薄々しか気が付かず、あるのは他者からの視線やら、外界からの刺激だけなのです。

そのように舞っている。

それでも、ここで、僕らが、その行為に飲み込まれてしまえば一緒です。

動の中に静があるというのは、眼ざめの中に眠りがあるということと同じなのです。

ハートの平安というものも、そこに、落ち着いて手、放しをしている間だけあるもので、何か他ごとに注意をそらしたら、すでに無い。

あるのだが、ないのだ。


で、座禅を終えると読書ですが、煙草が無いので悠聖を連れて、コンビニへ。

うまい棒の明太子を1本買ってあげる。

美味しそうに、もぐもぐと食べている状態で家へ帰ると、千鶴さんが「何食べさしとんの!!」

と怒っている、苦笑

「味が濃いでアカン」らしい。


で、コーヒーを入れて読書ですが、千鶴さんが洗濯物を取り込み、悠聖が外で遊びまわるので、全く進まない。

あ、ここでも、怒りが湧いてきますね。

そう、ここが、ポイントなのです。

怒りが沸かなくなるのではなく、この、苛ッときたときに、同時に、ハートの奥の静粛に注意があるのです。

そして、身体の毒を、一気に脳天と、足下に流してしまいます。

絶対に、怒りを止めようとしてはいけない。

なぜなら、怒りというものは、止めようとすれば、余計に、苛々パワーを増幅させるからなのです。

まず、イラッと来た、その瞬間の出鼻を捉えるのが肝心ですよね。

もう、大きくなってしまったら、対処できません。

素早く0.01秒くらいの直観で、パッと捉えても、苛々はしています。

そこで、そのイライラの対象を掴むのを止めて、手放して自由にしてしまうのであります。

だいたい、怒りの正体は、相手ではなく、自分自身の恐れなのです。

何かが出来ないことで、自分が損をすると思うと怒るのでありますね。


さて、本には、本来本法性天然自性身とありました。

まあ、本来仏だということですね。

本来仏なのに、なんで修行なんぞ、せな、アカンのや?

というのが、本当は、仕事や家事をしているのが、修行であり、仲間と飲んでいるのも修行なのですwwww

つまり、行ないが収まっているのは、常にそうなのです。

修行がいるのは、修行がいらないと知るためにあるようなものですね。

本来は仏ですが、そうは思っていません。

私は存在すると思っていますし、僕の行為が、なにかの結果を生み出していると確信しているのです。

だから、修行をして、初めて、この阿弥陀の世界という、大きなところで人間しているんだなあ、全部、天地の道理、の中で、春夏秋冬が巡ると、我々も生まれては死んでいくのだなあと分かるわけですね。

でも、そこには、こうだ! という正解はないのだそうです。

自分自身の受け取り方が大事なのであって、自分の煩悩が、取り除かれて、迷いが無くなったら、なんでもいいわけです、笑


読書を終えると千鶴さんが作ってくれた和風うどんで食事です。

作ってすぐに食べなかったので、少し、機嫌が悪いww

いろんなことを手伝ってくれる彼女に、感謝しないといけないのですが、毎日一緒だと在り難さを忘れます。

そういう意味では喧嘩して3か月半くらい別れて暮らしていた意味はあるのかもしれないね。

人間は手に入れたものには、価値が無いと思ってしまうかもしれないが、本当は、身近であるものほど、大切な宝なのだ。

そして頭の中で、将来に対する準備をしている、そこは、絵に描いた餅みたいなもので、どうなるか誰にも分からない。

未知が人生なのである。

寒い時期に椎茸を干していた坊主に「もっといい時にやれば」と言ったら「今を置いて、いつがある」と返ってくる。

将来ではなく、いま、ここで、すべてが起こっているのだ。


それから玄関脇でタバコを吸ったりしてからブログ更新へやってきました。


本日はジョージ・グルジェフさんの命日ですね。

彼の人生が僕に及ぼしてくれた多大なる恩恵に感謝して、祈ります。

そして、この言葉を、書いておきましょう。

『どうせ馬鹿騒ぎをするつもりなら、細かいことには拘るな』

爆笑!!


では、みなさま、本日も、これ以上ない、無上の一日をお過ごしくださいねー

バイバイ