ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

餃子食中毒事件――悪について

2008年02月03日 | ニュース・現実評論

被害者、食べた直後に倒れる 中国製ギョーザ食中毒(神戸新聞) - goo ニュース

中国で作られた餃子を食べて食中毒を起こしたそうである。現在その原因を調査中とのことであるが、事故や過失で起きた事件ではなさそうである。つまり、誰か特定の個人による故意の行為であるらしい。

このような事件はアダムとカインの人類発生の時点から生じている。これは明らかに善悪の問題でもあり、いうまでもなく人間に特有の問題である。動物は悪を犯さない。ただ人間のみが、善悪を知る人間のみが犯しうる犯罪である。人類にとっていわば永遠の問題であり、個人と社会にとっても、この悪からの救済は切実な問題である。現在の一部の人たちから提起されている死刑廃止問題にも絡んでくる。

マスコミなどではもちろんこうした問題の事件性を取り上げるのみで、こうした事件を宗教的な、あるいは哲学的な観点から取り上げようという問題意識を持つものはほとんどいない。

こうした犯罪の許されるはずのないのはいうまでもないが、しかし、程度の差こそあれ、人間が大小の悪を犯さないことはあり得ない。しかし、同じ状況におかれても、悪を実行する人間とそうでない人間がいる。ここに、自然環境の必然に支配されない人間のみが持つ自由があり、悪を避け善を行う人間の尊厳の根拠もある。精神的に正常な成人のみがその行為の責任を問われる根拠もここにある。動物や子供や狂人はそれゆえ責任を問われることはない。

国家などの大きな単位での共同体においては、こうした悪の発生は自明の前提として、法律や刑法の処罰の対象となるが、小さな共同体、たとえば家族のような人間関係において犯される悪も、もちろん、犯罪として法律や刑法の対象とはならないまでも、それは最終的には国家によって規制されるとしても、それよりも高い善悪の次元である倫理や道徳に違背する悪は日常茶飯事に犯されている。

大は殺人から小は他人に対するののしりに至るまで、こうした善悪の認識とその実行は人間にとっては本質に属する問題であって、その意味で人間は神と悪魔の中間にいる。

だから、国家のような共同体においても、また家族のような小さな共同体においても、未来永劫にこの善悪の問題は必然的に起きるし、避けることはできない。とすれば、人間や社会共同体の進歩というのはそもそも可能であるのか。つまり、人間とその社会から悪をなくしてゆけるのかという問題がある。

それはまた、こうした悪を果たして教育やその他で防ぐことができるのか、悪を認識し実行した人間の犯罪が必然的に引き起こすその社会的、精神的な結果や影響にどのように対処するか、さらにそうした犯罪を犯す人間の精神そのものの問題とも関わってくる。

悪を犯す人間の精神が幸福であるとはいえないだろう。地獄とはこうした悪行を起こす人間の精神状況そのものの質を示す概念であるといえるかもしれない。

悪を選択することによって、その人間の精神状況は一方へ大きく傾くといえる。司法の女神テミスがその手に天秤を下げているのも、そのことと無関係ではないように思われる。もし、救いということが、この精神の天秤が再び平衡を取り戻すことであるとすれば、こうした犯罪を犯すことによって失われた人間の精神の平衡は、いったいどのようにしてその回復は可能だろうか。あるいは、そうした意識さえもなく、未来永劫その平衡は失われたままであるのか。この問題はいうまでもなく、法律や宗教が昔から、とくに後者が切実に関わってきた問題である。

 


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