東国原英夫知事の謝罪
何かと話題の多い宮崎県知事の東国原英夫(そのまんま東)氏が下記の記事に示されたような発言を行い、朝日新聞社などの報道機関に取り上げられ、その結果、「東知事の徴兵制発言に抗議殺到 」して、 「宮崎県の秘書広報課にはこの日、100件(同日午後3時まで。電話54件、メール43件、ファクス3件)の問い合わせがあった。「徴兵制という言葉を使ったことに問題がある」などの批判が約7割、残りは賛成が2割、その他が1割あった。メールは住所、氏名がないものがほとんどで、県外からの問い合わせが多かった」 という。
そして、その後、東国原知事は「徴兵制」を容認するものでないと釈明し、さらにそれに代えて「徴農制」という言葉を遣って、社民党の関係者から抗議を受けて陳謝したそうだ。
まるで、お笑いタレントの仕事を政治の現場に持ちこんだような、ドタバタ喜劇だけれど、詳細につての論考の展開はとにかく、この一連の顛末にいくつかの問題を感じたので、それをとりあえず記録だけしておきたい。
一つは、言論の自由の問題である。要するに、東国原知事の問題意識は、「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないか」ということにあったようで、それを矯正する手段として、軍隊の組織の教育的意義の発想から「徴兵制」などを思いついて発言することになったのだと思う。
だが、東国原知事の発言の何が問題なのだろう。たとえ知事が「徴兵制」ということばを遣ったにしても、それは言論の自由の範囲内の問題ではないだろうか。人格の尊厳を損なうような発言でないかぎり、言論の自由を認めるのが日本国憲法の趣旨ではなかったか。
一部の人にとっては「自衛隊」や「徴兵制」という用語が、抵抗を感じさせるものであったり、アレルギー反応をおこさせるようなものであったとしても、それは他者の言論の自由を封じる理由にはならない。
狂信的な「平和主義者」たちは、こうして自由な言論による民主主義的な討論の雰囲気をそこない、社会に言論の「タブー」を作ってゆく。それはちょうど、かっての共産党が、党内の異なる意見を「査問」という強制によって、自由な思考を失わせていったのと同じである。
二つ目は、東国原知事が「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化」を感じて、それを矯正する手段として、軍隊組織のもつ教育的意義について発言し論及することに何の問題があるのだろうか。軍隊アレルギーもここまで来ると病的である。自らの「平和主義」を絶対化し、信仰して、自己相対化ができなくなっているのである。もちろん、「徴兵制」を云々するまえに、家庭や学校や地域の教育の現状を反省するのが、論理の筋道だろうけれども。
三つめの問題としては、本来、民主主義には「徴兵制」という概念はなじまないし矛盾するものである。概念としては、民主主義には、「徴兵」ではなく国民の「兵役の義務」が含まれるが、今回の件は、現在の日本国民の多数には、その国民としての自覚が欠けていることを示しているにすぎない。「兵役の義務」は「兵役の権利」でさえあり、この現状は「民主主義国家」日本の国民としての意識の低さとゆがみを証明しているにすぎない。
自国の独立の保証を自国の軍備にではなく、他国に依存するような国家と国民には、本当の自由と独立はなく、そうした国家と国民とそのマスコミ、ジャーナリズムには、従属国であり半植民地に等しいことについての自覚もなく、恥の意識に目覚めることもないのである。
東国原知事が謝罪したのは、この知事が自らの思想信条についての何らの信念もなく、また言論の自由の価値についての確信もないからである。
――――引用記事
「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
2007年11月28日20時53分
http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html
宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。
懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。
懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。
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