ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

ピタゴラス派の教育論

2008年02月21日 | 教育・文化

ピタゴラス派の教育論

古代ギリシャの昔も極東の現代日本も、親が子供の教育のことで、頭を悩ますのは同じなのかもしれない。昔のギリシャで、かってある父親がピタゴラス派の一人の学徒に、どうすれば自分の息子にもっともよい教育を授けることが出来るかと訊ねたそうである。その問いに対して、彼は「良く統治された国家の市民にすることだ」と答えたそうだ。

今の日本が良く統治された国家であるかどうかは今は問わない。ただとにかく、現代の教育においては、個人は家族の中で育てられないのみならず、また、地域社会の中で育てられるということが忘れられているだけでなく、さらに祖国の中とか、国家の中で育てられるという意識もまったく失われてしまっている。戦前の日本国民は、たとえそれが建前であったとしても、天皇陛下のため、お国のために生きていた。しかし今、「グローバリゼーション」の嵐の吹き荒れる中で、かっての時代の寵児ホリエモンさんのように、祖国とか国家という言葉が死語になった人たちであふれている。

あの太平洋戦争の敗北が日本国民の国家意識に深いトラウマとなって残っている。国家というものは悪なるもの、国民を抑圧するもの、国民を引っ立てて死に追いやるものとしてとらえられている。だから、国家が正義の執行機関であり、神の意志の代理機関であるという意識など国民には毛頭ない。

そこには国家観の根本的な倒錯があると思う。たしかに、その倒錯には根拠がないわけではない。しかし、日本国民の精神の奥深くに刻み込まれているこの国家に対するトラウマは癒される必要がある。このことは、いまだ真実に自由で民主的な「自分たちの」政府や国家を、日本国民が自力で形成できていないという事実と無関係ではない。それが市民革命と呼ばれるものであるのだろうけれど。

はたして、どちらの国家観が国民を幸福にするか。少なくとも「民主主義国」を自称するのであれば、国民は、自らの意志と行動で、国家を正義の執行代理人として自覚できるまで、みずから努力して形成してゆく必要がある。

そのためには、まず国民が自分たちの倫理意識を高めて、悪しき政治家、利己的で無能力な政治家、公務員たちを国家と政府の舞台から追放してゆくことだ。そして、日本国が、たとえ極東の小国であるとしても、真実に「自由」で「民主的」な祖国となって「良く統治された国家」となるとき、はじめて国民は正義の国家の中に生きているという実感を自らのものにできる。そこで初めて個人は家族の中で育てられ、そして、市民社会の中で、次いで祖国という国家の中で育てられて、真実に自由な国民の規律の許に置かれることになる。そのときにこそ古代ギリシャのピタゴラス派の無名の一学徒の教育論も真実になるのだろう。

 


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