道元の言いたかったことは煎じ詰めれば
「この度に、佛法はきはめつくせりと心うべし」
ここで度というのは人を渡すという事、結局悟りとはこれだけであり、これのみでしか悟れないと言う。
俺は悟ったとかしゃらくさい、迷いの中にあろうが、少しばかり悟ったのであろうが究極は人を渡すという行為の中にしかないという。
のちにヘルマン・ヘッセはシッダールタで同じところにたどり着いていた。
また、普通思うような目の覚めるような悟りの瞬間などはこない、ないと言っているのだろう。
正法眼蔵 第三十八 唯佛與佛
この度に、佛法はきはめつくせりと心うべし、とくべし、證ずべし。
罠の戦争では、当初は度を目指したのだろうが力の魔性のサイクルに入った過程をよく描いている。カルトの発生と腐敗も同じだろう。人を渡すということは簡単なようでいかに至難かを思い知らされる。
紀野一義のすごいところは、鎌倉仏教の祖師やキリスト教、宮沢賢治やヘッセなど文学を同じ地平線で眺めていることだ。盲信にならず、他教の批判はせずよきものは良いといい、異安心と言われても気にしない寛大さ、平明にものをみる目だろう。