まさおレポート

「インド哲学七つの疑問」 宮元啓一 再読メモ

拙ブログ数編をもとに書き直しました。

かつて梅原猛「法然の悲しみ」を一読した後にはたして仏教とはなにかの疑問がむくむくとわいてきた。紀元前五世紀にブッダが説いたオリジナル仏教が現在我々が手にする漢訳=お経で正しく伝えられているのだろうかとの疑問で、次に法華経などの日本人に聞き覚えのある経文が果たしてオリジナルな仏教とどのような関係があるのだろうとの疑問だ。

鎌倉時代に出現した念仏、お題目そしてさかのぼって真言のマントラ、インドにも中国にもなく、日本特有のものがどういう道筋で日本のこの時代に発生したのかも長年の疑問であった。この三種類に共通するのはシンプルな言葉であり、それの繰り返しが重要な祈りの行為となる点である。釈迦が行ったような瞑想、あるいは長い経典の読経、あるいは出家僧のもろもろの戒律を守る修行も存続したが、主たる修業はこの言葉を唱えることに変革した。極端にシンプル化されたこの修行方法はどのような動機で創られたのか。仏教思想のどこかにその淵源はあるのだろうか。

実は宗教は変遷するものかどうかの疑問は仏教のみならず宗教全般にかかわるビッグテーマであることがこの著作を読み始めた2008年から5年を経ておぼろげながら理解することが出来るようになった。キリスト教と同様に日本の大乗仏教も大きく変遷しているが元来宗教はそのように変遷していくものではないかとの思いに到った。

キリスト教もオリジナルではなく、パウロの作り上げたものであることが知られている。だからと言って価値を貶めるものではないし、キリスト教と名乗るのがおかしいわけではない。仏教も実はオリジナルから様々な変遷を経て日本の大乗仏教に到っている。大乗非仏説も歴史上の理解としては納得ができる。だからと言って仏教ではないと主張することもないのではないか。もちろん別の名前を名乗ってもよいわけだが。

紀元前後にそれまでの仏教を批判しながらハイ然として興った大乗仏教は、ヒンドゥー教にならって、仏、菩薩の無限の慈悲心による民衆救済を唱えた。・・・真実と不離一体である誓戒の思想を受けいれ、・・・菩薩の理念を支える中核に据えたのである。p40

菩薩は、戒定慧の三学という修行体系にのっとって彼岸に渡ったのではなく、真実のことばの力によって彼岸に渡ったのだ、ということである。菩薩の行という概念は、旧来の修行概念とは、まったく次元を異にしているのである。p43

宮元氏は当著で法華経と原始仏教の考え方の差異を述べている。修行中の釈迦である菩薩から解脱をあえて否定し、救済をめざす菩薩への変化が最たるものだろう。この著で救済思想はヒンドゥー教の影響を受けたものだと述べている。

オリジナル仏教では人生は苦であり、その苦は根源の生存本能、無明から来ており、その苦は輪廻してついて回る。このことは大層恐ろしいことと受け止められ、それから逃れるためには根源の生存本能である無明を消すほかなく、智慧によって無明を完全に消し去ること、それが解脱だと述べる。宮元氏はこれを生のニヒリズムと呼んでいる。

紀元前1世紀ごろに起こった大乗仏教はヒンドゥー教の思想を大きく2点受け入れていると言う。一つは戒を守った方がベターであるとの考え方から必ず守るべきものに厳格化し、それを守り抜くことによって世界を変革する力をもつという考え方を取り入れたことだと言う。

 (紀元前6~5世紀に起こった)仏教では、たとえば不殺生戒は、なるべく無益な殺生はしないようにしようという程度でよし(三ジュ浄肉は口にしてもかまわない)とされるのにたいし、(ほぼ仏教と同時代に起こった)ジャイナ教では、不殺生誓戒は、何が何でも守り抜かなければならないものとなる。p38

このヒンドゥー教自身も仏教の興隆を目の当たりにしたベーダの宗教の失地回復をはかって起こったものだ。宗教は他の宗教の興隆をみて変遷する。

仏教やジャイナ教が興ったことにより、ヴェーダの宗教は大きな打撃を受けた。・・・この失地を回復するために、・・・膨大な数の先住民族を・・・取り込んだ。その結果、ヴェーダの宗教と先住民族の宗教とが習合して、新しい民衆宗教としてヒンドゥー教が形成された。・・・かれらはそこで犠牲祭をやめ、仏教などにならって供養を宗教儀礼の中心に据えた。図々しくも、昔から自分たちだけが完全な不殺生を守ってきたのだと宣言した。・・・仏教的な戒ではなく、ジャイナ教的な誓戒を選択した。 これは、真実となった誓戒こそが、あらゆる大願を成就する力をもつとする、古くからのヴェーダの宗教のころからあった強い信念とよく合致するからでもあった。p40

2点目はオリジナル仏教ではみられない他に対する救済思想で、釈迦滅後数百年で釈迦を賛美することが流行り、それが前生にまで及んだことの影響とヒンドゥー教の救済思想の影響が結びついた結果だと著者は言う。戒を守ることによって世界を変えるというベーダの教えが仏教を抑えるためにヒンドゥーとして変革し民衆救済を目的化した。結果、オリジナル仏教は影響を受け救済を完成するまでは解脱しないという戒を守り抜くことを最終的な目的とする大乗経に変化する。解脱よりも救済の菩薩が大事であるという、見事なオリジナル仏教からの脱却である。

仏教徒たちは、・・・「前生物語」ジャータカという作品を創作した。・・・ゴータマ・ブッダは今生で六年間修業に励んだだけで仏になれたわけではなく、じつは、・・・さまざまな徳目を守り通してきたことの結果だとされる。・・・何が何でも守り通すことをハラミツ(パーラミター)という。・・・ジャイナ教やヒンドゥー教でいう誓戒の仏教版なのである。p42

ここに膨大な量にのぼる般若経典群を擁する般若思想が成立した。・・・般若ハラミツタ(という徹し通された誓いのことば)は偉大なマントラであり・・・すべての苦しみを取りのぞくものであり、真実である。・・・「マントラ」というのは、もともとは、先に見た・・・ヴェーダ聖典のことばを意味する語である。・・・菩薩のハラミツ行とは,誓いのことばを真実にし、その真実の力によって自利と利他との大願を成就することをめざすものだということ。p45

言葉が世界をつくるという考え方はキリスト教の「初めに言葉ありき」、「初めにロゴスありき」を連想させる。あるいは言葉が現実の世界を変える力を持つという日本古来の言霊思想なども連想する。この著では民衆を救済するまでは解脱しないと言う戒を守り抜くことによって阿弥陀如来となった菩薩の例が挙げられている。つまり無明を消し去ることで解脱するということから戒を守ることで世界を変えることにより解脱する、さらに変化し、次にあげる救済を本願とするまでは解脱しないとの戒の出現により無明の消し去りつまり解脱よりも救済の戒が優先すると言う思想へと変化する。

かつて中村元氏の法華経にかんする著作で原文のサンスクリットと比較してあるのを読んでその漢文訳=つまり法華経があまりにサンスクリットからの超訳・意訳なのに驚いたことがある。漢訳されたために妙に深遠になり神秘的になり禅問答のようになり、ありがたい雰囲気はでてくるのだが何を言いたいのか今ひとつ明快にわからないという読後感があった。

これは誓戒の言葉だと思って読んでみる、つまり誓戒の物語だと思って読めばよい。不思議なもので枠組みを理解するともやもやは消える。真理はあるものではなく戒つまり物語によって実現するものだと言う考えが背景にあると思いながら読むと理解できるのではないか。有名な十妙是も妙是本末究拠等も世界はかくあるべしと観念しきる誓いの言葉だと思えば法華経は中身が無いとの批判も的外れであることがわかる。ロジックを述べているのではなく誓いの物語を述べているのだという意図がわかればなにやら有りがたい漢文だがよく真意がわからないと言う思いは晴れてくる。誓戒の物語だと思えばよいのだ。ここから飛躍して、物語とは実は誓戒の事だとも思えてくる。

鎌倉時代に出現した念仏、お題目そしてさかのぼって真言のマントラそういったものがどういう道筋で発生したのかが長年の疑問であった。釈迦が行ったような瞑想、あるいは読経、あるいは出家僧のもろもろの修行なら素直に納得できるのだが、極端にシンプル化されたこの修行方法はどこからきたのか。

わが国の浄土真宗では、「絶対他力」・・・やはり真実となった誓いのことばがもつ力にほかならないのである。p47

かつてはこう考えていた。もろもろの煩雑で困難な修行は庶民・凡夫には到底なしえないのでそれを誰でも実行できるようにシンプル化した。あるいはシンプルなほど真理だとの発想の逆転が各祖師の直覚でおきた。シンプルな故に世に爆発的に受け入れられた。この段階での解脱、すなわち成仏はオリジナル仏教の解脱とはかなり趣を変えている。

梅原氏の著作を読んで変わった。法然はまず残酷な殺され方をした父母を救いたい。父は横領使として殺人=殺生戒を数多く犯している悪人だ。そして身近な悪人・凡夫・女人を救うためには誰でもできる方法で浄土にいけなければならない。法然の宗教的直感をよりどころにして観無量寿経などの経文にその根拠を求め、称名念仏こそがベストだとの宗派を打ち立てた。それが日蓮の題目にも影響を与えた。観無量寿経などの経文に根拠を求めることは梅原氏自身も強引な解釈と認めている。そうなると根拠は宗祖の直覚によるものとだけ考えざるを得ず、それ以上の説明を拒否することになる。信仰だからそれでいいのだろうが、信者でないものには釈然としない。梅原氏の追求もそのあたりであきらめて終わっている。

この点に関して宮元氏の著作で疑問が氷塊した点がある。インドでは釈迦滅後仏教とヒンズー教のあいだに激しい攻防が続いた。お互いが相手をねじ伏せて自派の勢力を拡大しようとする激しい論争のなかで論争に有利なようにお互いの考え方を取り入れていった。仏教側が取り入れた考え方に「真言」=マントラの考え方がある。これはみずから立てた「戒」=言葉を厳格に守ることによって、その戒を現実化する力を得ることができるという考え方だという。力のある言葉が先にあってそれを唱えることで力をさずかるというのとは逆の考え方に驚く。しかも解脱の本質は姿を消し、理想社会の到来を祈るように変化する。

「ハリーポッター」のなかで、魔法使いはさまざまな呪文を唱えて相手を攻撃したり、犬やネズミに毛手しまったりするが、その呪文は自然にあるものなのではないということになる。修行者がその言葉を守りぬき、言葉自体に力を持たせることができるに至ったという考え方になる。修行者が言葉を守り抜くというのがなかなか具体的にイメージしにくいが、阿弥陀の「全衆生を救うまでは浄土にいかない」との誓願もこの種類の言葉なのだと考えると理解できる。

これは目からうろこが落ちる考え方だと思った。通常、戒律は不殺生戒・不邪淫戒・不偸盗戒といって出家僧が守る規則だと理解してきたが、ヒンドゥーから流れ込んだ戒はそれ以上の意味があるという。みずから定めた戒=言葉を守り通すことで戒が現実化するという考え方だ。この場合戒とは願望と解釈してもよいだろうと思う。つまり言葉が現実化するという考え方だ。「あなたの思いは実現する」といったたぐいの本が書店に並んでいるが、その考え方そのものではないか。

ここまでくると称名も唱題も「言葉」であり、マントラであり真言である。これを厳格に実行することでその結果である浄土行きあるいは成仏を真実のものにしようとの考え方の流れであることがおぼろげながらわかってくる。

わが国の浄土真宗では、「絶対他力」・・・やはり真実となった誓いのことばがもつ力にほかならないのである。p47

つまり言いたいことはこうだ。ブッダが説いた説のみが仏教ではない。ブッダが説いた説が変遷を経て現代に至り、多種の教派に分かれているものの、そのオリジナルな骨子が普遍性を持ったものが仏教だと考えてもよい。とするとその オリジナルな骨子が普遍性を持ったもの は「戒」に他ならないのではないか。「インド哲学七つの難問」から抽出した仏教の普遍化の課程は以下のようになると思われる。

①オリジナルの仏教は不殺生戒などの緩やかな戒で苦を消滅することをめざす。( 「戒定慧」 による解脱)

②ヴェーダ教がヒンドゥー教となり、それまでの犠牲祭などを取りやめて、より厳密な「戒」を仏教と競って唱え始める。同時に絶対神による慈悲の救済思想も中心的な考えとなる。

③ヒンドゥーに対抗して大乗仏教が興る。般若ハラミツで戒を一層重要視して「戒を守り通すことによって真実となった言葉」が力をもつことを一層強調する。

④絶対神による慈悲の救済思想のうち、慈悲の救済思想が菩薩による自利、利他の救済思想へと変貌して法華経に盛られる。絶対神に対抗して久遠実成のブッダ、修行中のブッダである菩薩像を生み出す。実存するブッダの生涯を永遠性の観点から普遍化すると必然的に発生すると思える考え方であるが、戒を守る修行者である菩薩とその完成である久遠実成のブッダ像が大乗で完成する。当然の普遍化と考える。大乗にいたるも尚、絶対神をたてない。

⑤日本に大乗が伝わったのち、法然、日蓮が「戒を守り通すことによって真実となった言葉」が仏教の真髄であると考えることは容易であり、阿弥陀仏に帰命するという戒を守り通す、あるいは、法華経に帰命することを守り通すことで成道を目指すと考えるに至るのは自然なことであると考える。お題目、お念仏の誕生は以上に述べたマントラの系譜で説明ができる。マントラこそがインドに発生したヴェーダ、仏教、ヒンドゥー教の根本であり、なかでも絶対神を設けず、最重要な戒のポイントを極めてシンプルに信仰行為としたことは仏教の精神そのものではないか。

ようやく、長年の疑問であるふたつの疑問に自分なりの回答の道筋を得たことになる。

①一つが、サンスクリット語でのオリジナル仏教が現在我々が手にする漢訳の経で正しく伝えられているのかとの疑問がある。つまり漢訳の経典はオリジナル経典から漢訳と言う行為を経てオリジナルの含意するところが極端に膨らんでしまい、漢訳のみを手掛かりに信仰を求める人々はあるいは「大いなる幻影」を抱いたのではないか。

これに対しては答えはその通りであるが、ただし「オリジナルの含意するところが極端に膨らんでしまい、漢訳のみを手掛かりに信仰を求める人々はあるいは「大いなる幻影」を抱いたのではないか。」は幻影ではなく、仏教が発展したものとみたい。鳩摩羅什は一層の荘厳化を図ったのだ。

追記

「仏教に絶対神のような考え方はないのではないか。あるのは「戒を守り通すことによって真実となった言葉」といういわばシステム、仏教でいうところの法のみがポイントで、人々をさばくキリスト教的神は存在しないのではないかとも考えている。

さらに、今後の探求のために、重要と考える文章を列記しておく。

①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。p94

③なお、紀元後4世紀にヴァスパンドゥ世親によって完成された唯識論では、・・・じつは本質的にはほとんど有我説なのである。p96

④認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99

⑤紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99

⑥シャンカラ(8世紀)は・・・自己が存在することは否定できないから、「に非ず、に非ず」といって・・・「これはわたくしではない、これはわたくしではない」といったふうにして、自己に到達するのである。p103

⑦世界は自己をみることがない。幻影の世界を成り立たせている無明(根本的無知)が取払われたとき、世界は消滅し、自己のみがひとりのこる。・・・唯識説までいって、仏教は開祖ゴータマ・ブッダを飛び越えて、はるか昔へ先祖帰りしてしまったのである。p106

⑧古代ギリシャ哲学では、自己の問題は魂の問題であった。そしてその魂は記憶をもつとされる。プラトンもいっているように、魂がイデアに憧れるとは、魂によるイデアの追憶にほかならない。p108

⑨輪廻説は・・・因果応報思想に論理的に支えられて、紀元前8世紀ごろに、インドの宗教、哲学の前提となる考え方として確立された。・・・輪廻説が確立すると同時に、輪廻からの永遠の脱却、つまり解脱を求める人々が現れ、出家となり、さまざまな宗教、哲学を唱えた。p112

⑩ゴータマ・ブッダも6年間の修業時代の初めの一時期、思考停止を目指す瞑想に打ち込み、いとも簡単に最高の境地に達したが、瞑想をやめればまた欲望がでてくることに疑問を憶え、それをやめて苦行へと向かった。しかし、ゴータマ・ブッダはいくら激しい苦行をしても、苦しみに耐える力はついても、苦しみを永遠に消すことができないことに気づき、苦行もやめた。・・・ここでゴータマ・ブッダは大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲が奥底に控えていることを発見したのである。輪廻のメカニズムは、つぎのように改められた。・・・輪廻←善悪の行為←欲望←根本的無明・・・智慧のみが解脱をもたらすことを発見したゴータマ・ブッダは、徹底的に思考を深める瞑想に入り、短時日のうちに目覚めた人、ブッダとなり、解脱して永遠の安楽である涅槃の境地に入った。p114

宮元啓一 「インド哲学七つの難問」は面白そうだ - 団塊亭日常 - Gooブ

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