まさおレポート

法然の哀しみ 三種の修行から口称念仏へ

法然はそれまでの考え方、つまり出家僧による厳しい修行の末にさえ、いけるかどうか分からないという浄土に、単に口称念仏のみで凡夫・悪人に至るまでいけると断言した。その根拠を善導の説に求めている。しかし梅原氏は強引過ぎる解釈だという。しかし善導も浄土三部経について思索を重ねて三種の念仏にたどり着いた訳であり、発展途上にあると考えてることも自然だろう。まだ改良のある理論ということで現代のサイエンスも先達の理論を改良することで発展していくのと同じことだと考えれば良い。そう考えると強引な解釈は理論の改良と受け取ることができる。そうすると「偏依善導」と称したこととは決して矛盾しない。

科学理論の発展は、より一般化された応用範囲の広い理論へと発展していく。それと同じ考え方が法然の解釈にみられる。当初、善導は観仏つまりありありと浄土をみる訓練・修行がベストの方法とし、次善の方法として念仏つまり口で南無阿弥陀仏を称え、身体で阿弥陀仏を拝し、心で阿弥陀仏を想う訓練・修行をとり、最後のもっとも簡便で効果もあまり期待できない方法として口称念仏による方法を勧めた。

最初の方法は特別の才能に恵まれた人しか達成できない。今でいう画家と作曲家の天分を持たないとだめだろう。誰でも持って生まれるわけではない。次の方法はやはり出家して俗事に煩わされない環境に恵まれないととうてい無理だろう。そうするとこれもやはり特殊な人しか救われないことになる。今風にいえば人々は勤労せず修行に明け暮れて産業・工業などは全く発達しないだろう。これもやはりおかしなことだ。そうすると最後の簡便方法として考え出された口称念仏が俄然一般性を帯びてくる。

一般性のあるものほどすばらしいとの考え方が当時あったかどうかはわからないが、下策と考えられていた口称念仏こそ最高の修行とした直覚はきわめて現代的な考え方・解釈といえる。

オリンピック選手がイメージトレーニングを採用するのはごく一般的だが、観仏や念仏はイメージトレーニングともいえる。イメージの世界で己が好成績を残す姿をありありと描く訓練をすることがそれにあたる。念仏(ここでの念仏は口称念仏とは区別している)は試合場に行って「俺は勝つ」と金メダルをイメージしながら何度もつぶやくことに相当する。口称念仏は暇さえあれば「俺は勝つ。」と唱え続けることに相当するか。最後の方法は誰にでもできる。これは量的にもっとも多くできる訓練であり、量は質を超えるという考え方に従った方法といえる。法然を浄土行きのトレーナーとしたら、この簡便な方法のみがベストの訓練方法であると宣言するトレーニング理論の提唱者ということになろうか。実際の練習はもちろん大事でそれは凡夫が日常生活をきちんと普通におくることに例えることができる。

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