ヨハネ福音書第20章
28節「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」(新共同訳)
先ず示されるのは、復活の主イエスが11人の弟子たちが集まっている処に現われたことである。重大な事実や出来事の証言は、二人か三人の証言者が必要とされた。復活の確かな事実を証言させる為に、イエスは弟子たちの居るところに姿を示すことが必要であった。彼らが集っていた理由は「ユダヤ人を恐れて」である。鍵を閉めた家に集まっていた彼らの真ん中にイエスは立たれた(19節)。
三年間寝食を共にして教えと訓練を受けながら、命を惜しんで逃げ出した弟子たちの心境は如何だっただろう。今日流にいうなら「閉じこもり現象」である。
ここで復活のイエスは「あなたがたに平和があるように」と言われた。Peace be with you。ヘブライ語では「シャローム・ラーカム」。これは日常の挨拶語であるこれは相互に交わす言葉であるが、神が共にいて可能な実質を伴う平和であり、和解である。それは神の絶対的な権威としての支配ではなく、裏切り背くものをも受入れる神の恵みの支配である。それは新しい交わりの回復である。復活の主の証言は「手と脇とをお見せになった~」ことで示される(20節)。ここで、彼らの心は不安と恐れ、罪責から解放され平安と喜びに変わる。それは新たな宣教へと召される。聖霊による弟子たちの派遣である(21~22節)。
「手と脇」を示すのは、復活の事実を明確にする為であった。これは復活を観念的に捉えて、肉体を伴う復活は無いとし、霊的現象とする「主智主義」(ノスティズム)の教理(ヨハネ福音書の時代背景となる)に対する明確な否定である。
八日後のイエスとトマスの出会いが記される(24節以下)。問われているのは、仲間から離れて一人でいたことである。彼は特別弟子の意識が強い人物だった(11章16節)。彼はイエスとの死別で悲嘆にくれていたのだろうか。他の弟子に会った時「わたし達は主を見た」と告げられた。するとトマスは「指を釘跡に入れ、手をそのわき腹に入れてみなければ決して信じない」といって反発した(25節)。心霊主義的復活論という異端に対して、彼は真実なイエス復活を信じようとして、疑問を投げかけたのである。これは復活否定という合理的信仰とも表裏になる。
イエスは直接トマスに御自身を顕現し、手とわき腹を見せて「信じなさい」と言われた(27節)。復活の事実を受け入れることに逡巡した彼は、手とわき腹を見て、イエスが誰のために十字架に死に、三日目に復活したかを直感する。他の弟子たちと違って、彼は見ないで信じる証人になることを求められた(29節)。見ないで信じるとは、イエスを「わたしの主、わたしの神」と告白することである。つまり十字架と復活のイエスを「イエスは主である」と告白することである(ローマ10章9節see)。
第一コリント15章3~5節に記されている通り、初期のキリスト教会はこの告白の上に立って、世の様々な信仰の異端や、異説の嵐に抵抗してきたのである。
その先頭に立つ証言者がトマスである。「疑い深いトマス」という先入観は改めねばならない。
28節「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」(新共同訳)
先ず示されるのは、復活の主イエスが11人の弟子たちが集まっている処に現われたことである。重大な事実や出来事の証言は、二人か三人の証言者が必要とされた。復活の確かな事実を証言させる為に、イエスは弟子たちの居るところに姿を示すことが必要であった。彼らが集っていた理由は「ユダヤ人を恐れて」である。鍵を閉めた家に集まっていた彼らの真ん中にイエスは立たれた(19節)。
三年間寝食を共にして教えと訓練を受けながら、命を惜しんで逃げ出した弟子たちの心境は如何だっただろう。今日流にいうなら「閉じこもり現象」である。
ここで復活のイエスは「あなたがたに平和があるように」と言われた。Peace be with you。ヘブライ語では「シャローム・ラーカム」。これは日常の挨拶語であるこれは相互に交わす言葉であるが、神が共にいて可能な実質を伴う平和であり、和解である。それは神の絶対的な権威としての支配ではなく、裏切り背くものをも受入れる神の恵みの支配である。それは新しい交わりの回復である。復活の主の証言は「手と脇とをお見せになった~」ことで示される(20節)。ここで、彼らの心は不安と恐れ、罪責から解放され平安と喜びに変わる。それは新たな宣教へと召される。聖霊による弟子たちの派遣である(21~22節)。
「手と脇」を示すのは、復活の事実を明確にする為であった。これは復活を観念的に捉えて、肉体を伴う復活は無いとし、霊的現象とする「主智主義」(ノスティズム)の教理(ヨハネ福音書の時代背景となる)に対する明確な否定である。
八日後のイエスとトマスの出会いが記される(24節以下)。問われているのは、仲間から離れて一人でいたことである。彼は特別弟子の意識が強い人物だった(11章16節)。彼はイエスとの死別で悲嘆にくれていたのだろうか。他の弟子に会った時「わたし達は主を見た」と告げられた。するとトマスは「指を釘跡に入れ、手をそのわき腹に入れてみなければ決して信じない」といって反発した(25節)。心霊主義的復活論という異端に対して、彼は真実なイエス復活を信じようとして、疑問を投げかけたのである。これは復活否定という合理的信仰とも表裏になる。
イエスは直接トマスに御自身を顕現し、手とわき腹を見せて「信じなさい」と言われた(27節)。復活の事実を受け入れることに逡巡した彼は、手とわき腹を見て、イエスが誰のために十字架に死に、三日目に復活したかを直感する。他の弟子たちと違って、彼は見ないで信じる証人になることを求められた(29節)。見ないで信じるとは、イエスを「わたしの主、わたしの神」と告白することである。つまり十字架と復活のイエスを「イエスは主である」と告白することである(ローマ10章9節see)。
第一コリント15章3~5節に記されている通り、初期のキリスト教会はこの告白の上に立って、世の様々な信仰の異端や、異説の嵐に抵抗してきたのである。
その先頭に立つ証言者がトマスである。「疑い深いトマス」という先入観は改めねばならない。