日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

心を合せて熱心に祈る

2010-09-05 | Weblog
  使徒言行録第1章  

   14節「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(新共同訳)

  先ず「はしがき」(1節)をみると本書がルカ福音書の続編であることが判る。しかも同一の著者の手によってテオフィロという人物に献呈される形になっている。ルカ福音書1章5節「敬愛するテオフィロさま」(口語訳「テオフィロ閣下」とあり、ローマの高官に対する儀礼的称号で、著者との関係は不明である。
  題名の「使徒言行録」は2節「お選びになった使徒たち…」から来ている。「使徒」(アポストロス)」は「任命を受けて派遣される」人を指す。今までの「弟子」とは違った使命の内容は「イエスが行い、また教えはじめてから」(1節)「…苦難を受けた後、御自分が生きていることを、…示された」(3節)ことである。
  そこで派遣に際し自由に大胆に恐れのない心で出て行く内なる力が必要となる。その約束が「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)である。その時はいつか。イエスは復活後四十日間神の国について教え(3節)、昇天を前にして「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(8節)と告げた。
  祈って待つことは積極的姿勢なのである。祈らないで待つのはハンドルもブレーキもきかない車を運転するに等しい。イエスの約束を信じた人々はエルサレムで泊っていた家の上の部屋(アパールーム)で「心を合せて熱心に祈っていた」(14節)。「心を合せて熱心に」(プロスカルテレオー)は、プロス(接する)と、カルテレオー(ゆるがない)の二つの語から出来ている。祈りはゆるがなく準備の業として続けることが示される。
  第一コリント15章6節には「復活の主は五百人以上の兄弟たちに現われた」となっている。しかしここに集まってイエスの約束を祈り待っていたのは120人程であった(15節)。バックストンはあとの380人は一体どうしていたのかと問うている。イエスの周辺にはシンパ(共鳴者)がいたとも考えられる。
  ここに新しい信仰共同体の原型がある。マリアやイエスの兄弟らもいたのは、血縁関係を越えた交わりが形成されたといえる。「心を合わせる」ことは、祈りによりすべての壁を越える働きをつくり出す導火線である。
  「神への絶えざる祈り抜きにしては…他者に至る直接的な道は存在しない。兄弟に至る道は、祈りと神のみ言葉に聞くことを通って行く道である」(ボンフェハー「説教と牧会」)。