日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

手引きをするお方 

2010-09-13 | Weblog
  使徒言行録第8章   

  34節「宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ」(新共同訳)。

  このステファノ殉教は信徒達が「地方に散って行った」ということになる(1、4節)。使徒たちは都を離れなかった為、結果的に自立した信仰を継承することになる。「巡り歩く」は新約聖書に43回出てくるが、使徒言行録は21回もある。福音が苦難という入れ物で持ち運ばれた。「殉教者の血は教会の種子である」(テルテュリアヌス)。5~25節は預言された通り奉仕者フィリポによるサマリヤ宣教である(1章8節)。差別と偏見の壁を越えて福音は伝えられた。
  次にフィリポに示された宣教は エルサレムから南西80キロの旧ガザ(戦争で破壊された)へ下る「寂しい道」であった(26節)。口語訳「このガザは、今は荒れはてている」としている。宣教は人の判断を超える。大衆の待ち受けている所とは限らない。そこで出会いが起きる。

  「女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理していたエチオピア人の宦官」でエルサレムでの礼拝を済ませ帰る途中であった(27~28節)。遥か二千キロの旅をしてエルサレムへの巡礼をするユダヤ教改宗者と考えられる。女王の高官で全財産の管理をする指導的な要人であるが、「宦官」は律法では受け入れられていない(申命記23章1節・イザヤは受け入れられる時の到来を予言している56章3~5節)。
   彼は「馬車に乗って予言者イザヤの書を朗読していた」(28節)。聖霊はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と指示した。不思議な出会いである。大声で朗読している馬車に近づいて「読んでいることがお判りですか」とフィリポは声をかけた。それはイザヤ53章7~8節である(32~33節)。宦官は謙虚に「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言っている(31節)。
   フィリポの「手引き」は真に適切であった。これは誰のことかと聞かれ、「羊のように屠り場に引かれて行った~」(32節)をイエスの十字架として説き、更に「彼の命は地上から取り去られるからだ」(33節)をイエス復活の予言として伝えた。つまりイエスの十字架と復活が約束の実現であることを示した。「イエスについて福音を告げ知らせた」とはこれである(35節)。
彼らは水のある所を通り、直ちに、そこで水の中に入りフィリポによってバプテスマを授けた。「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(39節)。
   この出来事で留意すべきことがある。先ず聖書を手にする時、自己流に勝手な読み込みで誤った理解に陥らない為に「手引き」が必要なこと。これを明確に示しているのは、ルカ福音書24章25~27、44~45節である。
  次に宦官が「誰についてこういっているのでしょうか。自分についてですか。誰かほかの人についてですか」と問うた(34節)。これは「今このわたしについて」という聖言への主体的な応答がもとめられるのである。
  第三の要点はイエスの福音が、十字架と復活にあるということ。十字架に付けて殺されたイエスを生命の君・命の王とされた福音を宣べ伝えることにある。
最後に「主の霊がフィリポを連れ去った」(39節)こと。彼は栄誉も賞賛も受けないでその場を去るのである。キリスト者はいつも「否定的媒介者」である(マタイ6章3節)。