ホセア13章
4節「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」
1節「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられた。しかしアバルによって罪を犯したので、彼は死ぬ」。小見出し『エフライムの終わり』。神の審判としてイスラエルの死を告げる。それにも関わらず偶像を鋳造して罪を犯し続ける(2節)。
3節「彼らは朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のようだ。煙出しから消えていく煙のようだ」。6章4節にもあった。虚しく消える。ヘブライ語の「偶像」(ヘベル)は息、無益、虚しさと同じである。
4節「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」。モーセの十戒の最初に出ている言葉(出エジプト20章2節)である。神の審判は、生か死かのいずれかである。この時主は民に対して顧み、飢えた時に養われたが、彼らは腹を満たし満ち足りると、高慢になりついには、主を忘れた(5~6節)。
7節「そこでわたしは獅子のように 豹のように道で彼らをねらう」。民の滅びは、野獣に食い殺されるようだ(8節)。
9節「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ」。救うはずの王、治めるはずの高官はどこにいるのか。「王や高官をわたしにください」とお前は言ったではないか。そこで怒りをもって王を与えたが、今憤りをもってこれを奪う(10~11節)。
12節「エフライムの咎はとどめておかれ その罪は蓄えておかれる」。今産みの苦しみが襲い、生まれる時なのに胎児が出てこない(13節)。
14節「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」。熱風が襲い、水の源が枯れ、泉が干上がるのと同じである(15節)。死の支配から解放できないという文脈になり、口語訳も同じである。しかし新改訳「わたしは陰府の力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。陰府よ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている」で、死の支配に勝利すると正反対の解釈がされる。岩波訳も同様に解釈している。第1コリント15章54~55節は70人訳としてこれを引用している。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 アーメン・ハレルヤ
ホセアの語る神の愛は、死んで滅ぼされるべき者を赦しに変える慈しみ(ヘセド)である。ここで新約聖書のメッセージは、「罪の報酬は死であるが、しかし神の賜物は、主イエス・キリストによる永遠の命である」(ローマ6章23節see).
4節「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」
1節「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられた。しかしアバルによって罪を犯したので、彼は死ぬ」。小見出し『エフライムの終わり』。神の審判としてイスラエルの死を告げる。それにも関わらず偶像を鋳造して罪を犯し続ける(2節)。
3節「彼らは朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のようだ。煙出しから消えていく煙のようだ」。6章4節にもあった。虚しく消える。ヘブライ語の「偶像」(ヘベル)は息、無益、虚しさと同じである。
4節「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」。モーセの十戒の最初に出ている言葉(出エジプト20章2節)である。神の審判は、生か死かのいずれかである。この時主は民に対して顧み、飢えた時に養われたが、彼らは腹を満たし満ち足りると、高慢になりついには、主を忘れた(5~6節)。
7節「そこでわたしは獅子のように 豹のように道で彼らをねらう」。民の滅びは、野獣に食い殺されるようだ(8節)。
9節「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ」。救うはずの王、治めるはずの高官はどこにいるのか。「王や高官をわたしにください」とお前は言ったではないか。そこで怒りをもって王を与えたが、今憤りをもってこれを奪う(10~11節)。
12節「エフライムの咎はとどめておかれ その罪は蓄えておかれる」。今産みの苦しみが襲い、生まれる時なのに胎児が出てこない(13節)。
14節「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」。熱風が襲い、水の源が枯れ、泉が干上がるのと同じである(15節)。死の支配から解放できないという文脈になり、口語訳も同じである。しかし新改訳「わたしは陰府の力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。陰府よ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている」で、死の支配に勝利すると正反対の解釈がされる。岩波訳も同様に解釈している。第1コリント15章54~55節は70人訳としてこれを引用している。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 アーメン・ハレルヤ
ホセアの語る神の愛は、死んで滅ぼされるべき者を赦しに変える慈しみ(ヘセド)である。ここで新約聖書のメッセージは、「罪の報酬は死であるが、しかし神の賜物は、主イエス・キリストによる永遠の命である」(ローマ6章23節see).