日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう 

2015-02-13 | Weblog
  アモス3章 

  8節「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」(新共同訳)。

  1節「イスラエルの人々よ 主がお前たちに告げられた言葉を聞け。 -わたしがエジプトの地から導き上った 全部族に対して-」。小見出し『神の選び』。預言者(ナービー)として召命を受けたアモスは「主が告げる言葉を聞け」と厳しい神の審判という託宣を語らずにおれない。それは先見者(ローエー)ではない。
  2節「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」。エジプトから救い出したのは「お前たちだけだ」と神が選びを告げる。選びは神の聖意を行なうという目的に応えねばならない。しかしそれに背いている。
  3節「打ち合わせもしないのに 二人の者が共に行くだろうか。」口語訳「 ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」新改訳「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」。小見出し『神が語られる』。「打ち合わせる」(ヤーアド)は「相談する」「約束する」と訳される(ヨブ記2章11節see)。二人とは神とアモスである。荒れ野の旅は危険を避けるため独り旅をしなかった。アモスは危険と使命を自覚して語ろうとしている。
  4節「獲物もないのに獅子が森の中でほえるだろうか」。預言者として獅子吼せずにおれない心情を表わす。これは8節でも繰り返される。仕掛けられた罠に鳥が降りてくるように(5節)、警報の角笛で町の民が慄くように(6節)、預言の活動は神から促されてなす必然の結果だと伝える。神の言葉に突き動かされて語らずにはおれないという(7節)。
  8節「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」。これは獅子に食い千切られる恐れ(12節)で、命を失う危険でありそれは避けることは可能である。しかし神を畏れる者は、それから逃れることはできない。比喩としてではなく、対比として理解する。
  9節「アシュドドの城郭に向かって エジプトの地にある城郭に向かって告げよ。サマリヤの山に集まり、そこに起こっている狂乱と圧政を見よ」。小見出し『サマリヤの滅亡』。サマリヤがパニックになり狂乱し、暴虐や暴行の状況を見よとアシュドドやエジプトに向かって呼び掛ける。イスラエルを憎悪する彼らが、その罪状の証人に呼び出されているのである(10節)
  12節「主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足、あるいは片耳を取り戻すように、イスラエルの人々も取り戻される」。これは獅子に噛み殺されて餌食になった羊の残骸である後足や方耳の断片を、羊飼いが証拠として持ち帰るというのである。
  14節「わたしがイスラエルの罪を罰する日に、ベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる」。祭壇の四隅にある突起した角に掴まるなら刑罰は免れるというが、それは破壊されて無く、審判は必ず下ると告げる(列王記上1章50~53節see)。夏と冬を使い分ける豪邸も、象牙の塔も打ち壊されて無くなる(15節)。

 ここでは 「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」と叫ぶアモスの熱い思いに、心が動かされる。使徒パウロもコリント教会に向けて同じ心境を述べている(第二コリント11章28~29節)。