ヨエル3章
5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(新共同訳)
1節「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。小見出し『神の霊の降臨』。口語訳では2章28~32節であり、新共同訳はヘブライ語聖書に依っている。本章は使徒言行録2章17~21節に引用されている。「その後」は「主の日」と同じである(2章18節)。主の深い愛と憐れみが注がれる時である。主の霊は特別な人ではなく、息子や娘、老人や若者に注がれるのである。
2節「その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。身分、階級を越えている。終末的な神の霊の働きが預言される。
3節「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である」。「主の日」が天変地変という終末的状況で示されるのは、人間の判断を超えているということである(4節)。新約では「盗人が夜来るように」(1テサロニケ5章2節、第二ペトロ3章10節、ヨハネ黙示録3章3節)とある。
5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」。神の霊は、注がれた者たちを用いて救いを告げさせる。そしてそこで、主の名を呼ぶ者となる。予言者ヨエルは、エルサレムを救われた人々の都として見ているが、ペトロの引用句では5節後半は省略している。
今日本基督教団では、未受洗者の陪餐が議論になっている。誰でも陪餐できると唱える根拠は、主は誰をも差別しない、差別すべきでないことだと言う。然し礼拝出席者が皆「主の御名を呼ぶ者」であるという論理は成り立たない。ひやかし半分の者もおれば、批判の思いを持って出席する多宗教の者も同席するであろう。おのずからそこには区別がある。区別を差別と取ることは、思い込みと偏見に陥っている。神と教会は無条件で招くが、すべての者を招き陪餐者に対する条件となる神の側にある。つまり「聖霊に依らねば誰もイエスを主と呼ぶことが出来ない」(第一コリント12章3節)のであり、「主の御名を呼ぶ」とは、イエスの死と復活を口で公に言い表すことである(ローマ10章9~10節see)。受洗(バブテスマ)がこれを指していることは明々白々である。一番の問題は、聖霊なる神の働きを無視することである。ひと昔前であるが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という言葉が流行った。幼児から大人まで「みんな病」に罹ると大変なことになる。「安寧秩序」という言葉がある。Peace and Orderである。神の支配はこれによって保たれていることを知るべきであろう。
5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(新共同訳)
1節「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。小見出し『神の霊の降臨』。口語訳では2章28~32節であり、新共同訳はヘブライ語聖書に依っている。本章は使徒言行録2章17~21節に引用されている。「その後」は「主の日」と同じである(2章18節)。主の深い愛と憐れみが注がれる時である。主の霊は特別な人ではなく、息子や娘、老人や若者に注がれるのである。
2節「その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。身分、階級を越えている。終末的な神の霊の働きが預言される。
3節「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である」。「主の日」が天変地変という終末的状況で示されるのは、人間の判断を超えているということである(4節)。新約では「盗人が夜来るように」(1テサロニケ5章2節、第二ペトロ3章10節、ヨハネ黙示録3章3節)とある。
5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる」。神の霊は、注がれた者たちを用いて救いを告げさせる。そしてそこで、主の名を呼ぶ者となる。予言者ヨエルは、エルサレムを救われた人々の都として見ているが、ペトロの引用句では5節後半は省略している。
今日本基督教団では、未受洗者の陪餐が議論になっている。誰でも陪餐できると唱える根拠は、主は誰をも差別しない、差別すべきでないことだと言う。然し礼拝出席者が皆「主の御名を呼ぶ者」であるという論理は成り立たない。ひやかし半分の者もおれば、批判の思いを持って出席する多宗教の者も同席するであろう。おのずからそこには区別がある。区別を差別と取ることは、思い込みと偏見に陥っている。神と教会は無条件で招くが、すべての者を招き陪餐者に対する条件となる神の側にある。つまり「聖霊に依らねば誰もイエスを主と呼ぶことが出来ない」(第一コリント12章3節)のであり、「主の御名を呼ぶ」とは、イエスの死と復活を口で公に言い表すことである(ローマ10章9~10節see)。受洗(バブテスマ)がこれを指していることは明々白々である。一番の問題は、聖霊なる神の働きを無視することである。ひと昔前であるが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という言葉が流行った。幼児から大人まで「みんな病」に罹ると大変なことになる。「安寧秩序」という言葉がある。Peace and Orderである。神の支配はこれによって保たれていることを知るべきであろう。