アモス5章
24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(新共同訳)
1節「イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を」。小見出し『悲しみの歌』。神の審判を前の挽歌である。乱暴に投げ捨てられたおとめイスラエルは立ち上がることが出来ない(2節)。
3節「まことに、主なる神はこう言われる。『イスラエルの家では 千人の兵を出した町に、生き残るのは百人 百人の兵を出した町に、生き残るのは十人』」。絶望的な未来であり、戦いで生き残れるのは10パーセントである。
4節「まことに主はイスラエルの家にいわれる。わたしを求めて生きよ、主を求めて生きよ」小見出し『わたしを求めて生きよ』。ベテルやギルガルに行って助けを祈っても得ない。必ず捕えられ移される(5節)。繰り返し「主を求めて生きよ」と言われる。さもないと厳しい主の審判から免れられない(6節)。
7節「裁きを苦よもぎに変え、正しいことを地に投げ捨てる者よ」。裁き(公平・ミシュパート)と正義(ツェダーカー)を不愉快として投げ捨てる者よ、闇を朝に昼を夜に変える主は、突如として城壁と砦を破滅させることを知れ(8~9節)。何故なら、不正な裁判を行い(10節)、弱者を抑圧し(11節)、賄賂を取っているからだ(12節)。
14節「善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きるために。そうすれば、お前たちが言うように 万軍の神なる主は お前たちと共にいてくださるだろうに」。主なる神の前にでて、何を求めているかを正せ。
15節「悪を憎み、善を愛せよ、また町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が ヨセフの残りの者を 憐れんでくださることもあろう」。悪は徹底して憎み、善は求めるだけでなく愛せよ。裁きが行われる町の門で正義(ツェダーカー)を貫け。そうするなら万軍の主は共にいてくださる。
16節「それゆえ、万軍の主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起り、どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が 嘆くために泣き男が呼ばれる」。小見出し『裁きの日』。それは主が民の中を通られるからだ(17節)。出エジプトで民が最後の食事をした時に町に起きた嘆きと悲しみが(出エジプト12章12節、30~31節)、ここではイスラエルに裁きとして起きると告げたのである。
18節「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」。獅子の前から逃れても熊に会い、家に帰りついて壁に手をついても蛇にかまれる(19節)。主の日は、暗闇であって、輝きではない(20節)。
21節「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」。
小見出し『祭にまさる正義』。燔祭や素祭や、肥えた獣の酬恩祭をささげても(口語訳see)、騒がしい楽器を奏しても主は喜ばれない(22~23節)。そうではない。
24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。口語訳「 公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」。岩波訳「公義をほとばしる水のように…」。新共同訳「正義」と訳しているが、7節「裁き」(公平ミシュパート)で、神の公正な裁定を示している。何故なら、民の甚だしい偶像礼拝(26節)に対するアッシリア捕囚という審判がなされるからだ(27節)。
公道(正しい審判)と正義は、信頼の基盤となるものである。
24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(新共同訳)
1節「イスラエルの家よ、この言葉を聞け。わたしがお前たちについてうたう悲しみの歌を」。小見出し『悲しみの歌』。神の審判を前の挽歌である。乱暴に投げ捨てられたおとめイスラエルは立ち上がることが出来ない(2節)。
3節「まことに、主なる神はこう言われる。『イスラエルの家では 千人の兵を出した町に、生き残るのは百人 百人の兵を出した町に、生き残るのは十人』」。絶望的な未来であり、戦いで生き残れるのは10パーセントである。
4節「まことに主はイスラエルの家にいわれる。わたしを求めて生きよ、主を求めて生きよ」小見出し『わたしを求めて生きよ』。ベテルやギルガルに行って助けを祈っても得ない。必ず捕えられ移される(5節)。繰り返し「主を求めて生きよ」と言われる。さもないと厳しい主の審判から免れられない(6節)。
7節「裁きを苦よもぎに変え、正しいことを地に投げ捨てる者よ」。裁き(公平・ミシュパート)と正義(ツェダーカー)を不愉快として投げ捨てる者よ、闇を朝に昼を夜に変える主は、突如として城壁と砦を破滅させることを知れ(8~9節)。何故なら、不正な裁判を行い(10節)、弱者を抑圧し(11節)、賄賂を取っているからだ(12節)。
14節「善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きるために。そうすれば、お前たちが言うように 万軍の神なる主は お前たちと共にいてくださるだろうに」。主なる神の前にでて、何を求めているかを正せ。
15節「悪を憎み、善を愛せよ、また町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が ヨセフの残りの者を 憐れんでくださることもあろう」。悪は徹底して憎み、善は求めるだけでなく愛せよ。裁きが行われる町の門で正義(ツェダーカー)を貫け。そうするなら万軍の主は共にいてくださる。
16節「それゆえ、万軍の主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起り、どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が 嘆くために泣き男が呼ばれる」。小見出し『裁きの日』。それは主が民の中を通られるからだ(17節)。出エジプトで民が最後の食事をした時に町に起きた嘆きと悲しみが(出エジプト12章12節、30~31節)、ここではイスラエルに裁きとして起きると告げたのである。
18節「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」。獅子の前から逃れても熊に会い、家に帰りついて壁に手をついても蛇にかまれる(19節)。主の日は、暗闇であって、輝きではない(20節)。
21節「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」。
小見出し『祭にまさる正義』。燔祭や素祭や、肥えた獣の酬恩祭をささげても(口語訳see)、騒がしい楽器を奏しても主は喜ばれない(22~23節)。そうではない。
24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。口語訳「 公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」。岩波訳「公義をほとばしる水のように…」。新共同訳「正義」と訳しているが、7節「裁き」(公平ミシュパート)で、神の公正な裁定を示している。何故なら、民の甚だしい偶像礼拝(26節)に対するアッシリア捕囚という審判がなされるからだ(27節)。
公道(正しい審判)と正義は、信頼の基盤となるものである。