税金の本質から見てありえない議論がまかり通り、自公が参議院選挙で圧勝さえしている。それが日本の現状です。自滅への道をまっしぐらです。
*税金の本質についての議論が続きます。
次に述べるのは、単なる理論的概念ではありません。それは、まさに1800年代のアフリカで起こったことです。そこは大英帝国の植民地で、農作物を育てることを目論んでいました。大英帝国は、植民地の人々に仕事を提供しました。しかしだれも大英帝国の硬貨を稼ぐことに関心を示しませんでした。そこで大英帝国は、すべての人々の住居に、大英帝国の通貨による支払いのみOKの“小屋税”を課しました。その地域は、“貨幣化”され、人々は大英帝国の硬貨を必要とするようになり、それを手にするために労働力や売り物を提供するようになりました。
*「貨幣化」は、monetizeの訳です。一般的には、事業から収益が得られる仕組みを作ることを意味します。ここでは人々が、納税手段である大英帝国硬貨をゲットするために商売をし始めた事態全般を指しているように思われます。
大英帝国は、人々を雇い、大英帝国の硬貨で賃金を支払えるようになりました。その結果人々は、農場で働き作物を育てるようになりました。
これは、例の両親が、子どもたちにお手伝いをさせることによって、彼らから労働時間をゲットしているのとまったく同じです。これは、アメリカドルや日本の円やイギリスのポンドなどのような“不換通貨”と呼ばれるものがうまく働いている仕組みとまったく同じです(金本位制や固定相場制での通貨はこの限りではありませんよ)。
いまや私たちは、違った切り口から税金の役割を考察する準備が整いました。経済学の言葉を使っての、今日の経済における税金の役割を考察する準備が、です。学識のある、今日の経済学者なら“税金の役割は、総需要を減少させることである”というでしょう。“総需要”という彼らの用語は、“購買力”をちょっとだけ大げさにしたものです。
政府は、私たちに課税し、たった一つの理由のために私たちからお金を奪います。納税によって、私たちの購買力はその分だけ落ち、通貨はその分だけ希少性を増し価値が高まります。私たちのお金を奪い去ることによって、政府は、インフレを起こすことなしに財政支出する余地を与えられるというふうにも考えることができます。
*どうしても一言申し上げたくなりました。インフレが起こりそうなときではなくて20年以上続いているデフレ下において、日本政府は「インフレを起こすことなしに財政支出する余地を与えられる」消費増税を実施しようとしています。つまり政府は、デフレ下でインフレが起こることを先回りして心配しデフレのさらなる延長を画策していることになります。この意味でも、消費増税10%実施がいかに馬鹿げた政治判断であるか分かります。この馬鹿げた政治判断の根にあるのは、「税金は、財政支出の財源である」という陋習のような税金思想です。
経済なるものを、私たちが毎年生産し売り物として提供するすべての品物とサービスで満たされた、ひとつの大きなデパートとして考えてみてください。私たちは、そのデパートであらゆるものを買うのに十分なだけ賃金や利益を得ていて、それらをすべて使い果たすと仮定しましょう(もし私たちが借りてでも消費するなら、私たちはそのデパートにあるより多くの物を買うことさえできます)。しかしもしも私たちのお金のいく分かが納税に使われたならば、私たちは、そのデパートで売られているすべてのモノを買うのに必要とする購買力の不足に直面します。その事態によって、政府はほしいと思うものに支出する余地を与えられます。で、財政支出と私たちの支出との合計は、そのデパートで売られているものを超えないことになります。
*つまり徴税は、一国の購買力(需要)が全リソースのフル活用状態(生産能力)を過度に超えてインフレが生じないようにする手立てである、ということです。
しかしながら、財政支出と比較して、政府が課税しすぎたなら、支出の合計が、そのデパートが売っている品々を「確かめる」ほど十分ではなくなります。
*「確かめる」の原語は、make sure です。それ以外、とりあえず訳しようがないので、そう訳しました。買おうかどうか具体的に検討する、というニュアンスなのではないかと思われます。「日本語としての自然さを優先する意訳」を方針としている本稿ではありますが、おのずと限度があることは承知しております。
企業が自分たちの生産したものすべてを売ることがかなわないとき、人々は職を失い、支出するためのお金が減ります。それゆえ売り上げは減ります。人々が職を失えば失うほど、経済状況は、私たちが不況と呼ぶところの下方スパイラルに突入します。
*要するに、デフレを招くような増税は最悪だ、と言っているわけです。