源氏と平家による争乱の時代は、庶民にとってみれば「末法の世」と受け止められたであろう。
そんな争乱の時代だからこそ人々は救いを求める。
俗にいう「藁にもすがる」ということなのだ。
親鸞(1173~1262)は次のように語る、
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
2017年4月和倉温泉にて
ロシアのプーチンが愚かにも核のボタンを片手に、「火宅・無常の世界」を作り出している。
このような暴君を阻止する手段が限られていることがもどかしい。
親鸞の嘆きの声が聞こえてくる。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
おかめざくら(2021年5月)
今年もこの桜は花をつけてくれるであろうか?
日本の歴史を眺めると悪逆非道な暴君というのは出ていない。
太平洋戦争に突入し、国民を塗炭の苦しみに追いやった東条英機など意気地のない小物だ。
日本人というのはそもそも「悪逆非道」にはまることのない温和な国民性を持っているのだろう。
敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花 本居宣長
おかめざくら(2018年5月)