日本人は無宗教なのかと言えばそうでもない。
神様や仏様に対して敬っているし親しみも持っている。だから日本全国にお寺も神社も至る所にある。
しかし「何を信じているのか」と問うとまともに答えられる人がどの程度いるだろうか?
もともと「信仰」と言うものは言葉で説明できない。
いくら論理を組み立てても、「最後は信じるか、信じないか」だ。
ところが日本人はこの一線で踏みとどまる。本当は信じていないのだ。
言い方は悪いが、宗教に関しては「いい加減なところが」ある。
平安時代の梁塵秘抄に出てくる歌がある、
庶民は仏の実態を見抜いていたのかもしれない。
仏は常にいませども、うつつならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給う
常に仏はこの世の中にいるが、出てこないことこそが非常に趣きがある。あけがた、ほのかに夢に出てこられる。
戦後勢力を伸ばしてきた新宗教勢力(例えば統一教会や創価学会)は、この「信仰に対するいい加減なところ」を排除する。
その手法は、統一教会においては「マインドコントロール」、
創価学会は「折伏」だ。
数人、あるいは数十人に囲まれて説得?されると真面目な人ほど落ちてしまう。
しかし「地獄に落ちるよ」と言われてそれを信じる人がいるということをどう考えたらよいのだろう?
本来宗教勢力と一線を引くべき政治の側(自民党)が票欲しさに目がくらんで取り込もうとした。
「ミイラ取りがミイラになる」とは良く言ったものだ。
自民党は、統一教会や創価学会を取り込んだつもりでも、逆に蚕食されて半分ミイラになりかかっているのではなかろうか。
自民党は、統一教会の呪縛から何とか逃れても創価学会から足を抜けないだろう。
選挙が始まればどうなるか、そのやり方をじっくりと目を見開いて見ておくべきだろう。