うれし涙を見るために・・・芽育学院

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いいの巻

2021-11-24 02:07:00 | koi先生より
こんばんは。


koiです。


明日は三島由紀夫の命日です。


三島由紀夫を中学生ならわかるかな??


三島由紀夫の本名は、平岡公威(ひらおか きみたけ)といいます。


1925年(大正14年)、東京の四谷区(現在の新宿区四谷)に生まれました。


祖父は内務省の内務官僚、後には樺太庁長官をも務めた人物で、父は東京帝国大学法学部出身の農商務省の官僚です。


また、母は、東京開成中学校の校長の父親を持つ名家の令嬢。家には、家族以外に女中が六人と、その他にも書生や下男がいました。


三島由紀夫は、いわゆる、エリート一家の長男坊だったのです。


そんな三島由紀夫が、文学の世界に親しむきっかけとなったのは、祖母の夏子の存在が大きいといわれています。


この祖母は、大変に過保護で、病弱だった三島由紀夫に外遊びやお菓子を禁じるほどでした。


また、行儀見習いに厳しく、貴族趣味を含む教育を施しました。


更には、谷崎潤一郎や泉鏡花を好んだ祖母の影響もあり、読書に親しむ環境が幼い頃より整っていたといいます。


そのため、初等科に入学した頃には、意欲的に詩や俳句を作成しては発表していました。


中等科・高等科のときには文芸部に入部し、詩歌や散文の作品だけでなく戯曲を発表。


後に、小説家だけでなく、劇作家や随筆家、果ては評論家に政治活動家となる三島由紀夫。


その片鱗は幼い頃から現れていたのかもしれません。


そんな三島由紀の作品の特徴といえば、やはり卓越した言葉のセンスでしょう。


多彩な修辞によって彩られた美しい文章、そして、繊細で絢爛な雰囲気を感じさせる表現力。


三島由紀夫が作家として活躍していたのは、戦後の高度経済成長期の真っただ中です。


その時代に、日本だからこその美意識を追及し続け、それを高めていくことに情熱を傾けていた三島由紀夫。


彼の作品は、それこそ世界的にも認められました。


それこそノーベル文学賞の候補にも選ばれていますし、アメリカ合衆国のシカゴで創刊された世界初の男性誌「Esquire(エスクァイ)」でも、「世界の百人」に初めて選ばれた日本人です。


また、国際放送されたテレビ番組に、日本人で初めて出演したという功績まであるのです。


日本だけでなく、世界的にも認められた三島由紀夫。
しかし、その最期は、あまりに壮絶でした。


日本という国を心の底から愛し、誇りに思っていた三島由紀夫は、当時の高度経済成長期を迎えた日本に憂いを持っていました。


誰もが利益追求の姿勢であり、世界ばかりに目を向けて、日本本来の誇りを失っている。


その思いが強くなった三島由紀夫は、とうとう行動を起こします。


自衛隊へ体験入隊し、そこで独自の組織「楯の会」を結成。


その後、会員と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)へと向かい、東部方面総監を監禁。

そして、自衛隊員の前でクーデターを促す演説を行い、そのまま割腹自殺をしたのです。


この事件は、後に「三島事件」と呼ばれることになるのですが、当時、世の中に与えた衝撃はとても大きいものでした。


誰もが認める人気作家が起こした事件は、あまりに衝撃的であり、また、その失われた才能を、多くの人が嘆いたそうです。


半生をサラッと抜粋しましたが、これほど濃い人生を歩んだ人も珍しいです。


かっこいいけどね。


ということで『聖セバスチャン』


三島も好きな作品だそうです。


ではまた。
コメント
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