祝!昭和百年!200万PV達成!漫画史研究家・本間正幸監修【少年画報大全】(少年画報社・現在三刷)

【20世紀冒険活劇の少年世界】メトロポリス漫画総合研究所(since1997)から、昭和の映画、出版美術、音楽を!

東京国際アニメフェアが始まるよ

2009-03-17 16:24:50 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
明日からの4日間、東京ビッグサイトで東京国際アニメフェアが開催されます。18日水曜・19日木曜はビジネスデーで事前登録は2月1日よりホームページにて受付開始、 未登録の場合は\1000。
商談環境保全のため18歳未満は入場禁止。
お問い合わせは 03-5777-8600(NTTハローダイヤル)
http://www.tokyoanime.jp/
記者発表やシンポジウム(ホームページにて事前受付)など。
パブリックデーは20日金曜・祝、21日土曜で前売・大人\800 中高生\400
当日・大人\1000 中高生\500
前売券は2月1日より販売開始
小学生以下、65歳以上および障害のある方と介助の方は無料
ステージイベントやクイズラリー、アニメシアター
など。
4日間共通
見本市と特別企画展、アニメバザールなど
東京アニメアワード・功労賞 表彰式(20日金曜・祝日)入場は招待者のみ。 最新情報は、ホームページをご覧下さい。
第8回を迎える、世界最大のアニメ総合イベント。
アニメ関連企業・団体200社以上がブースを構え、最新情報をお届けします。
さて、以上がチラシからわかる情報なのだが、毎年4日間通い続ける私、本間から皆さんへのアドバイス。ビジネスデーへ参加出来る方は、なるべくビジネスデーに参加することがおすすめ。
当日、事前受付の返信メールが通行証代わりとなるのでプリントアウトして、受付まで。
その時、名刺が必要となります。
2日とも来場予定の場合は、両日ともプリントアウトをお持ちいただくか、一日目(18日)のパスを受付へお出し下さい。
プリントアウトを忘れた場合、登録は無効となり、入場料\1000が必要となるので注意すること。
パブリックデー参加の場合、去年は、東京国際展示場に朝10時に着いた人が入場出来たのは何と!!お昼の12時。
駅前から会場入口迄延々と続く長蛇の列。ペットボトル持参は必須です。
会場も凄い混雑をしている為、食事会場や休憩場所も人で溢れていました。
疲れ果てて地べたに座り込む人達の姿まで。
お弁当やシートを持参しても良いかも知れません。
パブリックデーに並ばないで済む究極の裏技は、ブースに出展する知人を見つけ、自分から手伝いを申し込み、スタッフパスを手に入れること。
私は、毎年この手を使って、椅子と荷物置き場も確保してます。
知人を見掛けたら休憩時間をもらって会場の案内もしております。
さあ!明日からは、東京国際アニメフェアの見所など4日間にわたりレポートして参りますのでお楽しみに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まんだらけZENBU42 が届いたよ!

2009-03-16 23:53:26 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
3月11日水曜日、まんだらけZENBU最新号が届きました。
年間購読者には、(ねおまんだらけNo.16)がついてくるのでオススメです。
今回はA5版カラー48ページ。
中身は、購読者だけのお楽しみ。
今回の注目記事は文京出版(少年少女譚海)特集。絵物語、楳図かずおコレクターで知られる高橋正彦氏による 戦後の(譚海)と文京出版 の記事。
これまで譚海は、マボロシの雑誌のひとつとされ、その全貌は謎に包まれていた。
小松崎茂や伊勢田邦彦、永松健夫や桑田次郎などの作品リストもこれで更新が出来る。
漫画史研究家は、漫画評論家と違い、独自にデータベースを作るのが最低の必須条件のひとつ。
作家の作品リスト、単行本リスト、年譜などを調査し、更に本当かどうか作家本人もしくは遺族にあって確認する。
他人が発表したデータは実物が確認出来るまで、半信半疑のままである。
ちなみに、私の著書の代表作、少年画報大全に掲載しているデータと、それまでの評論家達が言っていたデータとでは、100箇所以上の違いが見受けられる。
巻末の参考文献と少年画報大全の記載データが違う場合、私のデータの方が99.9%の確率で正しいと自負している。
2001年以降に発表された書籍でも、少年画報大全を参考文献に加えてないもので、同じ事柄のデータが違っていた場合、私のデータの方が正しい筈である。
ちなみに、有名古書専門店の間では、少年画報大全は必須であり、店の店長達の間で私の顔は、すっかりバレてしまっている。
高橋正彦氏についても同様で、一般にはあまり知られていないが、古書店とマニアの間では、有名な人物である。
私は、彼の正体を知っているし、10年ほど前には、自宅を訪ねたこともある。
楳図かずお先生と絵物語に関して言えば、日本有数のコレクターとしてあまりにも有名な謎の人物である。さて、もうひとつの楽しみは、星まこと氏によるアニメインタビュー。
毎回丁寧なインタビューを続けている。
彼も一般的には、あまり知られていないが、日本のアニメの若手研究者としては、実力日本一。
元エイケンの有名プロデューサー鷺巣政安氏に師事。御園まことの名で(図説テレビアニメ全書・原書房1999年)を監修している。
この本には、現場から見たアニメの歴史として(宇宙戦艦ヤマト)や、(超時空マクロス)など数々のヒット作を手掛けた演出家の石黒昇氏や(風の谷のナウシカ)の作画監督であるアニメーターの小松原一男氏、テレビアニメ創成期からのプランナーとして鷺巣政安の特別インタビューも収録されている。
今回のまんだらけZENBUには、(リボンの騎士)や、(科学忍者隊ガッチャマン)の作画監督、宮本貞雄氏のインタビューを収録している。
星さんとも10年来の付き合いになる。
非常に爽やかな兄貴分です。そして、忘れてはいけないのが成瀬正佑氏の護美之砦。
貸本漫画B6判単行本大全と題しての連載も今回で13回目。
若木書房其の四である。
毎回オールカラーで単行本のデータを紹介している。非常に助かります。
今回は、昭和漫画館青虫の訪問記も掲載。
私は、まだ、青虫には行ったことがない。
今年こそは、訪ねて見たいと少女漫画家の大御所である巴里夫先生と、話しているところだ。
漫画史研究家は、漫画評論家と違い、日々の地道なデータ集めが必要とされ、その成果を発表する場も非常に少ない。
だが、漫画評論家が漫画家の先生達にあまり好かれていないことが多いのにくらべ、漫画史研究家の私に対してだけは先生方は皆、非常に親切である。
少年時代から憧れていた、ちばてつや先生に、名前と顔を覚えてもらえたなんてまるで夢のようである。
漫画史研究家の私としては、ただそれだけで幸せな毎日なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログの引越し完了です。

2009-03-16 21:06:48 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
前略 3月7日より、gooのブログを始ました。
まだブログの初心者であるだけでなく、インターネットも初心者なので、Google検索で本間正幸から、本間正幸の少年画報大全と題してブログを始めたと紹介されているのを見つけてビックリ!
少しは名のある男になってきたんですね。
このブログもメジャー化を目指して引越しをして来ました。
所属する事務所の人達の手を加えて、皆さまに見やすくする為の引越しです。
4月からの公式ホームページ立ち上げに向けてこれからも日々頑張ってまいりますので、よろしくお願い致します。
草々
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DVD映画( 黄色い涙) とTV落日燃ゆ

2009-03-16 17:17:59 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
14日は、(銭ゲバ)最終回の感想とジョージ秋山先生に会った時の印象を書いて見たのだが、検索して見ると、随分大勢の人達がこの作品について語っているようだ。
私は、ブログを3月7日から始めたばかりだけでなく、更に今までパソコンすらいじったことがないので、日々いろんなことを練習中である。
まだシステムも良くわかってないので、皆さんにご迷惑をおかけすることがあるかも知れません。書いている文章も再録したもの以外は、草稿の状態だと思って下さい。
私は、今まで自分で書いた文章を何度も推敲してから発表していたものですから。
さて、昨日は借りてきたDVD・映画(黄色い涙)を見てました。
この作品については、非常に思い入れがあるので、後日改めてブログに書かせていただきます。
何故思い入れがあるかって?
それは、この映画に撮影協力しているからなんです。最後にエンディング曲嵐の(涙の流れ星)が流れる中、エンディングロールの協力者の中に メトロポリス漫画総合研究所 本間正幸の名前があるのでこれからDVDを見るところだと言う方は、探して見てくださいね。
少し先になるかと思いますが、映画の見所と原作者永島慎二先生について紹介させていただきます。
さて、今日は城山三郎原作の(落日燃ゆ)を見ました。私の興味は、(正ちゃんの冒険)から始まる大正・昭和の少年少女漫画の歴史を社会学的見地から見ることにあるので、このドラマも興味深く見ました。
敗戦後GHQ支配下の日本で行われた東京裁判は、果たして本当にただしかったのか?
もう一度考え直す必要があると考えさせられるドラマでした。
日本の農地改革についてもそうです。
GHQ支配下でマッカッサーの指導の下行われた農地改革は、庄内の本間家をモデルケースとして行われました。
その際、本間家の関係者は、(この農地改革により将来日本の農業は重大な危機を迎える可能性がある) とのコメントを残しております。
まるで今日の農業問題を予見かのごとく、鋭い発言です。
その問題も後日改めてと言うことで・・・
最後に、本間家と農地改革がモデルになった漫画をひとつ紹介します。
本宮ひろ志の(俺の女たち)。
初出 (ビッグコミックスピリッツ)1980年11月号より 1981年2月号まで連載
作中では、藤堂家となっていますが、明らかに本間家がモデルです。
私の祖父も、作中の主人公のように戦前、普段の生活で馬に乗っていたそうです。
何故なら、道が舗装されていない田舎では、車はあまり使い物になりませんでした。
映画が好きで、映写機とフィルムを購入し、村人皆を自宅に呼んで映画を上映したこともあったそうです。
父の子供の頃の自慢は、 (のらくろ)の単行本が全巻家にあり、同級生皆が借りに来たとのこと。
映画好き、漫画好きは祖父からの遺伝子があるのかも知れませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤塚不二夫先生から貰ったサイン

2009-03-15 17:14:17 | 「愛と誠」と「朝日の恋人」(チクマ秀版社)梶原一騎の世界
カラーテレビが我が家へ来た時、お茶の間で家族皆で見ていたアニメ(天才バカボン)。
初めて貰ったおこづかいで買ったのは(おそ松くん)と(ハリスの旋風・ちばてつや先生)の単行本でした。1998年、(TVチャンピオン少年マンガ王選手権)出場がキッカケとなり、フジオ・プロ2Fのリビングで初めて赤塚先生とお逢いすることが出来ました。
この色紙は、当時私が経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスへ
(赤塚先生のサインをお店に飾らせていただきたいのですが・・・。 )
とお願いをした際に、先生みずから色まで塗っていただけた物です。
赤塚先生は、
(一番安い額でいいから。額に入れて飾るとオレの絵でも立派に見えるから額に入れて皆に見て貰えると嬉しいな。)
と笑顔でおっしゃっていました。
そばにいた真知子さんは、(こんなに大きなサイン色紙は、いままで描いたことがないから特別よ。)
と。
諸般の事情により、1999年9月にお店は閉めてしまったので、その後は宝物として自宅に大事に飾らせていただいておりましたが、今回の追悼展で再び(約10年振りになります)皆さんに見ていただけることは、私にとってあの日の赤塚先生との約束を果たすことにもなるのです。
いまは二人一緒に天国にいる赤塚先生と真知子さんはきっと笑顔で見守ってくれていることでしょう。
(これでいいのだ!!)
と。

2009年1月15日木曜日 社団法人 日本漫画家協会正会員 ・漫画史研究家

本間正幸

(この文章は、2009年1月17日ー2月22日まで追悼赤塚不二夫のコニャニャチハ展、と題して荻窪にある杉並アニメーションミュージアムで行われた追悼展に対し、私が貰ったサイン色紙に寄せたコメントを再録したものです。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭ゲバ最終回。

2009-03-14 23:19:10 | 「愛と誠」と「朝日の恋人」(チクマ秀版社)梶原一騎の世界
先程、銭ゲバが終わった。最初から最後まで目が離せない展開が続き、この冬一番の楽しみにしている番組だった。
(2番目は、アグリべティー、出版業界の内幕が良く描けていて笑えるし、やけにリアルな番組だ)
私があった時のジョージ秋山先生は、さすがは銭ゲバの作者と思わせるだけの人物。
いまは、廃業してしまったチクマ秀版社から、かつての(パットマンX )などの初期作品からの少年物を、いくつかセレクトして出していきたいと相談しに編集者二人と三人で仕事場へ訪ねたのだ。
その日は広いマンションの一室に先生一人だけ。
約束の6時に訪ねていくと、先生自らのお出迎えに恐縮しきりの三人。
最初、缶に入ったウーロン茶が出され、話が始まると直ぐに紙コップにヘネシーがストレートで出される。そう、ウーロン茶は、ヘネシーを割るために出されたのだ。
そして、(自分の少年物はあまり売れないから出さない方が良い)と言われ、(そこを何とか出させて貰えませんか?)
と粘る三人。
(青年物ならいいけど、どう?)
(いや、少年物で)
と我々三人は引き下がらない。
延々と話は続き夜は更けていく。
途中、先生の最近の仕事の話になり、書き下ろしの聖書物語についてや、幻冬舎創立10周年記念事業出版(武士道というは死ぬことと見つけたり・2004年)
に話が及ぶ。
だがこの時、我々は何と三人ともまだ先生の書き下ろし作品を読んでいなかったからさあ大変!!
(読んでないのに来たの!そんな編集者は初めてだ !)
と凄い剣幕。
(これで全てが終わった) と思い観念して帰ろうとしたところ、先生が奥から本を持って来てプレゼントしてくれたのだ。
そして、武士道についての話となる。
私の先祖は、サムライが誕生してから幕末明治維新になるまでそのほとんどがサムライであった。
佐渡の地頭時代には、日蓮上人との逸話がのこっている。
上杉により、佐渡を追われるまでの記録と、その後、庄内酒田の三代目、光丘の子が分家して庄内鶴岡に武家として分かれてから幕末明治維新までが庄内藩のサムライである。
本間光丘は9代前の先祖、最近、株式相場の神様として話題になる本間宗久はその叔父にあたる。
本間ゴルフの前社長一族の素性は良く分かっていないし、私の家とは何ら関係ない。
佐渡に本間の苗字は今も多いが、上杉との戦いで、そのほとんどが滅び、主流は庄内に移っている。
私の父の実家は、鶴岡では古い本間家だが、酒田との行き来はなくなっている。さて、肝心のジョージ秋山先生についてだが、ジョージ秋山先生は、この話を興味深く聞くと、
(この本で、間違っていることがあったら教えてね。)
と、すっかり上機嫌になり、ヘネシーのボトルが一本空いてしまう。
時間も既に11時をまわっている。
結局、その日は契約はまとまらず、また後日とあいなった訳だが、売れっ子の先生の大事な時間を5時間以上(通常インタビューでも1時間ぐらいが標準である)も使わせてしまって、大変恐縮していると、先生は一言
(締め切りを一日間違えちゃって昨日原稿終わらせちゃったんだ。だから今日は暇だったんで来てくれて丁度良かったよ。)
何の事はないジョージ秋山先生は、退屈しのぎに初対面である私達三人を相手に5時間半にわたり暇潰しをしていたのである。
さすがは、ジョージ秋山先生、と感心してサ三人は家路を急いだのである。

最後に、私個人としてもう一度読みたいジョージ秋山作品は、(花のよたろう)である。少年チャンピオンコミックスに一度だけまとめられたことがあるのだが、最後まで収録されていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉持功さんと二上洋一さんと私

2009-03-13 19:02:20 | 「少女まんがの系譜」と「少年小説の系譜」追悼!二上洋一先生
1月16日、倉持功さんが脳出血により急逝された。享年71歳。集英社の名編集者として知られ、数多くの少女まんが家を育ててきた功績はあまりにも大きい。通夜・告別式は、親族と故人の人柄を偲ぶ人たちの間で行われた。
私にとっての出会いは、倉持功さんではなく、文芸評論家二上洋一としてである。各社新聞の訃報記事でも二上洋一として追悼されることとなった。
少年小説の系譜(幻影城・1978年刊)により少年小説研究の第一人者として一躍知られることになった二上洋一は、推理小説にも造詣が深く、私家版推理小説三十五年私史(ウェルテ・2006年刊)を残されており、蔵書の一部となる推理小説約一万冊は、先年成蹊大学へ寄贈されている。
少女まんがについては、現場の編集者としての体験と視点からなる、少女まんがの系譜(ぺんぎん書房・2005年刊)があるのだが、出版後すぐに版元が倒産したため、一般にはあまり流通しなかったのが残念だ。
鮎川哲也監修芦辺拓編集長による、少年探偵王(光文社文庫・2002年刊)での解説が縁となり、その後は日本出版美術研究会( 弥生美術館)での会合の後、根津の駅周辺の店で二上先生と一緒にお酒を飲むことは、私のささやかな幸せの時であった。
私は、二上洋一としてだけでなく人間倉持功さんの人柄に魅了され、色々な話を聞きたくて、弟子入り志願した矢先に突然この訃報が舞い込んだ。
これじゃあ、あの時と同じじゃないか!
悔やんでも悔やみきれない悲しみと後悔の念が私の心から離れない。
ほとんど大学へ進学出来る者がない高校ですら、ケンカのため停学を何度もくらい退学寸前の不良少年だった私は、大好きだった父の入院を機に改心し、大学進学を志す。11ヶ月にわたる入院生活の中、17歳の春に父を癌でなくしてしまった私にとって、無償の思い遣りと優しさで接してくれた人は、肉親以外では二上先生が初めてであり、他には誰もいない。
お酒が大好きだった父と1つ違いで、父と同じくお酒好きの二上先生の姿の中にいつも父の面影を重ね会わせていた。
今はもう、二上先生もお父ちゃんがいる遠い所へいってしまったんですね。先生には、不良少年時代の話はしましたが、このことは照れ臭くって最期まで話すことができなかったことが心残りです。
最後に二上先生の言葉を記しておきたい。
推理小説は面白い。時代小説も面白い。考えてみたら、私の人生は本を読むことで始まり、本を読みながら終わることになるのかもしれない。(前出私家版の、おわりに、より)

この文章は、free paper Dio(ディオ)vol.6 2009.3.1に掲載したものを一部改訂し転載しました。今回のディオは3月7日の午前に横浜の自宅に届きましたので、これから関係各機関などで入手出来るかと思います。太宰治生誕100年!! を特集し、三鷹市 太宰文学サロンの案内や、三鷹市山本有三記念館、弥生美術館( 3月29日までは、江戸川乱歩の怪人二十面相や、小松崎茂の師匠としても知られる 夭折の挿絵画家 小林秀恒展。4月3日からは、詩とメルヘンからアンパンマンまで、と題して メルヘンの王様 やなせたかし展)などのexhibition を掲載しております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一万人が選ぶ人気アニメの名場面

2009-03-13 19:01:22 | since1997、メトロポリス漫画総合研究所とチクマ秀版社
いま、1万人に徹底調査!超人気アニメ第1話&最終回ぜんぶ見せます感動の名珍場面50連発を見ました。
みなしごハッチの第一話を覚えていました。他にも、最終回近くにいつもハッチを狙っていたカマキリのおじさんが命をかけてスズメ蜂からハッチを守って死んでしまったのを覚えています。
アルプスの少女ハイジは、第一話から最終回までずっと見ていたので、フランダースの犬が始まった時、ネロのジェハンじいさんは、ハイジのおじいさんにくらべて少し頼りなく、ネロもアロアと遊んでばかりで、甘ったるい始まり方に思えてハイジが終わってしまったことが残念だったのを覚えています。
けれども、いま子供の頃からの事をふりかえってみると、ハイジはただ懐かしいだけですが、フランダースの犬が私の人生に与えた影響にははかり知れないものがあります。
8年ほど前にフランダースの犬を途中から見直す機会がありました。いつも最終回ばかりが取り上げられるフランダースの犬ですが、ネロに対するおじいさんの無償の愛と優しさにくらべ、多くの他人である大人達のネロに対する言われなき偏見と冷たさ、絵に対する情熱や才能だけではどうすることも出来ないネロの境遇。原作や実写化された映画にくらべても(パトラッシュのリアルな姿に驚きます。危うく映画の画面に向かってお前は本当のパトラッシュなんかじゃない!!と叫びそうになりました。)最初のアニメの素晴らしさは、そのストーリー構成や、森やすじさんのキャラクターデザインの素晴らしさにも、魅力が溢れています。
後年、他の局で再度アニメ化されたものを見た時、いかにも悲しげな画面やストーリーの展開に、嫌気がさしあまり続けて見る気が起こりませんでした。
放映当時、8才の私にとって、ジェハンじいさんの死は衝撃的であり、大人達のネロに対する冷たさは許せないものでした。けれども、大人達がどんなにネロに冷たくあたっても、神がジェハンじいさんの命や、ミルク運びの仕事すらをも奪っても、たったひとつだけ、どうしても奪うことが出来ないものがありました。それは、どうしても画家になりたいと願うネロの夢です。
自分の描いた大好きなおじいさんとパトラッシュの絵がきっとコンクールで入賞出来ると信じるネロと同じく、8才の私もテレビの前でネロの絵が入賞出来ると信じて応援していたのです。
けれども、現実はそうではありません。
いくら才能があろうとも、絵の具が買えなくて、色のついた絵をかくことが出来ないネロの絵では入賞することは出来なかったのです。さらに住む家さえも無くしたネロの身を案ずる大人達が少なくその対応の遅いこと。
正に世の中の現実を反映しています。
けれども、そんな大人達に対して、誰を恨む事なく最期にどうしても観たかったルーベンスの絵をみれたことに感謝して終わるラストシーン。
いまの世の中は、金や学歴が全ての価値基準となり、利益重視、法に触れさえしなければ何をしても構わない。禁煙場所で喫煙しているのを注意したり、電車内での他人への配慮がまるでない着信音の後での会話を注意すると逆に何が悪いとすごむ卑劣な奴ら。
いまこそ、誰もが子供の頃に持っていた人としての良心を思い出さなければいけない時が来ているのではないのでしょうか?
次に始まった母をたずねて三千里は、フランダースの犬のショックの後で、最初から始まった悲しい展開のため、あまり見ることが出来なくなったのを覚えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東映キネマ旬報最新号届く

2009-03-12 20:33:12 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
3月11日水曜日、東映キネマ旬報の最新号が届いた。
これは、東映ビデオ㈱発行、㈱キネマ旬報社編集の季刊誌で、会員登録すると購読料・送料は無料で年4回自宅へ届くのだ。
初回送付時には、東映ビデオの最新商品カタログもついてくる。
フリーダイヤルは、

0120-1081-46

次号より発行日が変わって3・6・9・12月となる。
さて、今回vol.10 となる2009年春号では、東映娯楽版の系譜特集。
時代劇の黄金時代を生み出した少年冒険活劇と題して佐藤忠男先生の文章が読める。
佐藤忠男先生とは、2004年の無声映画鑑賞会のカツキチ忘年会で初めてお目にかかり、その後、古石場文化センターの映画講座に参加したり、活動弁士の澤登翠姉さん(私は、故松田春翠先生の秘蔵っ子なので、澤登さんは姉弟子になる)の 35周年パーティの席上でもお会い出来ている。
佐藤先生の著書(独学でよかった・チクマ秀版社2007年発売)の中に、高垣眸の(豹の眼)について、 (豹の眼という冒険ものを読みたい読みたいと思いながら未だにその望みを果たしていないことが悔やまれる。)
との記述を見つけ、私の蔵書である国書刊行会から発行された復刻版をお貸ししたところ、喜んでいただけた。
佐藤忠男先生は、松田春翠先生とは、古くからの付き合いでその関係は、澤登さんの著書
(活動弁士世界を駆ける・2002年東京新聞出版局)の 序章 日本の映画と澤登翠 に詳しい文章が寄せられている。
昨年の春、彩流社から発売した(明治・大正・昭和の大衆文化)を佐藤先生の自宅へ送らせて貰ったのを昨年のカツキチ忘年会の席でも憶えておいていただけた。
さて、他にも永田哲朗氏の文章に藤竜也のインタビュー、三枝成彰など。
16ページの小冊子。
最後に、この東映キネマ旬報についての裏ワザを紹介しておこう。
登録の際に、バックナンバーを希望すると、在庫があれば送って貰えるかもしれない。
私は、この手を使って、NO.1より全て入手出来た。
2009最新カタログが入っているのもありがたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もん・りいぶるとは?

2009-03-12 19:03:57 | 「愛と誠」と「朝日の恋人」(チクマ秀版社)梶原一騎の世界
チクマ秀版社より20世紀を代表する不朽の名作漫画を復刊することを目標にかがげ、商業ベースとは関係なしに発行されたシリーズ。カラーページを初出と同じく再現するなど、原稿があるものは新たに原稿から版をおこすなど、時間と費用を贅沢にかけてクオリティーの高い綺麗な本作りを心がけるも、志なかばで版元倒産の浮き目にあう。
その豪華ラインナップを紹介しよう。
ハニーハニーのすてきな冒険 水野英子
朝日の恋人 上・下巻 原作 梶原一騎 作画 かざま鋭二
河童の三平 貸本版 上・下水木しげる
永島慎二の世界 永島慎二くたばれ!涙くん 1巻 石井いさみ
ゆうひが丘の総理大臣 1巻望月あきら
以上8冊のみでの中断となる。朝日の恋人は、TV化の際に太陽の恋人となり、夕陽の恋人までの三部作全て完結迄を原稿から復刻する予定だった。オリジナルとなる秋田書店の新書チャンピオンコミックス全4冊は、ページがカットされているだけでなく、完結もしていない。
くたばれ!涙くんは、秋田書店のサンデーコミックス全8巻には未収録のシーンも含めて全5巻で、ゆうひが丘の総理大臣は、カラーページが多すぎるので、ページ数や値段などを再検討しているところだった。他にも、いま、銭ゲバが話題となっているジョージ秋山の一連の少年物や、今村洋子のチャコちゃんの日記。森田拳次の丸出だめ夫やロボタンなども、各先生方と交渉中もしくは刊行が決定していたのである。
ちなみにタイトルとなったもん・りいぶるとは、フランス語で私の本という意味である。
監修者である私本間が学生時代所属していた書評誌のタイトルでもある。
当時は、夢幻沙綺朗の名で漫画に関する書評やエッセイなどを発表していた。
私が在籍していた頃は女性が多かった。作詞家であり、放送作家、そしてプロデューサーとしても知られる秋元康さんのところへインタビューに出かけた思い出がある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田トシ子先生と僕

2009-03-10 16:53:17 | 「フイチンさん」「お初ちゃん」「ぼんこちゃん」(コミックパーク)上田トシコ
自転車で立ち寄った本屋さんで(フイチンさん)を見つけた11才の少年の日からずっと憧れ続けていた上田先生。
あの日から数十年。
2001年春、3月にまだ無名の僕が先生のご自宅へインタビューの為、お訪ねしたら、第二応接室へ通され(いきつけの喫茶店のことを先生はそう呼んでいた)、心良く長時間にわたりお話を聞かせてくれた上田先生。
弥生美術館での展覧会、倉金章介・上田トシコ・今村洋子展開催の時、ギャラリートークの後、隣の喫茶店でお茶会が行われたときは、頌栄女学校時代の後輩の人達が
(在学中から上田さんは、下級生皆の憧れの先輩でした。)
と話してましたね。
先生のインタビューや、お借りした若い頃の写真を何枚も収録した(少年画報大全・少年画報社発売)がキッカケとなり、社団法人日本漫画家協会へ研究者として入会出来たことを、先生が文部科学大臣賞を受賞した協会のパーティーの席で報告した時、
(本当に良かったわね。) と笑顔で一緒に喜んでくれた上田先生。
(フイチンさん)のアニメが完成した時、渋谷のブルームホールでの完成試写会にまだ駆け出しの僕を一人前の研究者として認めて呼んでくれた上田先生。
お礼を兼ねた年賀状を送ると、いつも僕にまで丁寧な御返事を書いて下さる上田先生。
下北沢のトリウッドで、(フイチンさん)が上映された時、ファンが長い行列を作ってサインを頼んでも、全員へ笑顔でサインをしてあげていた優しい上田先生の姿が眼に焼き付いています。
2005年11月3日杉並アニメーションミュージアムで、まんがの日のイベントとして、(フイチンさん)の上映が行われた時、ゲストとして来て欲しいと鈴木伸一館長に相談され、そのことを伝えると心良く来ていただけた上田先生。
あの日が先生と御逢い出来た最後の日となりました。(幸運なことに僕は七回も先生に御逢いすることが出来ました。)
さようなら上田先生。さようなら。
いつもヒマワリのように明るくて、やさしくて、綺麗で、あたたかい上田先生だったから、僕は、こんなお別れの日がくるのは、まだほんのちょっぴり後の事だとばかり思っていたんだ。メイファーズ。
ツァイチェン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ私がブログを始めたのか!!

2009-03-09 18:51:35 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
今日、最も信頼出来る友人の一人であるフリーライター兼カメラマンの高畠正人氏に私がブログを始めたと伝えたところ、非常に驚いていた。

なぜなら、彼が私の経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスに取材にきた1999年からいまに到るまでパソコンはおろかメールすらもしなかった私である。

機械文明を批判するフリッツ・ラングの映画メトロポリスをこよなく愛し、寅さんに憧れる私である。

少年画報大全でメジャーデビューを果たした時、データの入力や文章の解説など全て高畠さんが私の原稿を入力したのである。

それ以降も、私の原稿は手書きであり、編集者がその原稿の文章を直すことは、一字一句たりとも許さなかった。

CDよりもレコードからカセットに録音して音楽を聞き、昨年壊れるまでビデオのみ見ていたのである。

カセットテープは、12年前買い置きしておいた物がまだ大量にあり、DVDとビデオがみれる機械を買って初めて自宅でDVDが見れるようになったのである。

自宅のテレビはもちろん地上波のみ。BSは、旅先の旅館やホテルで見るくらい。
以前、NHKのBSチャンネルのクイズ番組で、漫画のらくろ、の解説者として出演した時は、VTR収録後、公開録画の観客席を用意して貰い、観客席で自分の姿を見たのである。

そして、本放送をビデオにとって貰い送って貰った。
そんな私がなぜブログを始めたかというと、今度私の公式ホームページが作られることになり、文章を入力する練習をしてくれと頼まれたからである。

いま時の文筆業をする人でパソコンを使わないのは、70代以上の大御所の先生と本間さんくらいだと言われたことがある。

尊敬するちばてつや先生がブログをこまめに書いていることを聞き私も初めた次第である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少年画報とは?

2009-03-09 17:12:00 | 監修「少年画報大全」『冒険活劇文庫』と『少年画報』の時代
少年画報社より発行された月刊少年雑誌。前身は明々社より昭和23年8月に発売された冒険活劇文庫。昭和30年代を代表する少年雑誌として知られ、武内つなよしの赤胴鈴之助や河島光広のビリーパック、桑田次郎のまぼろし探偵といった人気作を多数輩出した。昭和34年新年号は80万部発行。99.8パーセントを売り切った。少年月刊雑誌としての最高発行部数の記録を持つ。昭和30年代前半が全盛期で、後半は手塚治虫の鉄腕アトムや横山光輝の鉄人28号、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを掲載するライバルの少年(光文社発行)にその王座を奪われる。巨人の星や、あしたのジョー、愛と誠で知られる劇画原作者梶原一騎はこの少年画報よりデビューした。昭和46年休刊。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が故郷庄内

2009-03-08 17:12:57 | NHK「ファミリーヒストリー」、東北庄内「たそがれ清兵衛」「おくりびと」
父の故郷庄内が最近何かと話題になることが多くなってきているようで非常に喜ばしい。たそがれ清兵衛に続き、今回のアカデミー賞受賞の映画おくりびとも我が故郷である庄内の鶴岡が舞台である。
従兄弟の長男が鶴岡で10代目となる旧家である父の実家は、庄内藩のサムライから明治維新以降地主となり、戦後のGHQによる農地改革の際農家となる。
藤沢周平の小品、龍をみた男の舞台となる善宝寺近くの父の実家の風景は、自然が今もそのまま残された、日本の美しい故郷の原風景である。
地主の息子でも8男であり、農地改革により残されたのは僅かばかりの土地となった故郷を離れ、我が一族の菩提寺となる善宝寺の本山である総持寺のある横浜鶴見を父は活動拠点としたのだが、私には子供の頃から京浜工業地帯の一角となるこの鶴見の地はどうしても好きになれなかった。
子供の頃、父と母そして姉の家族4人で訪れる鶴岡市郊外の自然に囲まれたあの風景がすきだった。
中学2年生となった頃より父は体調を崩しはじめ、私はいつのまにか太賀誠のような不良少年へと変わって行き、父の運転により家族揃って鶴岡にある父の実家へ行くことも出来なくなってしまった。
10歳の時に父親を亡くしてしまった私の父の親代わりとなり、父を育ててくれた伯父さんも今年90歳になる。私が17歳で父を癌で亡くしてからは私の父親代わりともなった。
そうだ、今年こそ鶴岡へ帰ろう。善宝寺の我が一族代々の墓には、父の遺骨も分骨されているし、子供の頃冬になると、両親が共働きのため鍵っ子であった私の面倒をみるために毎年上京してきてくれたお祖母さんの墓参りもしたい。
伯父さんや従兄弟にその長男。そしてまだあったことのない伯父さんにとって曾孫となる小さな子供達。
私にとっての庄内鶴岡は今もあの頃となんら変わることのない心の故郷でもあるのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田トシコ先生を偲ぶ会

2009-03-07 17:09:14 | 「フイチンさん」「お初ちゃん」「ぼんこちゃん」(コミックパーク)上田トシコ
昨日、池袋で少女漫画の不朽の名作、フイチンさんで知られ、昨年九十歳でお亡くなりになられた上田トシコ先生を偲ぶ会が関係者の間で開かれました。発起人代表は漫画家のちばてつや先生。漫画家発起人として、今村洋子先生、里中真智子先生、鈴木伸一先生、竹宮恵子先生、田村セツコ先生、牧美也子先生、水野英子先生、みつはしちかこ先生、森田拳次先生、わたなべまさこ先生。出版社は、講談社、集英社、婦人之友社。他に団体として、松本かつぢ資料館、杉並アニメーションミュージアム、手塚プロダクション、日本漫画家協会、弥生美術館、個人として、丸山昭さん他五名などと共に私、本間正幸の名前も末席にまぜて貰いました。事務局として、フイチンさんのアニメを製作したエクラアニマルが実務を担当し六十名前後の参加者での盛会でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする