京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

法然院

2009-11-07 00:37:33 | まち歩き

山号、善気山。正式名称、善気山法然院萬無教寺。浄土宗の単立寺院である。1953年、浄土宗から独立した。

ここ鹿ケ谷は、法然上人が、安楽・住蓮と共に念仏し、六時礼讃を唱えた地。1206年、弟子たちは、院の女房、松虫・鈴虫を後鳥羽上皇の留守中に無断で出家させた。上皇は彼らを死罪に、上人を流罪とし、草庵は荒廃する。1680年、知恩院第38世萬無和尚、弟子の忍澂和尚が、この地に念仏道場を建立したのが、法然院の始まりである。

法然院という名を気に留めずに山門をくぐると、ここは禅宗かと思う。山門すぐには白砂壇、堂宇には華頭窓。山門が、少し高くなっていて外から内を、内から外を簡単に見通せない、という造りも、禅宗様式なのだそうだ。そこが、一種の結界。聖と俗を分ける場所だ。

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1681年に建てられた本堂もまた、禅宗様式を採り入れている。アーチ型の蛇腹天井が、そうだ。さきの忍澂和尚が黄檗山の僧と懇意であった上、江戸時代、禅宗様式が流行していたためらしい。そういえば、知恩院三門にも華頭窓があった。

本尊は阿弥陀如来。須弥壇には25菩薩を象徴する白菊25個を散華している。春は椿、夏は紫陽花、秋は菊、冬は冬椿など、季節によって花は変わるとのこと。本堂をぐるりと周った中庭に、紫陽花があった。また本堂入り口を入った所に「椿の庭」もある。菊は見当たらなかったが、毎朝花頭を摘んで散華することは、阿弥陀如来と人とをつなぐ静かな時間であろうと想像する。本堂内部の様子を、看板で。

09_001 ここには、何の紋も存在しない。須弥壇にも、厨子の扉にも。

お庭の燈籠や、水盤にも、紋は入っていなかった。ただ、軒丸瓦や飾り瓦に右三つ巴、右一つ巴、降り一つ巴、徳川葵があるのみ。

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本堂の新しい軒丸瓦には法輪、本堂正面の飾り瓦には、抱き杏葉。これでやっと外見から浄土宗ということが明らかになる。

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方丈は、伏見にあった後西天皇皇女の御殿を移したもので、襖絵が印象的だ。堂本印象が「恒世印象」と記した絵。この号は、気に入った絵にしかつけないらしい。黒に金に柔らかなコーラルピンクの抽象画。勢いがあって、伸びやかで、生命力に溢れていた。狩野光信の襖絵は、床の間や違い棚の壁にまで絵が続く。外して保管可能な襖はいくらか状態が良いが、壁に描かれた桐は、葉が白く退色し、無残だった。あとで見た立林何帛の『四季草花図』も、ひどく退色しているのだと聞いた。墨絵にしか見えない状態。しかし、すっきりとしたきれいな絵なので、墨絵でも大丈夫とは感じた。屏風が4帖並べられたその部屋から、外を撮影。

09_015 哲学の道から少しだけ坂道を上がった所にある法然院だが、この見晴らしの良さ。白川通辺りから、緩やかに東が高くなっているのだ。

前に見える緑は、吉田山だろうか。

あとで上がった望西閣は、二階なのに窓の外が大木に遮られ、とても西を望めるものではなかった。ただ、ここにも堂本印象作の襖絵があり、見応えがあった。

方丈庭園では、心字池にかかる中橋が、此岸と彼岸を分けるのだと聞いた。

09_011 彼岸にある石が阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表す。また、その奥に見える石灯籠は、この寺で最も古い年代(1528年)を刻んだものらしい。

この左手にある階段を上がると鳥居と祠がある。法然院の鬼門に位置するこの場所に祀られているのは、仏法を守護する吉祥天・摩利支天・弁財天。

今日の解説は、関学の学生さん。京都の大学だけが担当しているのだと思っていたら、兵庫で唯一、関学も参加しているのだという。

本堂から出て、境内を歩く。それほど広くはない。

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あと二週間ほど経てば、紅葉も始まるだろう。この茅葺きの山門に紅葉はよく似合う。

法然院参道への入り口は、北と南にある。北の入り口には「志ゝが谷法然院」、南の入り口には「圓光大師御舊蹟」の石碑がある。以前から、圓光大師?と思っていたが、やっとわかった。1697年、東山天皇から法然上人に贈られた諡号だ。1711年以降、50年毎に天皇から贈られる慣わしとか。なぜそんな面倒なことを・・・。

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最後に、ここで頂いたリーフレットの写真は、とにかく美しい。そのまま写真集にしてほしい。今回、特別公開のあちこちで頂いたリーフレットには、水野克比古氏の写真が多く使用されていたが、ここのが一番。

コメント
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