京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

知恩院

2009-11-06 00:37:13 | まち歩き

今回の非公開文化財特別拝観は、浄土宗のお寺に焦点を絞っているのに、知恩院を外すわけにはいかない。

浄土宗総本山、山号・華頂山、四条天皇より下賜された寺号・華頂山知恩教院大谷寺、開基・法然上人。1175年比叡山を下りて後、草庵を結んで専修念仏を布教した場所である。法然は1212年入滅したため、門弟らがここに廟堂を築いた。1227年延暦寺宗徒により破壊されるが、1234年源智が再興し、四条天皇より寺号を下賜された。1431年の火災、応仁の乱などで焼失するも、復興され、徳川家の庇護によって寺地は拡大されて今に至る。

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円山公園のすぐ北、東山連峰麓に位置する粟田口の将軍塚がある山の麓に、この寺はある。日本最大の木造建築二重門である三門(三解脱門)までの、この石段(写真左)そして御影堂に続く男坂の石段(写真右)。この寺は傾斜を利用して伽藍が配置されているため、とにかく石段が多い。

非公開文化財特別拝観は、この三門楼上である。金戒光明寺の山門と比べて、二階部分の外周廊下の床板の状態は良い。それほど痛んではいない。それに楼上内部は広い。安置されているのは、釈迦牟尼仏像と16羅漢像。天井には龍、天女、迦陵頻伽(上半身天女・下半身鳥)、楽器など。虹梁には麒麟と雲、飛龍と波など。壁の頭貫にはマカラ(上半身獅子か象・下半身魚・前足獅子か猫。インド神話の水の神。鯱のモデルとなったとも言われる)。出口脇の壁には、墨文字の落書きが見える。明治時代は自由に楼上に上がることができたため、廃仏毀釈後に落書きが増えたらしい。わざわざ、墨と筆を持ってあの急な階段を上がり、落書きしたのか・・・。

09_003 三門楼上の様子がわかる看板を撮った。

迦陵頻伽と楽器を見て思い出した。数年前に来たことがある。あのときはこんなに暗くなかった。昨年秋の公開までは、開け放して明るくしていたらしいが、直射日光で痛むから、と、扉は閉め、出入り口には黒い幕をつけて、いくつかの置き照明と解説の懐中電灯の明かりのみ。天井絵はそれでもなんとか。が、16羅漢など、私には殆ど見えなかった。

三門をくぐってすぐ右手に、友禅苑がある。枯山水の庭と東山の湧水を利用した庭で構成されている。立派なサツキの刈り込みや、形良く剪定された松、落ち着いた石の配置など、気持ちのいいお庭である。

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東山は借景として取り入れられ、庭園から三門に目を向けると、それもまた良い眺め。

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さて、石段を上がって御影堂へ。法然上人の御影を祀る、ここが本堂。1639年、徳川家光によって建てられたもので、国宝だ。とにかく広い、荘重な建物だった。御影堂前には、徳川葵と宗門の抱き杏葉。徳川葵は、幕や飾り瓦や燈籠など、あちこちに入っている。やはり、寺域を拡大・整備し、今ある殆どの伽藍を建造し、代々帰依した・・・となると。通常、徳川葵を使用することは禁じられていたはずだが、ここは特別だったのだろう。抱き杏葉は、丸というよりも月に見える。家紋サイトでは、丸に抱き杏葉しか掲載されていないのだが。

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次は、阿弥陀堂。こちらには阿弥陀如来が安置されている。

09_029 そうして、御廟への石段を登る。

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この石段を、さらに左に上がると、法然上人終焉の地である大谷禅坊の旧跡で、知恩院の建物で最古(1530年)の勢至堂がある。法然の幼名・勢至丸から、法然は勢至菩薩の生まれ変わり=勢至菩薩は法然の本地仏=本尊として祀っている。右の写真は勢至堂境内から東にある御廟・拝殿を見上げたもの。ここは知恩院の中でも最も高度が高く、法然が草庵を結んだ地であると同時に、御廟から寺全体を見下ろして、また京都を見下ろして、守っているような、そんな場所である。09_013

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勢至堂内に置かれていた大きな三方には葵紋、小さな三方には抱き杏葉紋が。拝殿の賽銭箱には、「月に抱き杏葉」と見える紋が。

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大方丈の庭園を拝観する。こちらの飾り瓦の紋は、三つ巴。ただ、庭園入り口の石灯籠には菊紋と五三桐紋があった。そういえば、江戸時代に宮門跡が入ったと知恩院HPに掲載されていた。

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小方丈のお庭は、この寺の国宝『阿弥陀二十五菩薩来迎図』を石組みであらわしているとのこと。また、小方丈の裏口というか、権現堂に入る門の飾り瓦は、しっかり徳川葵だった。09_025 

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コメント
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