日曜日、南区西九条の福田寺に墓参。非公開文化財特別公開の最終日でもあったので、すぐ傍の東寺へ行った。
大宮通の慶賀門北側の入り口から駐車場へ。写真右は、門の前にあった石灯籠。東寺の寺紋、八雲東寺紋が見える。
東寺では、春(3/20~5/25)と秋(9/20~11/25)に特別公開がある。この期間は金堂・講堂、宝物館、観智院が公開され、期間中、非公開文化財特別公開の一週間には、五重塔初層も公開される。その他の時期(1/1~5以外)にも金堂・講堂のみ公開されるので、拝観料は、期間によって個別設定されている。せっかくなので全部見ようと、共通券を購入。
さて、京都のシンボルたる五重塔がある東寺。何度か行ったこともあるし、よく知っているようなつもりでいた。が、その歴史には紆余曲折が。
通称東寺、別称(旧別称?)左大寺。山号は八幡山、東寺真言宗の総本山。正式名称は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院、別称は弥勒八幡山総持普賢院。宗教法人としての名称は、教王護国寺。開基は桓武天皇。この地には、国分寺があったらしいが、そこに796年、左京を護る王城鎮護の寺として、また東国を護る国家鎮護の寺として、東寺が建立された。813年には嵯峨天皇が東寺を空海へ下賜、東寺は官寺から日本で初めての密教寺院へとその性格を変えた。だから、金堂(本堂)の本尊は薬師如来で、空海による伽藍の整備で建てられた講堂(825~835年頃)の主尊は大日如来なのだろう。写真左は重文の講堂(1491年再建)、右は国宝の金堂(1603年再建)。
真言宗には18本山18宗派あり、弘法大師直系の「古義真言宗」と、覚鎫(かくばん)上人【1095~1143年】の教えを奉じる「新義真言宗」、また「真言律宗」に分かれる。東寺は、1901年山階派・小野派・泉涌寺派と連合し、1907年に「真言宗東寺派」を結成、太平洋戦争中は全宗派で「大真言宗」に統合、1946年には旧称「真言宗東寺派」に戻し、1952年宗教法人となった。1963年「東寺真言宗」として「真言宗東寺派」から分派独立、1974年認証された。どの宗教でも、派閥がある。教義や寺格を巡り、あるいは継承者を巡り、分かれていくのは止むを得ない。そこには利益も絡むのだから。ところで、東寺HP(http://www.toji.or.jp/)には、「東寺真言宗」という文言は、見られない。HPと同様、拝観料と引き換えにもらったパンフレットやフライヤーにも、「真言宗総本山東寺」と書かれているのみである。どれほど分派していようと、東寺としては空海の最初の寺、という誇りがあるのだろう。
さて、最初に拝観したのは宝物館。今回の展示には、「東寺曼荼羅の美」というタイトルがついていた。個人的には、常設の千手観音菩薩、兜跋毘沙門天立像、階段脇に展示されていた明の如来座像が良かった。火災で焼損したため食堂(じきどう)から移された千手観音、羅生門楼上に安置されていたという兜跋毘沙門天、見たことのないようなお顔立ちをした3軀の如来座像。興味深い彫刻が多かった一方、絵画としての曼荼羅は、知識が乏しすぎて分からず終い。
次は、国宝・大師堂(御影堂)。ここには空海の住房「西院」があり、不動明王像が安置され、不動堂とも呼ばれた。現在は、その不動明王像(国宝・秘仏)と、弘法大師坐像(国宝)が安置され、弘法信仰の中心となっている。1380年再建、1390年増築。大師像は、毎朝6時の生身供など、大師堂での法要の際と、毎月21日の御影供の終日、ご開帳される。21日は、弘法大師空海の月命日(入定は旧暦3月21日)。大師信仰の高まりと共に増加した御影供への参拝客を目当てに茶屋を始めたのが、弘法市の始まりである。今では、弘法市(毎月21日8時~16時頃)に行くついでに、東寺を拝観する人の方が多いだろう。写真左は、御影堂前の提灯にある八雲東寺紋。
次は講堂。それほど人が多くはないのに、中はひどく埃っぽく、息が苦しかった。安置されている仏像も、埃で汚れてしまう。どのくらいの頻度でお身拭いをしているのだろうかと心配になるほどだ。ここでは、国宝・帝釈天像が一番良かった。
講堂は、空海が密教の教えを立体曼荼羅(羯摩曼荼羅)として表現したものだ。大日如来はじめ五智如来を中央に、向かって右には五菩薩(仏の教えを実践する者)、向かって左には五大明王(大日如来の化身)、その右には多聞天・梵天・持国天、左には広目天・帝釈天・軍荼利。密教は、バラモン教に影響を受けたものであり、これらの仏は、殆どインド神話からきている。大日如来はマハー・ヴァイローチャナ、金剛夜叉は、ヴァジュラヤクシャ、降三世明王は、シュンバ・ニシュンバ兄弟、多聞天はヴァイシュラヴァナ、梵天はブラフマン、持国天はドリタラーシュトラ、広目天はヴィルーパークシャ、帝釈天はインドラ、増長天はヴィルーダカ。そういえば三十三間堂には、それぞれの仏像の前に、日本語と英語でこのような説明書きがあった。インド出身の友人を連れて行ったとき、神々の名を全部知っていると言っていた。そしてまた、インドの神が仏教に影響を与えていたことを知らなかったとも。インドでは、仏教は衰退したからだ。
次は金堂。薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)と、薬師如来の台座を支える12神将が安置されている。重文・12神将、これは近くで見てみたい。
そして五重塔。1644年再建、5代目であり、現存する木造建築物として日本一の高さ(55m)なのだそうだ。入り口と内部に学生さんがいたが、他の非公開文化財特別公開の場所と違って、解説はなかった。
ここでは、大日如来に見立てた心柱を中心に四方に置かれた如来や、柱に描かれた曼荼羅、側柱に描かれた八大龍王、壁に描かれた真言八祖像を見ながら、ぐるりと歩くだけだ。
「立ち止まらないでください」と声を掛けられるので、じっくり見ることはできない。
ひと回りして出口に着いたら、太陽光に照らされて、南側の彩色がまだ美しく残っているのが見えた。
北大門を出てすぐ右側、洛南高校向かいに観智院がある。ここは東寺の勧学院(徳川家康制定)であり、密教聖教所蔵数、国内最多という。
写真右からも分かる通り、内側の幕は、東寺と同じ八雲東寺紋。東寺講堂の主尊・大日如来 は宇宙そのものであり、その光明が遍く照らすところから「遍照(大日)」という。雲があれば、邪魔にも思えるが。太陽、雲と、空つながりだろうか。ならば太陽を象った紋でも良さそうなものだ。
雲の文様は、BC6200年頃トルコ古代都市に見られ、BC 3000年頃にはエジプトのヒエログリフに使用されたという。またAD25~220年では、後漢で天上人の乗り物として、積雲の模様が流行したようだ。それが、仏教文化と共に日本に輸入されたらしい。だから、普通の家の家紋には用いられず、寺紋で使われることが多いそうだ。また、雲は「巡る」意から、輪廻転生思想の仏教に似つかわしい模様であった。(以上雲紋について参考HP『雲のできるまで』:http://stellar.lowtem.hokudai.ac.jp/research/papers/06summer.pdf)
観智院の見どころは、枯山水の五大の庭、宮本武蔵筆の鷲図・竹林の図、五大虚空像菩薩像(空海が修行した唐・青龍寺本尊を恵運が請来したもの)、愛染明王像、書院の襖絵、茶室・楓泉観などである。思いがけず部屋数が多く、広い茶室から見える落ち着いたお庭、浜田泰介による襖絵「四季の図」が良かった。
密教を少し調べてみたら、仏教がいよいよわからなくなってきた・・・・・・。