京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

正伝寺

2009-11-26 23:59:58 | まち歩き

山号・吉祥山、正式名称・正伝護国禅寺。1268年、東巌慧安禅師により開かれた、臨済宗南禅寺派の寺。昨日行った光悦寺のすぐ北の、西賀茂・毘沙門山の中腹にある。元は一条今出川にあったのを、1282年、加茂の祠官森経久が西賀茂の荘園を寄付して、ここに伽藍を造営した。室町時代は皇室の信仰篤かったというが、応仁の乱で衰退、秀吉・家康らの庇護により、江戸時代には塔頭は五寺あったのだという。

山門をくぐると、巨木に圧倒される。

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09_004_2 少し歩くと、再び門が。そこからさらに坂を登る。

本堂に続く坂の脇に植えられた杉の大木は、圧巻。

これは、方丈から庭を眺めた時にも見えるのだ。

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拝観は、重文・方丈の外廊下から、方丈内部を見、獅子の児渡し庭園を眺めるのみ。方丈は、伏見桃山城の御成殿を移築したもので、淡彩山水画の襖絵がある。方丈中央のご本尊を安置する間には、圓光寺で見たのと同じような紫の幕が2本。「大本山南禅寺」とあった。入り口近くの間は、10畳の普通の畳敷きで、襖絵の入った襖の向こうには、奥行き一間ほどの部屋が続き、違い棚が見えた。奥には茶室でもありそうな、侘びさびを感じる静かな空間。

お庭は、禅寺らしく筋目の入った白砂敷平庭。ただ、この庭は、龍安寺に代表される石の代わりに、さつきの刈り込みを七五三に配している。龍安寺は柿葺油土塀で、なお一層さびを感じさせるが、ここは白い土塀に瓦葺き。地から天へ目をやれば、白砂のグレー、さつきの緑、塀の白・グレー、借景の緑、遠くにかすむ比叡山・・・と、無彩色と緑の層を成す。

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写真左は外廊下で座って撮影、写真右は、外廊下奥で立って撮影したもの。ともに、方丈中央やや左寄りから、庭を眺めたものである。比叡山が真正面。右手の緑は山の稜線、左手の緑は参道脇の杉である。両方から比叡山に向かって斜めに下りる線。この遠近法は、いずれ何年も先に、比叡山の頂上が消失点になるのだろうか。

上の写真から見えるだろうか。塀の外、左寄りに鐘楼、中央にみかんの木がある。比叡山と、周りの山の緑を借景にするなら、この木は伸びすぎだ。禅寺の庭は造りこんだ庭なのだから、作庭家(小堀遠州)の意図したように整えて欲しい。作庭家の意図・・・書き残したものがないなら、管理する人が想像するしかないのか。

鐘楼の瓦には丸に正の文字が入っていた。本堂や山門、鐘楼の軒丸瓦などは、三つ巴。

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駐車場の方から帰ったら、看板を見つけた。

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カート?プレーヤー?と、目の前を3~4人の男性とゴルフバッグを積んだカートが通り過ぎる。境内を横切るこの通路は、ゴルフ場のものらしい。写真上・右の中央辺り、通路奥は、ごく短いトンネルで、この上が参道なのだ。参道下を横切るとはいえ、山門の中にゴルフ場通路があるとは。地図で確認したら、正伝寺を囲むようにゴルフコースがあり、この通路はクラブハウスから17番ホールや5番ホールに行くために使われているようだ。 京都ゴルフ倶楽部舟山コース。近郊のゴルフ場を地図でさらっと見てみると、上賀茂神社に隣接して京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース、万福寺(宇治市)傍には宇治カントリークラブ。

せっかく西賀茂まで足を伸ばしたので、おつかいものとして有名なパティスリー菓欒の西賀茂チーズを買いに行った。菓欒は、船岡東通、神光院前交差点の東南角にある。

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おつかいものに焼き菓子詰め合わせを、自宅用に西賀茂チーズなどプチケーキを。口に入れると、ふわりと崩れ、こくのある風味が広がる。チョコスフレも、好きな味。買って良かった。

この次、正伝寺は、さつきの季節、雨上がりに行こう。比叡山がきれいに見えるときに、さつきの濃ピンクで華やかに彩られたお庭を見に行こう。そうしたら、印象が変わるかもしれない。

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光悦寺

2009-11-26 00:53:17 | まち歩き

数年前の美しい紅葉を思い出し、光悦寺へ。山号は大虚山、開山は日慈上人、日蓮宗の寺である。本阿弥光悦の旧跡・本阿弥家先祖供養の位牌堂であり、光悦の没後、寺となった。

本阿弥光悦は、江戸の文化人。寺の収蔵館(11月末まで開館)にある品からも分かる通り、書、蒔絵、陶芸に優れ、作庭もこなすなど、多才な人であった。本阿弥家の家業は、刀剣鑑定・磨砺・浄拭で、京の三長者(後藤・茶屋・角倉)に並ぶ富豪であり、京の町衆の7割が法華信徒と言われた当時にあって、本法寺の熱心な大壇越であった。

光悦が家康からこの地を拝領したいきさつは孫・光甫の記した『本阿弥行状記』にあり、その文章と背景の解釈の違いで、家康の真意について、いくつかの説がある。①洛外で物騒な鷹峰だが、光悦なら何とかするだろうと考えた ②古田織部が夏の陣で豊臣方に通謀したと疑い、切腹させる。織部は光悦の茶道の師であったため、光悦を都から追いやった ③光悦が後水尾天皇の庇護を受けていたため、朝廷とのつながりが強くなるのを嫌って、光悦を都から遠ざけた ④何らかの功績に対して恩賞を与えた ⑤法華宗の内部対立で、戦闘的な一派の勢いが強くなり、それを嫌って都から遠ざけた

資料を読み込んだわけではないので軽々しく言うべきでないが、個人的な印象としては、夏の陣勝利の後で二条城に寄った家康の下に、馳せ参じなかった光悦への不満、という感じだ。家康自身は浄土宗だったし、法華宗徒の財力や社会改革へのエネルギーを脅威と感じていたかもしれない。しかし、さきの『行状記』の著述を読む限り、「来なかったからお仕置き」という軽さも感じる。『行状記』は後代に書かれたものだから、その表現が正確とは言えないのだろうが。その上、私は原本を読んでいないのだ。(参考HP:「日蓮宗現代宗教研究所」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_110.htm

光悦が、職人を従えてこの地に居を構えて以降、法華宗徒の文人の転宅、同じく町衆が別宅を構えたりと、工芸集落として、また法華宗徒の集落として発展した。創作のみでなく、この地に建立した4つの日蓮宗寺院では、念仏三昧だったという。

さて、今日のコースは、西大路通の金閣寺前から、そのまま北へ。簡単な地図を手に、左大文字をすぐ傍に見ながら。途中、山道に入ったが、やがて地図にあるピンカーブに辿り着いた。21%の急勾配。上るのに一苦労。ここを下るのは危ない。ほとんど登り切った所で、振り返って一枚。この道でなく、東側のバス通りを歩くべき。

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この短い辛い坂を登り切ると、光悦寺はすぐ。紅葉は・・・先週来れば、ちょうどよかっただろうと思われた。

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山門と本堂の飾り瓦には梅紋。軒丸瓦は三つ巴。

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やつで(写真下・左)と、山茶花(写真下・右)。

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境内には大正時代に建てられた七つの茶室が点在するが、内部非公開。山号にもある「大虚」庵(写真下・左)、了寂軒(写真下・右)など。大きな弱さ、空しさ?「太虚」なら大空だが。でも、その寂しさも了るのなら、まあ良いのだろう。

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紅葉(写真下・左)に増して、 ドウダンツツジ(写真下・右)がきれいな赤だった。

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山を撮影するには逆光。あの坂を登っただけのことはあって、見晴らし良く、山が近くに見える。ただ、木々が育ちすぎて、市内を見下ろすことのできる場所は、一ヶ所のみ。

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著名な光悦垣は、 そのだんだんと低くなる姿から、「臥牛垣」とも言うらしい。

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収蔵館の本阿弥光悦翁木像は、高村光雲作とあった。扉に螺鈿の飾りがある厨子に入った、小さな木像。何とも味のある、いい姿だった。

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