数年前の美しい紅葉を思い出し、光悦寺へ。山号は大虚山、開山は日慈上人、日蓮宗の寺である。本阿弥光悦の旧跡・本阿弥家先祖供養の位牌堂であり、光悦の没後、寺となった。
本阿弥光悦は、江戸の文化人。寺の収蔵館(11月末まで開館)にある品からも分かる通り、書、蒔絵、陶芸に優れ、作庭もこなすなど、多才な人であった。本阿弥家の家業は、刀剣鑑定・磨砺・浄拭で、京の三長者(後藤・茶屋・角倉)に並ぶ富豪であり、京の町衆の7割が法華信徒と言われた当時にあって、本法寺の熱心な大壇越であった。
光悦が家康からこの地を拝領したいきさつは孫・光甫の記した『本阿弥行状記』にあり、その文章と背景の解釈の違いで、家康の真意について、いくつかの説がある。①洛外で物騒な鷹峰だが、光悦なら何とかするだろうと考えた ②古田織部が夏の陣で豊臣方に通謀したと疑い、切腹させる。織部は光悦の茶道の師であったため、光悦を都から追いやった ③光悦が後水尾天皇の庇護を受けていたため、朝廷とのつながりが強くなるのを嫌って、光悦を都から遠ざけた ④何らかの功績に対して恩賞を与えた ⑤法華宗の内部対立で、戦闘的な一派の勢いが強くなり、それを嫌って都から遠ざけた
資料を読み込んだわけではないので軽々しく言うべきでないが、個人的な印象としては、夏の陣勝利の後で二条城に寄った家康の下に、馳せ参じなかった光悦への不満、という感じだ。家康自身は浄土宗だったし、法華宗徒の財力や社会改革へのエネルギーを脅威と感じていたかもしれない。しかし、さきの『行状記』の著述を読む限り、「来なかったからお仕置き」という軽さも感じる。『行状記』は後代に書かれたものだから、その表現が正確とは言えないのだろうが。その上、私は原本を読んでいないのだ。(参考HP:「日蓮宗現代宗教研究所」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_110.htm)
光悦が、職人を従えてこの地に居を構えて以降、法華宗徒の文人の転宅、同じく町衆が別宅を構えたりと、工芸集落として、また法華宗徒の集落として発展した。創作のみでなく、この地に建立した4つの日蓮宗寺院では、念仏三昧だったという。
さて、今日のコースは、西大路通の金閣寺前から、そのまま北へ。簡単な地図を手に、左大文字をすぐ傍に見ながら。途中、山道に入ったが、やがて地図にあるピンカーブに辿り着いた。21%の急勾配。上るのに一苦労。ここを下るのは危ない。ほとんど登り切った所で、振り返って一枚。この道でなく、東側のバス通りを歩くべき。
この短い辛い坂を登り切ると、光悦寺はすぐ。紅葉は・・・先週来れば、ちょうどよかっただろうと思われた。
山門と本堂の飾り瓦には梅紋。軒丸瓦は三つ巴。
やつで(写真下・左)と、山茶花(写真下・右)。
境内には大正時代に建てられた七つの茶室が点在するが、内部非公開。山号にもある「大虚」庵(写真下・左)、了寂軒(写真下・右)など。大きな弱さ、空しさ?「太虚」なら大空だが。でも、その寂しさも了るのなら、まあ良いのだろう。
紅葉(写真下・左)に増して、 ドウダンツツジ(写真下・右)がきれいな赤だった。
山を撮影するには逆光。あの坂を登っただけのことはあって、見晴らし良く、山が近くに見える。ただ、木々が育ちすぎて、市内を見下ろすことのできる場所は、一ヶ所のみ。
著名な光悦垣は、 そのだんだんと低くなる姿から、「臥牛垣」とも言うらしい。
収蔵館の本阿弥光悦翁木像は、高村光雲作とあった。扉に螺鈿の飾りがある厨子に入った、小さな木像。何とも味のある、いい姿だった。
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