京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

圓光寺

2009-11-12 23:29:40 | まち歩き

そろそろ紅葉が始まっているかと、圓光寺へ。

山号・瑞厳山、開山・三要元佶(閑室)、開基・徳川家康。臨済宗南禅寺派のお寺である。

通常、開山=開基であるが、禅宗では両者を区別し、初代住職を「開山」、財政支援した世俗の者を「開基」と呼ぶらしい。

門には「大本山南禅寺研修道場」の看板。この寺は、家康が1601年伏見に開いた圓光寺学校が元になっている。開山の元佶禅師は、駿府圓光寺の開山だったため、この名がついたのか?学校では書籍を刊行し、その版木活字が、入り口右手の宝物館に収蔵・展示されている。円山応挙作の重文「竹林図屏風」もあった。生命力ある竹は、節の太いしっかりした絵を多く見かけるが、これはまだ細い竹の群生だった。庭の奥に竹林を見つけた。円山応挙も、これを見たのだろうか。

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お庭(十牛の庭)は紅葉が始まり、色彩のグラデーションが愉しめた。

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写真右の中央になんとなく見えている池は、洛北最古と言われる栖龍池である。龍の栖む池?それほど大きくはなかった。この寺は東山の中腹にあり、かつては寂しい人里離れた土地だったのだろう。秘境を彷彿させる名は、そんなところからついたのではないか。帰りの階段では、市内を一望できる高さに驚いた。非日常が、こんなに身近にある。

坐禅堂では坐禅会、鐘楼では除夜の鐘撞きがあるという。観光客の多い詩仙堂から約3分、訪れる人の少ない庭で水琴窟の音に耳を澄ます静かな時間もあっていい。

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東寺・観智院

2009-11-11 00:29:52 | まち歩き

日曜日、南区西九条の福田寺に墓参。非公開文化財特別公開の最終日でもあったので、すぐ傍の東寺へ行った。

大宮通の慶賀門北側の入り口から駐車場へ。写真右は、門の前にあった石灯籠。東寺の寺紋、八雲東寺紋が見える。

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東寺では、春(3/20~5/25)と秋(9/20~11/25)に特別公開がある。この期間は金堂・講堂、宝物館、観智院が公開され、期間中、非公開文化財特別公開の一週間には、五重塔初層も公開される。その他の時期(1/1~5以外)にも金堂・講堂のみ公開されるので、拝観料は、期間によって個別設定されている。せっかくなので全部見ようと、共通券を購入。

さて、京都のシンボルたる五重塔がある東寺。何度か行ったこともあるし、よく知っているようなつもりでいた。が、その歴史には紆余曲折が。

通称東寺、別称(旧別称?)左大寺。山号は八幡山、東寺真言宗の総本山。正式名称は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院、別称は弥勒八幡山総持普賢院。宗教法人としての名称は、教王護国寺。開基は桓武天皇。この地には、国分寺があったらしいが、そこに796年、左京を護る王城鎮護の寺として、また東国を護る国家鎮護の寺として、東寺が建立された。813年には嵯峨天皇が東寺を空海へ下賜、東寺は官寺から日本で初めての密教寺院へとその性格を変えた。だから、金堂(本堂)の本尊は薬師如来で、空海による伽藍の整備で建てられた講堂(825~835年頃)の主尊は大日如来なのだろう。写真左は重文の講堂(1491年再建)、右は国宝の金堂(1603年再建)。

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真言宗には18本山18宗派あり、弘法大師直系の「古義真言宗」と、覚鎫(かくばん)上人【1095~1143年】の教えを奉じる「新義真言宗」、また「真言律宗」に分かれる。東寺は、1901年山階派・小野派・泉涌寺派と連合し、1907年に「真言宗東寺派」を結成、太平洋戦争中は全宗派で「大真言宗」に統合、1946年には旧称「真言宗東寺派」に戻し、1952年宗教法人となった。1963年「東寺真言宗」として「真言宗東寺派」から分派独立、1974年認証された。どの宗教でも、派閥がある。教義や寺格を巡り、あるいは継承者を巡り、分かれていくのは止むを得ない。そこには利益も絡むのだから。ところで、東寺HP(http://www.toji.or.jp/)には、「東寺真言宗」という文言は、見られない。HPと同様、拝観料と引き換えにもらったパンフレットやフライヤーにも、「真言宗総本山東寺」と書かれているのみである。どれほど分派していようと、東寺としては空海の最初の寺、という誇りがあるのだろう。

さて、最初に拝観したのは宝物館。今回の展示には、「東寺曼荼羅の美」というタイトルがついていた。個人的には、常設の千手観音菩薩、兜跋毘沙門天立像、階段脇に展示されていた明の如来座像が良かった。火災で焼損したため食堂(じきどう)から移された千手観音、羅生門楼上に安置されていたという兜跋毘沙門天、見たことのないようなお顔立ちをした3軀の如来座像。興味深い彫刻が多かった一方、絵画としての曼荼羅は、知識が乏しすぎて分からず終い。

次は、国宝・大師堂(御影堂)。ここには空海の住房「西院」があり、不動明王像が安置され、不動堂とも呼ばれた。現在は、その不動明王像(国宝・秘仏)と、弘法大師坐像(国宝)が安置され、弘法信仰の中心となっている。1380年再建、1390年増築。大師像は、毎朝6時の生身供など、大師堂での法要の際と、毎月21日の御影供の終日、ご開帳される。21日は、弘法大師空海の月命日(入定は旧暦3月21日)。大師信仰の高まりと共に増加した御影供への参拝客を目当てに茶屋を始めたのが、弘法市の始まりである。今では、弘法市(毎月21日8時~16時頃)に行くついでに、東寺を拝観する人の方が多いだろう。写真左は、御影堂前の提灯にある八雲東寺紋。09_003

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次は講堂。それほど人が多くはないのに、中はひどく埃っぽく、息が苦しかった。安置されている仏像も、埃で汚れてしまう。どのくらいの頻度でお身拭いをしているのだろうかと心配になるほどだ。ここでは、国宝・帝釈天像が一番良かった。

講堂は、空海が密教の教えを立体曼荼羅(羯摩曼荼羅)として表現したものだ。大日如来はじめ五智如来を中央に、向かって右には五菩薩(仏の教えを実践する者)、向かって左には五大明王(大日如来の化身)、その右には多聞天・梵天・持国天、左には広目天・帝釈天・軍荼利。密教は、バラモン教に影響を受けたものであり、これらの仏は、殆どインド神話からきている。大日如来はマハー・ヴァイローチャナ、金剛夜叉は、ヴァジュラヤクシャ、降三世明王は、シュンバ・ニシュンバ兄弟、多聞天はヴァイシュラヴァナ、梵天はブラフマン、持国天はドリタラーシュトラ、広目天はヴィルーパークシャ、帝釈天はインドラ、増長天はヴィルーダカ。そういえば三十三間堂には、それぞれの仏像の前に、日本語と英語でこのような説明書きがあった。インド出身の友人を連れて行ったとき、神々の名を全部知っていると言っていた。そしてまた、インドの神が仏教に影響を与えていたことを知らなかったとも。インドでは、仏教は衰退したからだ。

次は金堂。薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)と、薬師如来の台座を支える12神将が安置されている。重文・12神将、これは近くで見てみたい。

そして五重塔。1644年再建、5代目であり、現存する木造建築物として日本一の高さ(55m)なのだそうだ。入り口と内部に学生さんがいたが、他の非公開文化財特別公開の場所と違って、解説はなかった。

09_020 ここでは、大日如来に見立てた心柱を中心に四方に置かれた如来や、柱に描かれた曼荼羅、側柱に描かれた八大龍王、壁に描かれた真言八祖像を見ながら、ぐるりと歩くだけだ。

「立ち止まらないでください」と声を掛けられるので、じっくり見ることはできない。

ひと回りして出口に着いたら、太陽光に照らされて、南側の彩色がまだ美しく残っているのが見えた。

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北大門を出てすぐ右側、洛南高校向かいに観智院がある。ここは東寺の勧学院(徳川家康制定)であり、密教聖教所蔵数、国内最多という。

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写真右からも分かる通り、内側の幕は、東寺と同じ八雲東寺紋。東寺講堂の主尊・大日如来 は宇宙そのものであり、その光明が遍く照らすところから「遍照(大日)」という。雲があれば、邪魔にも思えるが。太陽、雲と、空つながりだろうか。ならば太陽を象った紋でも良さそうなものだ。

雲の文様は、BC6200年頃トルコ古代都市に見られ、BC 3000年頃にはエジプトのヒエログリフに使用されたという。またAD25~220年では、後漢で天上人の乗り物として、積雲の模様が流行したようだ。それが、仏教文化と共に日本に輸入されたらしい。だから、普通の家の家紋には用いられず、寺紋で使われることが多いそうだ。また、雲は「巡る」意から、輪廻転生思想の仏教に似つかわしい模様であった。(以上雲紋について参考HP『雲のできるまで』:http://stellar.lowtem.hokudai.ac.jp/research/papers/06summer.pdf)

観智院の見どころは、枯山水の五大の庭、宮本武蔵筆の鷲図・竹林の図、五大虚空像菩薩像(空海が修行した唐・青龍寺本尊を恵運が請来したもの)、愛染明王像、書院の襖絵、茶室・楓泉観などである。思いがけず部屋数が多く、広い茶室から見える落ち着いたお庭、浜田泰介による襖絵「四季の図」が良かった。

密教を少し調べてみたら、仏教がいよいよわからなくなってきた・・・・・・。

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京都御所特別公開

2009-11-08 23:50:21 | まち歩き

御所の一般公開は、毎年、春(4月)と秋(11月)に、5日間の日程で行なわれる。今年は「天皇陛下御即位20年記念」と銘打って、春季に7日間、秋季は10日間の日程で、通常とは違ったコースも加わった。この7年ぐらいの間、平日の午前中に何度か行ったことがある。入り口の列に並び、人波に流されるように見た。今年は土曜の夕方で、殆ど閉門直前の入場(開門時間は9:00~15:30)。人が少なく、じっくり見ることができた。

09_009 これは、南の建礼門。御所の正門である。先月の時代祭では、この門の前に平安神宮の神輿が鎮座し、ここから行列が出発した。葵祭でも、ここから祭りは始まる。

この門のすぐ前には、丹塗りの承明門があり、開いていれば紫宸殿が見渡せる。

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次は建春門。優美なフォルムである。

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日華門から入って、紫宸殿の前を通る。左近の桜と右近の橘。橘は少し元気がない様子。振り返って白砂の南庭を見ると、ロープを張った内側に、足跡。

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清涼殿を見てから欅橋のかかる御池庭の方へ。

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人が少ないと、お庭もゆっくり見ることができる。紅葉が始まっていて、池の水に映る木々に見とれてしまう。今回は、建物内部よりも、お庭が良かった。

平安京の内裏は、現在地より、少し西にあった。千本丸太町辺りには、平安宮内裏内郭回廊跡や、大極殿跡が残る。現在地は里内裏(内裏が火災などの場合に、貴族の館を仮皇居とした)と呼ばれる御殿のあった場所で、平安後期以降、ここ、土御門東洞院殿と言われた里内裏が発展し、皇居となったのだそうだ。蛤御門の向かい、京都ガーデンパレス前に「土御門内裏跡」の石標が建っている。

さて、御所は当然菊紋なのだが、今出川御門から入った私が最初に目にした建物には、菊紋と三つ巴。確かここは宮内庁宿舎のはず。09_001 しかし、少し行くと「桂宮邸跡」の石標があった。桂宮邸には、この築地塀と表門・勅使門が残っており、御殿は明治26年頃、二条城に移築されているらしい。

御所は、通常も予約さえすれば、参観が可能だ。葉書、宮内庁京都事務所窓口、インターネットで申し込むことができる。どの方法でも3ヶ月前の1日から受け付けで、窓口申し込みは、参観希望日の前日でも、定員に余裕があればOKなのだそうだ。私は参観を申し込んだことがないので、コースが同じかどうかはわからないが、職員の方のガイドがついているのは魅力的。(宮内庁HP参観案内http://sankan.kunaicho.go.jp/

また、外国人観光客は、パスポートを持参すれば、当日でも参観できる場合があると聞いたことがある。9月に来たアメリカの友人を、案内してあげればよかった。南禅寺・奥丹のセットがあまり気に入らなかったようなので。あぁ残念。京都御所は思いつかなかった・・・。

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法然院

2009-11-07 00:37:33 | まち歩き

山号、善気山。正式名称、善気山法然院萬無教寺。浄土宗の単立寺院である。1953年、浄土宗から独立した。

ここ鹿ケ谷は、法然上人が、安楽・住蓮と共に念仏し、六時礼讃を唱えた地。1206年、弟子たちは、院の女房、松虫・鈴虫を後鳥羽上皇の留守中に無断で出家させた。上皇は彼らを死罪に、上人を流罪とし、草庵は荒廃する。1680年、知恩院第38世萬無和尚、弟子の忍澂和尚が、この地に念仏道場を建立したのが、法然院の始まりである。

法然院という名を気に留めずに山門をくぐると、ここは禅宗かと思う。山門すぐには白砂壇、堂宇には華頭窓。山門が、少し高くなっていて外から内を、内から外を簡単に見通せない、という造りも、禅宗様式なのだそうだ。そこが、一種の結界。聖と俗を分ける場所だ。

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1681年に建てられた本堂もまた、禅宗様式を採り入れている。アーチ型の蛇腹天井が、そうだ。さきの忍澂和尚が黄檗山の僧と懇意であった上、江戸時代、禅宗様式が流行していたためらしい。そういえば、知恩院三門にも華頭窓があった。

本尊は阿弥陀如来。須弥壇には25菩薩を象徴する白菊25個を散華している。春は椿、夏は紫陽花、秋は菊、冬は冬椿など、季節によって花は変わるとのこと。本堂をぐるりと周った中庭に、紫陽花があった。また本堂入り口を入った所に「椿の庭」もある。菊は見当たらなかったが、毎朝花頭を摘んで散華することは、阿弥陀如来と人とをつなぐ静かな時間であろうと想像する。本堂内部の様子を、看板で。

09_001 ここには、何の紋も存在しない。須弥壇にも、厨子の扉にも。

お庭の燈籠や、水盤にも、紋は入っていなかった。ただ、軒丸瓦や飾り瓦に右三つ巴、右一つ巴、降り一つ巴、徳川葵があるのみ。

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本堂の新しい軒丸瓦には法輪、本堂正面の飾り瓦には、抱き杏葉。これでやっと外見から浄土宗ということが明らかになる。

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方丈は、伏見にあった後西天皇皇女の御殿を移したもので、襖絵が印象的だ。堂本印象が「恒世印象」と記した絵。この号は、気に入った絵にしかつけないらしい。黒に金に柔らかなコーラルピンクの抽象画。勢いがあって、伸びやかで、生命力に溢れていた。狩野光信の襖絵は、床の間や違い棚の壁にまで絵が続く。外して保管可能な襖はいくらか状態が良いが、壁に描かれた桐は、葉が白く退色し、無残だった。あとで見た立林何帛の『四季草花図』も、ひどく退色しているのだと聞いた。墨絵にしか見えない状態。しかし、すっきりとしたきれいな絵なので、墨絵でも大丈夫とは感じた。屏風が4帖並べられたその部屋から、外を撮影。

09_015 哲学の道から少しだけ坂道を上がった所にある法然院だが、この見晴らしの良さ。白川通辺りから、緩やかに東が高くなっているのだ。

前に見える緑は、吉田山だろうか。

あとで上がった望西閣は、二階なのに窓の外が大木に遮られ、とても西を望めるものではなかった。ただ、ここにも堂本印象作の襖絵があり、見応えがあった。

方丈庭園では、心字池にかかる中橋が、此岸と彼岸を分けるのだと聞いた。

09_011 彼岸にある石が阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表す。また、その奥に見える石灯籠は、この寺で最も古い年代(1528年)を刻んだものらしい。

この左手にある階段を上がると鳥居と祠がある。法然院の鬼門に位置するこの場所に祀られているのは、仏法を守護する吉祥天・摩利支天・弁財天。

今日の解説は、関学の学生さん。京都の大学だけが担当しているのだと思っていたら、兵庫で唯一、関学も参加しているのだという。

本堂から出て、境内を歩く。それほど広くはない。

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あと二週間ほど経てば、紅葉も始まるだろう。この茅葺きの山門に紅葉はよく似合う。

法然院参道への入り口は、北と南にある。北の入り口には「志ゝが谷法然院」、南の入り口には「圓光大師御舊蹟」の石碑がある。以前から、圓光大師?と思っていたが、やっとわかった。1697年、東山天皇から法然上人に贈られた諡号だ。1711年以降、50年毎に天皇から贈られる慣わしとか。なぜそんな面倒なことを・・・。

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最後に、ここで頂いたリーフレットの写真は、とにかく美しい。そのまま写真集にしてほしい。今回、特別公開のあちこちで頂いたリーフレットには、水野克比古氏の写真が多く使用されていたが、ここのが一番。

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知恩院

2009-11-06 00:37:13 | まち歩き

今回の非公開文化財特別拝観は、浄土宗のお寺に焦点を絞っているのに、知恩院を外すわけにはいかない。

浄土宗総本山、山号・華頂山、四条天皇より下賜された寺号・華頂山知恩教院大谷寺、開基・法然上人。1175年比叡山を下りて後、草庵を結んで専修念仏を布教した場所である。法然は1212年入滅したため、門弟らがここに廟堂を築いた。1227年延暦寺宗徒により破壊されるが、1234年源智が再興し、四条天皇より寺号を下賜された。1431年の火災、応仁の乱などで焼失するも、復興され、徳川家の庇護によって寺地は拡大されて今に至る。

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円山公園のすぐ北、東山連峰麓に位置する粟田口の将軍塚がある山の麓に、この寺はある。日本最大の木造建築二重門である三門(三解脱門)までの、この石段(写真左)そして御影堂に続く男坂の石段(写真右)。この寺は傾斜を利用して伽藍が配置されているため、とにかく石段が多い。

非公開文化財特別拝観は、この三門楼上である。金戒光明寺の山門と比べて、二階部分の外周廊下の床板の状態は良い。それほど痛んではいない。それに楼上内部は広い。安置されているのは、釈迦牟尼仏像と16羅漢像。天井には龍、天女、迦陵頻伽(上半身天女・下半身鳥)、楽器など。虹梁には麒麟と雲、飛龍と波など。壁の頭貫にはマカラ(上半身獅子か象・下半身魚・前足獅子か猫。インド神話の水の神。鯱のモデルとなったとも言われる)。出口脇の壁には、墨文字の落書きが見える。明治時代は自由に楼上に上がることができたため、廃仏毀釈後に落書きが増えたらしい。わざわざ、墨と筆を持ってあの急な階段を上がり、落書きしたのか・・・。

09_003 三門楼上の様子がわかる看板を撮った。

迦陵頻伽と楽器を見て思い出した。数年前に来たことがある。あのときはこんなに暗くなかった。昨年秋の公開までは、開け放して明るくしていたらしいが、直射日光で痛むから、と、扉は閉め、出入り口には黒い幕をつけて、いくつかの置き照明と解説の懐中電灯の明かりのみ。天井絵はそれでもなんとか。が、16羅漢など、私には殆ど見えなかった。

三門をくぐってすぐ右手に、友禅苑がある。枯山水の庭と東山の湧水を利用した庭で構成されている。立派なサツキの刈り込みや、形良く剪定された松、落ち着いた石の配置など、気持ちのいいお庭である。

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東山は借景として取り入れられ、庭園から三門に目を向けると、それもまた良い眺め。

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さて、石段を上がって御影堂へ。法然上人の御影を祀る、ここが本堂。1639年、徳川家光によって建てられたもので、国宝だ。とにかく広い、荘重な建物だった。御影堂前には、徳川葵と宗門の抱き杏葉。徳川葵は、幕や飾り瓦や燈籠など、あちこちに入っている。やはり、寺域を拡大・整備し、今ある殆どの伽藍を建造し、代々帰依した・・・となると。通常、徳川葵を使用することは禁じられていたはずだが、ここは特別だったのだろう。抱き杏葉は、丸というよりも月に見える。家紋サイトでは、丸に抱き杏葉しか掲載されていないのだが。

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次は、阿弥陀堂。こちらには阿弥陀如来が安置されている。

09_029 そうして、御廟への石段を登る。

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この石段を、さらに左に上がると、法然上人終焉の地である大谷禅坊の旧跡で、知恩院の建物で最古(1530年)の勢至堂がある。法然の幼名・勢至丸から、法然は勢至菩薩の生まれ変わり=勢至菩薩は法然の本地仏=本尊として祀っている。右の写真は勢至堂境内から東にある御廟・拝殿を見上げたもの。ここは知恩院の中でも最も高度が高く、法然が草庵を結んだ地であると同時に、御廟から寺全体を見下ろして、また京都を見下ろして、守っているような、そんな場所である。09_013

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勢至堂内に置かれていた大きな三方には葵紋、小さな三方には抱き杏葉紋が。拝殿の賽銭箱には、「月に抱き杏葉」と見える紋が。

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大方丈の庭園を拝観する。こちらの飾り瓦の紋は、三つ巴。ただ、庭園入り口の石灯籠には菊紋と五三桐紋があった。そういえば、江戸時代に宮門跡が入ったと知恩院HPに掲載されていた。

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小方丈のお庭は、この寺の国宝『阿弥陀二十五菩薩来迎図』を石組みであらわしているとのこと。また、小方丈の裏口というか、権現堂に入る門の飾り瓦は、しっかり徳川葵だった。09_025 

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