昨日の対局が話題になっている。
柳時熏九段 vs 村上晶英三段
の碁で村上三段が2手目で持ち時間の3時間をすべて費やして秒読みに入ったのだ。
特にネット上ではいろいろな意見があるようだ。
最後は58目半というこれまた前代未聞の大差を数えたことから批判的なコメントもあるが
私としては、「ルール上問題ないので、相手に対して失礼だ、という観点からの批判は当たらない」
と思う。もしこれが碁会所などで持ち時間を決めていない対局ならば、お互いの良識の範囲で楽しむことなので
早く打ってほしいと言ってもいいし、不愉快だ!と感じても、その思いは当然だろうと思う。
しかし本局はプロ棋士の公式戦であり持ち時間が決められた対局だ。
その中で長考することは何の問題もない。
さて、ここまではルール上問題ないので批判には当たらないという私見を述べた。
その上で人間の囲碁はドラマであり対局者の心理をこそ見てほしい、という話をしようと思う。
村上三段とは同い年で、緑星学園時代にはいわゆる同じ釜の飯を食った仲間であり、思い出話もまぜていくことにする。
ある日、緑星学園の先輩同士の碁でこんなことがあった。
名前を出してもいいのだがそこはご想像にお任せする。
緑星内のリーグ戦で持ち時間は1時間以上あったと記憶している。
第一着黒三々に白2と肩ツキ。ここで1時間以上の大長考で持ち時間のほとんどを投入。
あとで本人に何を考えたか聞くと、「黒AとハウかBとハウか悩んでいた。」とのことだ。
私のような凡人は思う・・・・・・・・
それは一緒では・・・・・・・・・?
誰かが菊池先生に訴えた。
これどう思いますか・・?
菊池先生は
「それはわかる気がする。どちらにハウかで世界観が違う」
とある大家も、「ここでAと打つかBと打つか?」と問うシーンを目撃したことがある。
「同じに見えますか?しかし気の流れが違います」
最近流行りのAIに聞いてみると
やはり左右同型でも数値は違う。
客観的に見れば一緒だろう。
しかし
碁盤を前にした棋士は、例えればアマゾンのようなジャングルに槍一本で探検しにいくようなものだ。
右の道も左の道も一緒です、と言われてもハイそうですね、同じですね。とはなかなか思えない。
上のように計算力を増したAIにとっても違うもの、ましてや生身の人間にとっては別物に感じられるときもあるだろう。
一歩引いて見れば同じである右と左が、本人にとっては違う、という世界もあるのだ。
さて、これ以上書くとヤバイのがばれてしまうので今日はこれぐらいにして現実に戻り
最初の問題を長考される相手の立場になって考えてみて締めとしたい。
これまた院生時代ぐらいの私の思い出話だが緑星のO君に
「打つとこ決まってる場面で、相手が長考してると何か妙手を打たれるんじゃないかって不安にならない?」
と聞いたら
「え?こんな決まったところで考えてくれたら持ち時間減らしてくれておいしい(ありがたい)」
と思うけど。
な、な、なるほど・・・・・・・・・・・・・・・
そこで私は理解した。
相手の長考に心乱されるようでは修業が足りん!ということか
長考ではないが、対局には一定時間遅刻したら不戦敗という決まりがある。
人間は心弱き生き物で、相手が来ないと邪な心が顔を出す。
あと5分で楽して勝てる(不戦勝)
しかし相手は残り10秒で滑り込んできた。(院生対局の実話です)
どんな不測の事態にも泰然自若としていたいが
「われいまだ木鶏たりえず」
と事あるごとに思うのである。