≪東海道・由比宿から小田原宿へ!≫
JR穂積駅で一番列車となる5時20分発に乗り込む。土曜日とはいえ、通勤客と思える面々がそこそこ乗っている。こちらは遊び、朝から缶ビールをプシュと開けて呑気なものである。鈍行乗り継ぎで4時間、由比までの列車旅を楽しんだ。
『由比宿』
6月に見付宿から由比宿を走ったため、今回は由比からのスタートとなる。見覚えのある駅前より走り始めるとサクラエビの看板がやたらと目に付く。「かき揚げ200円」の暖簾に釣られ、揚げ立てを一つだけ買ってみる。サクラエビは思ったより身があり、ホカホカ感とサクサク感が嬉しかった。これでビールがあれば・・・と走り始めから不謹慎な思いが頭の中をよぎる。
ここは由井正雪の出生地とか、生家だという「正雪紺屋」を覗いて見た。案内書には、慶安4年(1651年)徳川幕府の政策への批判と浪人の救済を掲げ、由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし、駿府にて自害したとあった。
『蒲原宿』
旧国道沿いに走り、茄子屋跡の角を左折して蒲原宿へと入っていった。道はカラー舗装がされ、本陣跡など説明板が多く設置されていたが、予備知識に乏しく、斜め読みをして先を急ぐ。
宿場外れより北に向きを変え、坂を上って東名高速を越える。街道は富士川の氾濫を避けるように右岸の山裾を行くようになる。道が数度折れ曲がった先に岩渕の一里塚があった。榎木の大木を塚の上に繁らせた一対の一里塚は珍しい。その先の脇本陣にも寄ってみた。150年は経つという建物は解体修理などしておらず、当時のままの雰囲気が漂っていた。
急な坂を下ると富士川に出くわす。当時は渡船で越え、上、中、下と三箇所の湊があったそうだ。川筋の変化や水量によって湊を変えたとのことであった。
『吉原宿』
ここは製紙工場地帯のようで、赤い横島模様の煙突を多く見かける。宿場町として見るべきものはないようで、唯一「平家越の碑」というものがあった。
「伊豆で兵を挙げた源頼朝を討つために平清盛の命を受けた平維盛ら征東軍七萬騎は、治承4年(1180)10月16日富士川西岸の清見ヶ関に布陣、迎え撃つ頼朝勢は東岸に十萬騎を集めた。10月24日を決戦の日と決めたが、20日夜更け、甲斐から参戦した武田勢が敵陣の後方に回って攻めようとした。ところが富士川の葦原に眠っていた水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立った。羽音を敵の襲来と誤認した平家の大軍は我先と逃げ出し陣中は大混乱、源氏の軍勢は戦わずに勝利を収めた。」
と説明板にあった。
数本の松並木の下に「左富士の碑」があった。当たり前に考えれば東海道を江戸から来れば富士山は右手に見えるはずである。ここは道が大きく北へ向きを変えるために富士山が左に見えるという訳である。当時の旅人はそんな些細なことにも驚いたようであるが、生憎と今日は雲に覆われて富士山は望めなかった。
『原宿』
更に道は田子の浦の海岸線に沿って(実際は建物のために海は見えないが)原宿を通りすぎ、沼津へと向かう。街道と駿河湾の間は風と波で打ち寄せられた砂浜の丘となっていて、千本松原の地名のごとく松林が延々と続いていた。
『沼津宿』
狩野川に架かる永代橋の手前で街道は左に折れ、大手町へと入っていった。沼津城址の碑を見て広場に上がって見るが、石垣一つ無い寂しい城跡であった。宿場の痕跡もほとんど無く、宿場外れの八幡神社境内に残る源頼朝と義経の対面石なるものを見学した。腹違いとはいえ、この兄弟の辿った運命は悲運そのものである。兄の恨みを買い、平泉の藤原氏を頼って逃走するドラマは日本人が好むストーリーのようである。
『三島宿』
三島は伊豆の国府があったところであるが、現在でもその位置は特定されていないという。「伊豆国分寺七重塔跡」の碑だけが名残りである。も一つのビューポイントは三島大社、祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろ ぬしのみこと)で、伊豆一宮、総社でもあるという。瓦葺き流れ造の本殿破風付き入母屋造りの拝殿と弊殿は国の重要文化財でもある。
繁華街を抜け、県道が右へカーブしてゆくところより東海道は川を渡って愛宕坂へと入ってゆく。道幅は狭まり、坂の上は石畳になっていた。更に街道は国道1号線と交わったり離れたりしながら緩やかに高度を上げてゆく。箱根越えに入ったようだ。
錦田の一里塚を過ぎ、箱根路の碑を見送って更に坂を上ってゆく。塚原新田、市ノ山新田、三ツ谷新田、笹原新田、山中新田という地名が続くが、多分、標高が高いために開拓が遅れ、新しく開墾された場所と思われる。新田とはいえ水利の悪い火山灰土壌のためにほとんどが畑であった。
街道は緩やかながら真っ直ぐに箱根峠へ向かっていた。臼転坂、大時雨坂、小時雨坂、こわめし坂、上長坂、小枯木坂、大枯木坂、石原坂、甲石坂とうんざりするくらい坂の連続である。その幾つかは石畳が再現されていて、最初のうちは真面目に旧街道を辿っていたが、細いタイヤでは歯が立たず、自転車を押す派目となる。忠実な旧道のトレースは諦め、国道1号を走ることにした。
この日の気温は35度、だんだん身体が重くなり、最後は脚が痙攣するようにまでなってしまった。時間は否応無しに過ぎ、ほうほうの体で箱根峠(864m)に辿りつく。時計は5時を回り、霧の立ち込める峠は薄暗くなり掛けていた。芦ノ湖には帆船風の観光船が数艇、停泊しているのが見えた。
今日のゴールとなる小田原は20数キロ先、急いで下りに入る。天下の険と謡われる東海道の最難所は今も変わらない。石畳の旧道を走るのには太いタイヤのMTBが良く、次回はリベンジで再度訪れて見たい。小田原駅に着いたのはすでに暗くなりかけた6時半過ぎであった。
JR穂積駅で一番列車となる5時20分発に乗り込む。土曜日とはいえ、通勤客と思える面々がそこそこ乗っている。こちらは遊び、朝から缶ビールをプシュと開けて呑気なものである。鈍行乗り継ぎで4時間、由比までの列車旅を楽しんだ。
『由比宿』
6月に見付宿から由比宿を走ったため、今回は由比からのスタートとなる。見覚えのある駅前より走り始めるとサクラエビの看板がやたらと目に付く。「かき揚げ200円」の暖簾に釣られ、揚げ立てを一つだけ買ってみる。サクラエビは思ったより身があり、ホカホカ感とサクサク感が嬉しかった。これでビールがあれば・・・と走り始めから不謹慎な思いが頭の中をよぎる。
ここは由井正雪の出生地とか、生家だという「正雪紺屋」を覗いて見た。案内書には、慶安4年(1651年)徳川幕府の政策への批判と浪人の救済を掲げ、由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし、駿府にて自害したとあった。
『蒲原宿』
旧国道沿いに走り、茄子屋跡の角を左折して蒲原宿へと入っていった。道はカラー舗装がされ、本陣跡など説明板が多く設置されていたが、予備知識に乏しく、斜め読みをして先を急ぐ。
宿場外れより北に向きを変え、坂を上って東名高速を越える。街道は富士川の氾濫を避けるように右岸の山裾を行くようになる。道が数度折れ曲がった先に岩渕の一里塚があった。榎木の大木を塚の上に繁らせた一対の一里塚は珍しい。その先の脇本陣にも寄ってみた。150年は経つという建物は解体修理などしておらず、当時のままの雰囲気が漂っていた。
急な坂を下ると富士川に出くわす。当時は渡船で越え、上、中、下と三箇所の湊があったそうだ。川筋の変化や水量によって湊を変えたとのことであった。
『吉原宿』
ここは製紙工場地帯のようで、赤い横島模様の煙突を多く見かける。宿場町として見るべきものはないようで、唯一「平家越の碑」というものがあった。
「伊豆で兵を挙げた源頼朝を討つために平清盛の命を受けた平維盛ら征東軍七萬騎は、治承4年(1180)10月16日富士川西岸の清見ヶ関に布陣、迎え撃つ頼朝勢は東岸に十萬騎を集めた。10月24日を決戦の日と決めたが、20日夜更け、甲斐から参戦した武田勢が敵陣の後方に回って攻めようとした。ところが富士川の葦原に眠っていた水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立った。羽音を敵の襲来と誤認した平家の大軍は我先と逃げ出し陣中は大混乱、源氏の軍勢は戦わずに勝利を収めた。」
と説明板にあった。
数本の松並木の下に「左富士の碑」があった。当たり前に考えれば東海道を江戸から来れば富士山は右手に見えるはずである。ここは道が大きく北へ向きを変えるために富士山が左に見えるという訳である。当時の旅人はそんな些細なことにも驚いたようであるが、生憎と今日は雲に覆われて富士山は望めなかった。
『原宿』
更に道は田子の浦の海岸線に沿って(実際は建物のために海は見えないが)原宿を通りすぎ、沼津へと向かう。街道と駿河湾の間は風と波で打ち寄せられた砂浜の丘となっていて、千本松原の地名のごとく松林が延々と続いていた。
『沼津宿』
狩野川に架かる永代橋の手前で街道は左に折れ、大手町へと入っていった。沼津城址の碑を見て広場に上がって見るが、石垣一つ無い寂しい城跡であった。宿場の痕跡もほとんど無く、宿場外れの八幡神社境内に残る源頼朝と義経の対面石なるものを見学した。腹違いとはいえ、この兄弟の辿った運命は悲運そのものである。兄の恨みを買い、平泉の藤原氏を頼って逃走するドラマは日本人が好むストーリーのようである。
『三島宿』
三島は伊豆の国府があったところであるが、現在でもその位置は特定されていないという。「伊豆国分寺七重塔跡」の碑だけが名残りである。も一つのビューポイントは三島大社、祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろ ぬしのみこと)で、伊豆一宮、総社でもあるという。瓦葺き流れ造の本殿破風付き入母屋造りの拝殿と弊殿は国の重要文化財でもある。
繁華街を抜け、県道が右へカーブしてゆくところより東海道は川を渡って愛宕坂へと入ってゆく。道幅は狭まり、坂の上は石畳になっていた。更に街道は国道1号線と交わったり離れたりしながら緩やかに高度を上げてゆく。箱根越えに入ったようだ。
錦田の一里塚を過ぎ、箱根路の碑を見送って更に坂を上ってゆく。塚原新田、市ノ山新田、三ツ谷新田、笹原新田、山中新田という地名が続くが、多分、標高が高いために開拓が遅れ、新しく開墾された場所と思われる。新田とはいえ水利の悪い火山灰土壌のためにほとんどが畑であった。
街道は緩やかながら真っ直ぐに箱根峠へ向かっていた。臼転坂、大時雨坂、小時雨坂、こわめし坂、上長坂、小枯木坂、大枯木坂、石原坂、甲石坂とうんざりするくらい坂の連続である。その幾つかは石畳が再現されていて、最初のうちは真面目に旧街道を辿っていたが、細いタイヤでは歯が立たず、自転車を押す派目となる。忠実な旧道のトレースは諦め、国道1号を走ることにした。
この日の気温は35度、だんだん身体が重くなり、最後は脚が痙攣するようにまでなってしまった。時間は否応無しに過ぎ、ほうほうの体で箱根峠(864m)に辿りつく。時計は5時を回り、霧の立ち込める峠は薄暗くなり掛けていた。芦ノ湖には帆船風の観光船が数艇、停泊しているのが見えた。
今日のゴールとなる小田原は20数キロ先、急いで下りに入る。天下の険と謡われる東海道の最難所は今も変わらない。石畳の旧道を走るのには太いタイヤのMTBが良く、次回はリベンジで再度訪れて見たい。小田原駅に着いたのはすでに暗くなりかけた6時半過ぎであった。