≪東海道・草津宿から京都三条大橋へ!≫
草津宿から三条大橋間は中山道と同じルートで、古くは東山道であったという。667年、天智天皇によって遷都された大津京が置かれたことでも分かるように、京都と大津は密接な関係にあり、天皇や公家が行き来した場所でもある。京から山科を経て逢坂峠を越えて大津に至る道はどのような地形を行くのか興味があった。
『草津宿』
東海道と中山道の追分となる草津宿は古くから賑わったという。今も当時の本陣があり、内部を公開していて往時の大名行列などの資料に触れることができる。適度な幅の街道が大津に向かって続いていた。
矢橋道標は名物の「姥ヶ餅屋」の庭先にあった。当時のお金持ちはここで右折し、矢橋湊から琵琶湖を船で大津へ向かったという。現代でいうグリーン車みたいなものであろうか。
野路の玉川は平安の歌人、源俊頼が
「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」(千載和歌集)
と歌ったことや、安藤広重が浮世絵に描いたことでも有名な場所であるそうだ。当時は湧き水があったというが、現代は水道水で再現されていた。
道は時より右左折し、やがて近江一ノ宮となる建部大社の前へ出る。大社の鳥居からは瀬田の唐橋がはっきりと確認できた。
橋を越えると石山へ至る。石山寺は少し街道から離れているため、先を急ぐ。膳所の辺りでは、道は複雑に右左折を繰り返すため、迷わないように注意する。
義仲寺の前で記念写真を撮る。塀の上からバナナの葉が繁っているのが異様であるが、芭蕉の名の意味がバナナを指すことは知られていないようだ。
『大津宿』
京阪鉄道の踏み切りを渡って坂を上がると大津宿へと入ってゆく。道は琵琶湖より一段と高い位置を通っていたようである。古い家並みの残る中に露国皇太子遭難之地という碑があった。
札ノ辻で左折し、逢坂峠への登りに入る。右手に蝉丸神社下社の鳥居が見えた。道はそれほど急な坂ではなく、容易に逢坂山関所跡の碑がある峠に辿りついた。
一旦下って山科へと向かう。途中に山科追分があり、左宇治とあった。何故か大阪へ向かう道は京都を通っていない。“禁中並公家諸法度”で知られるように徳川幕府は公家と大名が近づくの嫌い、参勤交代の大名が江戸へ向かう時、京都を通らないよう山科から大津へと通したという。
山科の中心部を通り、再び小さな坂を上ることになる。その途中に亀の水という場所があり、今も水が湧いていた。
小さなコブを過ぎればあとは京の街並みへ下るだけ。蹴上で琵琶湖疎水のインクラインを右に見て三条大橋へ向かう。
東海道の西の終点となる三条大橋は人で賑わっていた。弥次さん 喜多さんの像の前で写真を撮り、ゴールの証とした。
まだ東海道の全線は踏査できていない。焦らずに暇ができれば残りの区間を走ってみたい。ここまで走ってきて感じたことは、思ったよりも当時の雰囲気が色濃く街道筋に残っていることであった。これはガイドブックからも、最新の映像からも感じることのできない体験であると思う。是非とも自転車なり徒歩で旧街道を訪ねてみる事をお奨めする。
草津宿から三条大橋間は中山道と同じルートで、古くは東山道であったという。667年、天智天皇によって遷都された大津京が置かれたことでも分かるように、京都と大津は密接な関係にあり、天皇や公家が行き来した場所でもある。京から山科を経て逢坂峠を越えて大津に至る道はどのような地形を行くのか興味があった。
『草津宿』
東海道と中山道の追分となる草津宿は古くから賑わったという。今も当時の本陣があり、内部を公開していて往時の大名行列などの資料に触れることができる。適度な幅の街道が大津に向かって続いていた。
矢橋道標は名物の「姥ヶ餅屋」の庭先にあった。当時のお金持ちはここで右折し、矢橋湊から琵琶湖を船で大津へ向かったという。現代でいうグリーン車みたいなものであろうか。
野路の玉川は平安の歌人、源俊頼が
「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」(千載和歌集)
と歌ったことや、安藤広重が浮世絵に描いたことでも有名な場所であるそうだ。当時は湧き水があったというが、現代は水道水で再現されていた。
道は時より右左折し、やがて近江一ノ宮となる建部大社の前へ出る。大社の鳥居からは瀬田の唐橋がはっきりと確認できた。
橋を越えると石山へ至る。石山寺は少し街道から離れているため、先を急ぐ。膳所の辺りでは、道は複雑に右左折を繰り返すため、迷わないように注意する。
義仲寺の前で記念写真を撮る。塀の上からバナナの葉が繁っているのが異様であるが、芭蕉の名の意味がバナナを指すことは知られていないようだ。
『大津宿』
京阪鉄道の踏み切りを渡って坂を上がると大津宿へと入ってゆく。道は琵琶湖より一段と高い位置を通っていたようである。古い家並みの残る中に露国皇太子遭難之地という碑があった。
札ノ辻で左折し、逢坂峠への登りに入る。右手に蝉丸神社下社の鳥居が見えた。道はそれほど急な坂ではなく、容易に逢坂山関所跡の碑がある峠に辿りついた。
一旦下って山科へと向かう。途中に山科追分があり、左宇治とあった。何故か大阪へ向かう道は京都を通っていない。“禁中並公家諸法度”で知られるように徳川幕府は公家と大名が近づくの嫌い、参勤交代の大名が江戸へ向かう時、京都を通らないよう山科から大津へと通したという。
山科の中心部を通り、再び小さな坂を上ることになる。その途中に亀の水という場所があり、今も水が湧いていた。
小さなコブを過ぎればあとは京の街並みへ下るだけ。蹴上で琵琶湖疎水のインクラインを右に見て三条大橋へ向かう。
東海道の西の終点となる三条大橋は人で賑わっていた。弥次さん 喜多さんの像の前で写真を撮り、ゴールの証とした。
まだ東海道の全線は踏査できていない。焦らずに暇ができれば残りの区間を走ってみたい。ここまで走ってきて感じたことは、思ったよりも当時の雰囲気が色濃く街道筋に残っていることであった。これはガイドブックからも、最新の映像からも感じることのできない体験であると思う。是非とも自転車なり徒歩で旧街道を訪ねてみる事をお奨めする。