《輪旅 東海道・日本橋から小田原宿へ!》
歴史街道は面白い!そんな想いで東海道をトレースしています。細切れではありますが・・・最後に残った区間、日本橋から小田原宿(82㌔?)を走ってきました。ご同行をいただいたのは、藤沢市在住のN沼さん・・・地元の方だけに大いに助けていただきました。この場を借りて感謝を申し曲げます。
なぜこの区間が最後に・・・それは交通量・・・田舎者にはしんどそう!何しろ国道1号線ですから、今も繁盛?していそう!??結果・・・品川宿、大森、神奈川宿、保土ヶ谷宿など旧道が残っている部分も多くありました。大磯辺りでは松並木も・・・
鈴ヶ森刑場跡、生麦事件の現場(その前がキリンビールとは出来すぎ!?)興味深い場所も多くありました。
※神奈川県の由来は神奈川宿から・・・でしょうか。
日本橋~品川宿~川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~戸塚宿~藤沢宿~平塚宿~大磯宿~小田原宿
(現在も日本の国道の基点となる日本橋をスタート)
岐阜駅より東京駅へは2時間ほど・・・8時20分には八重洲口に立っていました。同行のN沼さんと連絡を取り、合流。自転車の組み立てを終えて日本橋へ・・・意外と近い。
日本橋・・・ここは今も昔も日本の道路の原点、出発点でもあります。国道の基点となる日本国道路元標・・・全てがここから始まっている・・・自転車で旅をするものにとっては聖地?みたいなところでもありました。全ての道がここから始まると・・・
(品川宿を快走)
先ずは銀座のど真ん中を快走・・・三越、高島屋・・・やはり本店でしょうかね。先ずは「京橋」の前で記念撮影。次に、日本の鉄道の始まり「新橋駅」復刻版?ではありますが、威厳がありました。
賑やかな道路(国道15号)から外れ、品川宿の旧道へ・・・ちょっと一息・・・きょろきょろと左右を見回しながら走りますが、それほどの史跡はないようです。本陣跡、一里塚跡・・・まあ仕方ないですね。発展した東京ですから・・・
(鈴ヶ森刑場跡)
江戸時代、ここで処刑されたのは10万とも20万とも・・・八百屋お七、天一坊など・・・見せしめのためでしょうか、東海道のすぐ横にあるのも不気味でした。記念撮影もちょっと怖い・・・
(生麦事件の現場)
生麦事件は、幕末の1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列を横切った騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件(とあるサイト)・・・幕末から明治に・・・歴史の教科書で学んだ場所に立つのも感慨があります。
(横浜のアメ横とも呼ばれる松原商店街)
なにかホッとする商店街でした。今時の人間味を感じない大型商業施設には無い温かみを感じました。店頭から道路にまではみ出した商品たち・・・威勢の良いお店の方の掛け声・・・商品が向うから買ってくださいと言っているようで嬉しくなります。今時のお店が忘れてしまった何かがあるようです・・・
(大磯宿あたり 化粧坂)
平塚宿を過ぎると、ちょっとリラックスできます。昔のままではないのでしょうが、街道を覆おう松並木が続きます。夏の強い日差しをさえぎり、冬の冷たい風を防いでくれる・・・旅人にはありがたい存在だったことでしょう。
(ようやく箱根連山が!)
高麗山が近づくと東海道の最難関となる箱根路に・・・火山性の箱根連山は特徴的な形をしています。いやがうえにも箱根越えの緊張が・・・あの山を越えるのだと。幸いにも、私は小田原宿で旅を終え、鉄道で三島へ向かうのですが。
(ゴールとなった小田原城)
夕方の6時半・・・それなりには急いだつもりでしたが、ぎりぎりのゴールでした。歴史上でも重要な拠点となった小田原城・・・コンクリート造りの再建ではありますが、それなりの威厳はありました。同行のN沼さんには感謝・・・何度も何度もルートの判断では助けていただきました。記念撮影もばっちり・・・その後、常連の中華料理屋さんで祝杯・・・独特な餃子とビールで乾杯!・・・これで東海道を全て完結・・・ありがたいことです。
次は中山道、塩尻宿から日本橋へ・・・夢は枯野を駆けめぐる!でしょうか。
歴史街道は面白い!そんな想いで東海道をトレースしています。細切れではありますが・・・最後に残った区間、日本橋から小田原宿(82㌔?)を走ってきました。ご同行をいただいたのは、藤沢市在住のN沼さん・・・地元の方だけに大いに助けていただきました。この場を借りて感謝を申し曲げます。
なぜこの区間が最後に・・・それは交通量・・・田舎者にはしんどそう!何しろ国道1号線ですから、今も繁盛?していそう!??結果・・・品川宿、大森、神奈川宿、保土ヶ谷宿など旧道が残っている部分も多くありました。大磯辺りでは松並木も・・・
鈴ヶ森刑場跡、生麦事件の現場(その前がキリンビールとは出来すぎ!?)興味深い場所も多くありました。
※神奈川県の由来は神奈川宿から・・・でしょうか。
日本橋~品川宿~川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~戸塚宿~藤沢宿~平塚宿~大磯宿~小田原宿
(現在も日本の国道の基点となる日本橋をスタート)
岐阜駅より東京駅へは2時間ほど・・・8時20分には八重洲口に立っていました。同行のN沼さんと連絡を取り、合流。自転車の組み立てを終えて日本橋へ・・・意外と近い。
日本橋・・・ここは今も昔も日本の道路の原点、出発点でもあります。国道の基点となる日本国道路元標・・・全てがここから始まっている・・・自転車で旅をするものにとっては聖地?みたいなところでもありました。全ての道がここから始まると・・・
(品川宿を快走)
先ずは銀座のど真ん中を快走・・・三越、高島屋・・・やはり本店でしょうかね。先ずは「京橋」の前で記念撮影。次に、日本の鉄道の始まり「新橋駅」復刻版?ではありますが、威厳がありました。
賑やかな道路(国道15号)から外れ、品川宿の旧道へ・・・ちょっと一息・・・きょろきょろと左右を見回しながら走りますが、それほどの史跡はないようです。本陣跡、一里塚跡・・・まあ仕方ないですね。発展した東京ですから・・・
(鈴ヶ森刑場跡)
江戸時代、ここで処刑されたのは10万とも20万とも・・・八百屋お七、天一坊など・・・見せしめのためでしょうか、東海道のすぐ横にあるのも不気味でした。記念撮影もちょっと怖い・・・
(生麦事件の現場)
生麦事件は、幕末の1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列を横切った騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件(とあるサイト)・・・幕末から明治に・・・歴史の教科書で学んだ場所に立つのも感慨があります。
(横浜のアメ横とも呼ばれる松原商店街)
なにかホッとする商店街でした。今時の人間味を感じない大型商業施設には無い温かみを感じました。店頭から道路にまではみ出した商品たち・・・威勢の良いお店の方の掛け声・・・商品が向うから買ってくださいと言っているようで嬉しくなります。今時のお店が忘れてしまった何かがあるようです・・・
(大磯宿あたり 化粧坂)
平塚宿を過ぎると、ちょっとリラックスできます。昔のままではないのでしょうが、街道を覆おう松並木が続きます。夏の強い日差しをさえぎり、冬の冷たい風を防いでくれる・・・旅人にはありがたい存在だったことでしょう。
(ようやく箱根連山が!)
高麗山が近づくと東海道の最難関となる箱根路に・・・火山性の箱根連山は特徴的な形をしています。いやがうえにも箱根越えの緊張が・・・あの山を越えるのだと。幸いにも、私は小田原宿で旅を終え、鉄道で三島へ向かうのですが。
(ゴールとなった小田原城)
夕方の6時半・・・それなりには急いだつもりでしたが、ぎりぎりのゴールでした。歴史上でも重要な拠点となった小田原城・・・コンクリート造りの再建ではありますが、それなりの威厳はありました。同行のN沼さんには感謝・・・何度も何度もルートの判断では助けていただきました。記念撮影もばっちり・・・その後、常連の中華料理屋さんで祝杯・・・独特な餃子とビールで乾杯!・・・これで東海道を全て完結・・・ありがたいことです。
次は中山道、塩尻宿から日本橋へ・・・夢は枯野を駆けめぐる!でしょうか。
交通量の多さに驚きながら走っていたら大型トラックに幅寄せされ路肩から転落しそうになったのを鮮明に覚えています。
刑場跡には南妙法蓮華経と有りますね、我が家は日蓮宗なもので・・・・
N沼さんのお元気そうなお顔!懐かしいです。
当時の東海道、まだ未舗装だったのではありませんか。トラックに幅寄せ・・・何しろ国道1号線ですから。
N沼さん、安心してご一緒できるサイクリストでした。またあのメンバーで走りたいです。