≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その1≫
慶長5年9月15日、天下分け目の戦いが不破の地、関ヶ原で行われた。太閤秀吉亡きあとの跡目争いでもあるこの戦(いくさ)は、戦国時代をしぶとく生き抜いてきた徳川家康にとって、天下取りのラストチャンスでもあった。今川義元、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉・・・それぞれの生きざまを見てきた家康にとっては、この時を逃しては征夷大将軍になれないと思ったに違いない。
豊臣派の総大将は毛利輝元、副大将として宇喜多秀家が立つが、実質の総指揮官は石田三成であったことは周知の事実である。なぜ三成なのか・・・名目は、豊臣家の嫡子である秀頼に天下を継がせるためなのか。それとも三成自身に野望があったのか。
片や東軍(これは合戦の後から名付けられた)の総大将は徳川家康。信長や秀吉に仕え、数々の戦(いくさ)から天下取りへのノウハウは十分に学習していた家康にすれば、武将としての最後の仕上のようなモノであったことであろう。
豊臣政権での五大老は、徳川家康(筆頭家老)、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(後に上杉景勝)。石田三成は格下の五奉行職であった。秀吉が亡くなるのが慶長3年9月。その翌年に前田利家が亡くなったのも家康にとってはチャンス到来である。その時、秀頼は7歳であった。
戦国時代、中国地方の大名は毛利元就を中心にそれなりのバランスを保っていた。そこへ天下取りの秀吉が現れ、その支配化に置かれたのはのちのちのトラウマになっていたことであろう。秀吉さえいなくなれば、豊臣家にそれほどの忠誠心はない。
信長や秀吉に仕えた尾張や三河の武士ほどの恩義もない。それが関ヶ原の合戦での士気に現れているようにも思える。毛利秀元や吉川広家、長束正家、長曽我部盛親は最後まで動かなかった。
結果、石田三成には西軍を一枚岩にできるだけの技量がなかったというのが敗因ではないか。当時の大名の力関係でいえば家康の実力はピカ一であり、なぜ自分達が三成のために戦わなければならないのかと。
先ずは関ヶ原歴史民族資料館で予備知識を得る。合戦のアウトラインを知ることが古戦場巡りの興味をアップさせてくれる。
床几(しょうぎ)場。合戦後、家康がここで各武将が取ってきた首級の首実験をしたところ。生首を見ながら、その武将の位によって褒美が決まったわけで、成果によっては何十万石という一国の城が貰えるわけである。
余談ではあるが、他人の取った首を拾ってきて差し出す輩もいるわけで、笹の才蔵と呼ばれた可児才蔵は取った首の口へ目印の笹を入れていたという。
東首塚。この戦いに参戦したのは15万人、命を落とした者は8千人とか。首実検の済んだ後は東と西の首塚に埋葬されたという。その横を通る国鉄東海道線の工事の時には多くの頭蓋骨が出てきたという。ここは井伊直政と松平忠吉の陣跡でもある。
井伊直政陣跡。本多忠勝、榊原康政、酒井忠次との4人を徳川四天王という。鎧具足から旗指し物など全てを赤一色にした井伊の赤揃えは有名である。のち、井伊家は彦根三十五万石となり、近年には彦根市長も務めるという名家でもある。
桃配山。関ヶ原の変より溯ること900年、ここは壬申の乱の舞台でもあった。その戦いに勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が、ここで地元民からプレゼントされた桃を配下の兵士達に配って士気を上げたという。後に勝利し、その古事にあやかって家康が桃配山に陣を構えたのであろう。この高台から眺める笹尾山は手に取れるような位置であることを実感した。
本多忠勝陣跡。民家の路地を入った位置にその碑はあった。徳川四天王の一人で、その後、桑名十万石を拝領する。桑名城の北に立派な銅像が建ってたのを覚えている。
島津豊久。西軍の敗色が濃くなり、敵陣突破を果たして牧田方面へ敗走した島津義弘隊は、本多忠勝や井伊直政の軍勢に烏頭坂で追いつかれ、ここで甥にあたる豊久は惟新(義弘)と名乗って敵と戦い、討ち死にをする。その後、義弘は薩摩まで無事に逃げ帰る。
慶長5年9月15日、天下分け目の戦いが不破の地、関ヶ原で行われた。太閤秀吉亡きあとの跡目争いでもあるこの戦(いくさ)は、戦国時代をしぶとく生き抜いてきた徳川家康にとって、天下取りのラストチャンスでもあった。今川義元、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉・・・それぞれの生きざまを見てきた家康にとっては、この時を逃しては征夷大将軍になれないと思ったに違いない。
豊臣派の総大将は毛利輝元、副大将として宇喜多秀家が立つが、実質の総指揮官は石田三成であったことは周知の事実である。なぜ三成なのか・・・名目は、豊臣家の嫡子である秀頼に天下を継がせるためなのか。それとも三成自身に野望があったのか。
片や東軍(これは合戦の後から名付けられた)の総大将は徳川家康。信長や秀吉に仕え、数々の戦(いくさ)から天下取りへのノウハウは十分に学習していた家康にすれば、武将としての最後の仕上のようなモノであったことであろう。
豊臣政権での五大老は、徳川家康(筆頭家老)、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(後に上杉景勝)。石田三成は格下の五奉行職であった。秀吉が亡くなるのが慶長3年9月。その翌年に前田利家が亡くなったのも家康にとってはチャンス到来である。その時、秀頼は7歳であった。
戦国時代、中国地方の大名は毛利元就を中心にそれなりのバランスを保っていた。そこへ天下取りの秀吉が現れ、その支配化に置かれたのはのちのちのトラウマになっていたことであろう。秀吉さえいなくなれば、豊臣家にそれほどの忠誠心はない。
信長や秀吉に仕えた尾張や三河の武士ほどの恩義もない。それが関ヶ原の合戦での士気に現れているようにも思える。毛利秀元や吉川広家、長束正家、長曽我部盛親は最後まで動かなかった。
結果、石田三成には西軍を一枚岩にできるだけの技量がなかったというのが敗因ではないか。当時の大名の力関係でいえば家康の実力はピカ一であり、なぜ自分達が三成のために戦わなければならないのかと。
先ずは関ヶ原歴史民族資料館で予備知識を得る。合戦のアウトラインを知ることが古戦場巡りの興味をアップさせてくれる。
床几(しょうぎ)場。合戦後、家康がここで各武将が取ってきた首級の首実験をしたところ。生首を見ながら、その武将の位によって褒美が決まったわけで、成果によっては何十万石という一国の城が貰えるわけである。
余談ではあるが、他人の取った首を拾ってきて差し出す輩もいるわけで、笹の才蔵と呼ばれた可児才蔵は取った首の口へ目印の笹を入れていたという。
東首塚。この戦いに参戦したのは15万人、命を落とした者は8千人とか。首実検の済んだ後は東と西の首塚に埋葬されたという。その横を通る国鉄東海道線の工事の時には多くの頭蓋骨が出てきたという。ここは井伊直政と松平忠吉の陣跡でもある。
井伊直政陣跡。本多忠勝、榊原康政、酒井忠次との4人を徳川四天王という。鎧具足から旗指し物など全てを赤一色にした井伊の赤揃えは有名である。のち、井伊家は彦根三十五万石となり、近年には彦根市長も務めるという名家でもある。
桃配山。関ヶ原の変より溯ること900年、ここは壬申の乱の舞台でもあった。その戦いに勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が、ここで地元民からプレゼントされた桃を配下の兵士達に配って士気を上げたという。後に勝利し、その古事にあやかって家康が桃配山に陣を構えたのであろう。この高台から眺める笹尾山は手に取れるような位置であることを実感した。
本多忠勝陣跡。民家の路地を入った位置にその碑はあった。徳川四天王の一人で、その後、桑名十万石を拝領する。桑名城の北に立派な銅像が建ってたのを覚えている。
島津豊久。西軍の敗色が濃くなり、敵陣突破を果たして牧田方面へ敗走した島津義弘隊は、本多忠勝や井伊直政の軍勢に烏頭坂で追いつかれ、ここで甥にあたる豊久は惟新(義弘)と名乗って敵と戦い、討ち死にをする。その後、義弘は薩摩まで無事に逃げ帰る。
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