大学通りの桜の木葉桜も美しい
玄関先に咲いたたんぽぽ本格的な春の訪れを告げているよう
今日は、近くの国立市立第1中学校の入学式に行ってきました。
びっくりしたのは、子供たちの数は微減なのに、
今の3年生が161人、2年生が134人、今回の入学生が115人とここ3年で、毎年入学者が減っていること。
控室でも公立でなく、私学に行く人が増えていることが話題となった。公立学校のトイレなどの施設整備が遅れていることなど、今の公立学校が魅力的に映らないのか…文教都市の中でも1中は歴史ある学校だと先生方も誇りある話をされていたが、もっと教育に税金を使ってほしいと思いました。
昨年まで副校長だった山上校長先生のお話、ご自身の大学時代のサッカー部での体験に基づいたお話で、心に響きました。
大学に入学したら、寄宿舎に入り、1年生は奴隷、2年生は人間、3年生は王様、4年生は神様で、奴隷時は、先輩に使い走りなど、朝から夜までこき使われて大変な思いをした。その中で、カエルと呼ばれてた同級生だけは、さぼりつつ、うまく先輩に取り入って、こき使われなかったと。
自分が3年生になった時、こんな辛いことは、1年生にさせられない、とこき使うのはやめようと呼びかけた。その中で、カエルだけが、1年生をこき使っていたが、悪しき風習はやめようという中で、カエルは、だんだんみんなから相手にされなくなった。
そして、良くない風習や、やり方を、改革する力、矛盾を感じたら、それを改革することの大切さを学んだ、という趣旨のお話でした。記憶に基づいてて書いたので、細かい所はちょっと微妙に違うかもですが、
問題や矛盾を感じたら、改革できる人になろうよという心の声が聞こえてきました。
そして、学校生活や家庭生活など、問題にぶつかり、自分たちだけて、解決できない問題にぶつかったら、
市には「こどもオンブズマン」の制度があるので、なんでも相談してくださいという話もされました。これも大切です!
もう一つ、心に残った言葉は、第3小学校の元校長先生である根本先生の祝電
「小さなことを真心を込めて行うことは偉大なことなのです マザーテレサ」
人の命は平等であるし、人権もみな同じ。だけど、いわゆ伝統的な日本社会は縦関係が基本で、人権感覚が弱い気がします。
先日のブログで書いた「ふわふわ言葉」について、ずっと考えていて、気になる点が一つだけあった。
ふわふわ言葉を単なるコミュニケーションの技術論で考えると、当たり障りない人間関係がよい、お互い気持ちいい言葉だけで表面的なお付き合いを
ということになりかねないかなということをふと思った。
今の若い人の人間関係が、お互い同調しあうことが大切で異論を唱えられない、つまり、軽い話しかできない雰囲気があるという記事を読んだことがあるし、
息子と話しても、仲間内でも、お互い政治の話とかはしないし、深い話は、避ける傾向があると言ってた。
人間関係について、みんな一人ひとり、感じ方も考え方もものの見方も違う、違っているのが当たり前。
でも、ふわふわ言葉を、お互いの人権を大切にするという視点で考えると、やはり大切だと思う。
みんな違ってみんないい、という言葉の根本にあるのは、一人ひとり、すべての人に人権がある、その人権を大切にするという事。
だから、ふわふわ言葉が大切で、チクチク言葉は使わない、というのは人権という視点で基本だと思う。
人として、お互いの違いを認め、お互いをリスペクトすることで始めて、深い話、真の対話、そして議論ができるようになると思う。
これは、夫婦関係でも親子関係でも、社会の中での様々な関係でもいえることだと思う。
日本人はディベートが苦手というが、人として、真にフラットで対等に議論をするという環境がないからかもしれない。
お互いをリスペクトすることから、本当の議論を深めることができるし、違う意見をお互いにかわす中で、解決策を見出す、お互いの思考を発展させることにつながる。
これは、組織についてもいえると思う。
違う意見を排除するのでなく、異なる意見にも耳を傾けていくことで、よりよき方向性を見出すことも可能だと思う。
その基本になるのが、お互いをリスペクトできる基本の人間関係の基礎を作るふわふわ言葉だと思う。
大人社会が、お互いをリスペクトした関係であるならば、パワハラ、セクハラなど問題とならないわけだから、
身近な自分から始めていく。小さなことだろうけど、一日一日を大切に、自分の発する言葉を意識して大切に生きていこうと思う。
だらだらと書いた文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
明日は、働き方改革についての意見書などのことを書く予定です。
玄関先に咲いたたんぽぽ本格的な春の訪れを告げているよう
今日は、近くの国立市立第1中学校の入学式に行ってきました。
びっくりしたのは、子供たちの数は微減なのに、
今の3年生が161人、2年生が134人、今回の入学生が115人とここ3年で、毎年入学者が減っていること。
控室でも公立でなく、私学に行く人が増えていることが話題となった。公立学校のトイレなどの施設整備が遅れていることなど、今の公立学校が魅力的に映らないのか…文教都市の中でも1中は歴史ある学校だと先生方も誇りある話をされていたが、もっと教育に税金を使ってほしいと思いました。
昨年まで副校長だった山上校長先生のお話、ご自身の大学時代のサッカー部での体験に基づいたお話で、心に響きました。
大学に入学したら、寄宿舎に入り、1年生は奴隷、2年生は人間、3年生は王様、4年生は神様で、奴隷時は、先輩に使い走りなど、朝から夜までこき使われて大変な思いをした。その中で、カエルと呼ばれてた同級生だけは、さぼりつつ、うまく先輩に取り入って、こき使われなかったと。
自分が3年生になった時、こんな辛いことは、1年生にさせられない、とこき使うのはやめようと呼びかけた。その中で、カエルだけが、1年生をこき使っていたが、悪しき風習はやめようという中で、カエルは、だんだんみんなから相手にされなくなった。
そして、良くない風習や、やり方を、改革する力、矛盾を感じたら、それを改革することの大切さを学んだ、という趣旨のお話でした。記憶に基づいてて書いたので、細かい所はちょっと微妙に違うかもですが、
問題や矛盾を感じたら、改革できる人になろうよという心の声が聞こえてきました。
そして、学校生活や家庭生活など、問題にぶつかり、自分たちだけて、解決できない問題にぶつかったら、
市には「こどもオンブズマン」の制度があるので、なんでも相談してくださいという話もされました。これも大切です!
もう一つ、心に残った言葉は、第3小学校の元校長先生である根本先生の祝電
「小さなことを真心を込めて行うことは偉大なことなのです マザーテレサ」
人の命は平等であるし、人権もみな同じ。だけど、いわゆ伝統的な日本社会は縦関係が基本で、人権感覚が弱い気がします。
先日のブログで書いた「ふわふわ言葉」について、ずっと考えていて、気になる点が一つだけあった。
ふわふわ言葉を単なるコミュニケーションの技術論で考えると、当たり障りない人間関係がよい、お互い気持ちいい言葉だけで表面的なお付き合いを
ということになりかねないかなということをふと思った。
今の若い人の人間関係が、お互い同調しあうことが大切で異論を唱えられない、つまり、軽い話しかできない雰囲気があるという記事を読んだことがあるし、
息子と話しても、仲間内でも、お互い政治の話とかはしないし、深い話は、避ける傾向があると言ってた。
人間関係について、みんな一人ひとり、感じ方も考え方もものの見方も違う、違っているのが当たり前。
でも、ふわふわ言葉を、お互いの人権を大切にするという視点で考えると、やはり大切だと思う。
みんな違ってみんないい、という言葉の根本にあるのは、一人ひとり、すべての人に人権がある、その人権を大切にするという事。
だから、ふわふわ言葉が大切で、チクチク言葉は使わない、というのは人権という視点で基本だと思う。
人として、お互いの違いを認め、お互いをリスペクトすることで始めて、深い話、真の対話、そして議論ができるようになると思う。
これは、夫婦関係でも親子関係でも、社会の中での様々な関係でもいえることだと思う。
日本人はディベートが苦手というが、人として、真にフラットで対等に議論をするという環境がないからかもしれない。
お互いをリスペクトすることから、本当の議論を深めることができるし、違う意見をお互いにかわす中で、解決策を見出す、お互いの思考を発展させることにつながる。
これは、組織についてもいえると思う。
違う意見を排除するのでなく、異なる意見にも耳を傾けていくことで、よりよき方向性を見出すことも可能だと思う。
その基本になるのが、お互いをリスペクトできる基本の人間関係の基礎を作るふわふわ言葉だと思う。
大人社会が、お互いをリスペクトした関係であるならば、パワハラ、セクハラなど問題とならないわけだから、
身近な自分から始めていく。小さなことだろうけど、一日一日を大切に、自分の発する言葉を意識して大切に生きていこうと思う。
だらだらと書いた文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
明日は、働き方改革についての意見書などのことを書く予定です。
ブログ内の山上校長。彼は校長になる前の普通の教師だった頃の生徒に対する体罰は酷かったです。
流血なんて当たり前で毎度生徒(主にサッカー部)を放送室に呼び出して土下座させビンタに膝蹴り日常茶飯事でした。
内容はチャリ通した等のしょうもないものばかり。
暴力を振るい何を教育したかったのかさっぱりですし、学んだ事は何もありませんでした。
ただ山上氏は身長がとても低いので、自分より弱い中学生を相手にストレスを発散させていたのは確かです。
校長になり偉そうな事言っているようですが、本人がやっていたのは王様と神様が奴隷に対してやっていた事ばかりだったのだろうなと、このブログを拝見し妙に納得しました。
なぜこんな人間が校長をやっているのか不思議でなりません。今現在、良い教師かどうかは関係ありません。校長になる器があるとは思えず、山上氏が校長を務めている中学校の生徒達、親御さんは不安に思う事でしょう。
まぁ時効案件かもしれないですが、是非可能ならば国立市議会委員として調査して頂きたいですね。