MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2031 家事とはなんと難しいものか

2021年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム


 東京都が、都内在住の男女を対象に今年6月に行った、新型コロナの感染拡大による働き方の変化と家事・育児への影響などについての調査結果を公表しています。それによれば、在宅時間が増えたことにより男性の家事・育児への関心が高まる一方で、(男性の)家事・育児などに使う時間の伸びは、女性に比べるとわずかだったということです。

 調査では、配偶者がいる男女の40%が、平日の在宅時間のうち仕事以外に使える時間が「増加した」と回答し、男性の65.5%が「家事・育児に対する理解が深まった」と答えたということです。一方、未就学児の子どもがいる男女の家事・育児関連時間を週全体平均でみると、男性は1日当たり3時間34分、女性が8時間54分で、男女差は5時間20分。19年度の前回調査と比べ女性は20分増えたが、男性はわずかに1分しか増えなかったとされています。

 出勤の見合わせやテレワークなどによって家で過ごす時間が増え、男性自身は家事・育児に理解が深まったと感じてはいるものの、実態はほとんど戦力にはなり得なかったということころでしょうか。昨年(令和2年)のトレンドワードに『コロナ離婚』というものがありましたが、ステイホームで夫婦が一緒に過ごす時間が増えたために、今までは見えなかった夫婦の価値観のずれが浮き彫りになり、離婚に至るケースなども確かにあったと聞きます。

 やりたい(もしくは「やっている」)気持ちはあっても、なんとなく上手くいかない家庭における家事の分担について、10月17日の日本経済新聞(日曜版)に、芥川賞作家の円城塔(えんじょう・とう)氏が「家事と愛とすれ違い」と題する一文を寄せているのが目に留まりました。

 ひとりの家事は単純である。それは、人間がひとり生きているというだけの話であれば、ゴミがどこに落ちていようが、新聞紙を皿にしようが、布団に穴があいていようが、ひとりきりの問題にすぎないからだと円城氏はこのコラムに綴っています。しかし、誰かとの暮らしとなると途端にややこしくなり、そこには俄然、面白さが生まれてくるというのが氏の認識です。

 まずは、家事をやる方やらない方という別が生じる。気づいた方がやるということにすると、たいていは一方ばかりがやることになると氏は言います。それは、(多くの場合)やらない方に悪気があるというわけではなくて、気づかなかっただけということもある。廊下にゴミが落ちていた、テッシュの空き箱が放置されていた、野菜室に古い野菜が残されているといった事柄は、要は何が気になるかの話だということです。

 気にならない人というのは、たとえ、燃えるゴミの日の朝、廊下に袋詰めされたゴミ袋が置かれていても、普通は何も気にはならない。ああ、ゴミ袋があるな、と思うことがあるかさえもが怪しく、いつも通りにただ横を通りすぎるだけだと氏はしています。そこに悪気はないのだから、「ルールを決めればよい」という解決策もあるだろう。しかし、実際に何か決めごとを作ろうとすると、これは想像よりも難しいというのが氏の見解です。

 まず、人によって「常識」が異っていたりする。例えば、調味料のふたはどれくらいきちんと閉めるものなのか。玄関の靴はどう並べるか。風呂掃除の頻度はといったものの捉え方には人によって結構幅がある。ある人には「だいたいできているのと同じ」ものが、別の人にとっては「全然できていない」ものであったりする。ルールをつくる手間も馬鹿にならないということです。

 例えば、「使い終わった食器は水につけておく」というルールが定められたとする。「家事のできない人」というのはこうしたときに、しばしば木製の食器なども水につけっぱなしにしてしまうものだと氏は言います。家事ができない人とは、つまりそういう人のこと。逆に、こうしたルールを守れる人というのは、あらかじめ食器を材質別に洗いわけられるような人であり、そもそもすぐに食器を洗うことだってできる人だということです。

 色々なことが気にならない人に何かを気づいてもらうことは、実際、かなり難しいと氏はここで指摘しています。出したものは元の場所に戻すという作業だって、実は高度なものである。当たり前だが、どこから出したのかを覚えておく必要があるし、見つけることができたとしても戻せるとは限らない。ひとり暮らしであったなら、自分が置きそうなところは限られるので自然となんとかなるのだが、ふたり以上となるとそうはいかない。しまいには、一方が他方の置きそうな場所を覚えるということになったりするということです。

 笑い話ではないが、「家事のできない人」はよく「何か手伝うことはないか」と訊くと、氏はこの一文に記しています。
 たとえ部屋のすみに髪の毛が集まっており、ゴミ箱はあふれ、食卓の上には郵便物が散乱していて、たたまれていない段ボールの横に立っていても彼らはそう尋ねるだろう。そこに悪気はないし、むしろ役に立とうと(彼らなりに)頑張っているのだということです。

 しかし、もしもそこに残念なところがあるとするならば、家事は「役に立とう」と思い立ってやるものでも、「手伝う」ものでもないことに気づけないこと。家事とは、そこにいる人間が日常的に365日、相手との生活を継続していくためにやっていくものだということです。

 そういう意味で言えば、「今日スーパーで面白い食材を見かけたから買ってきた」は家事としてはまだ完結していない。せめて、その謎の食材を自分で料理して皿に盛るまでがセットになると氏はしています。「今日は相手の負担を減らすために外食にしよう」と思いついたのが夕方ならば、すでに夕食の組み立ては終わっている公算が高く、それを取り消す手間が生じる。自分が何かをしたことによりかえって相手の負担が増えた場合、(たとえ「良かれ」と思ってやったことでも)家事としてのポイントは下がるし「いっそなにもしないでほしい」となりかねないということです。

 さて、ここに至ると、家事をやる方、やらない方、相互の距離はさらに広がることになるというのが円城氏が最後に指摘するところです。家事とは実は、あなたが相手と暮らしていくために生じる現象であり、それ故(二人が)離れてしまえば(それで)消えてなくなる程度の儚いもの。だからこそ、(それが時に盛大な「すれ違い」を生むところまでを含めて)家事は愛しさと強く結びついているとこのコラムを結ぶ円城氏の指摘を、私も不思議と温かく受け止めたところです。



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