行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

仏説 父母恩重経

2010年07月23日 | 禅の心
父母恩重経は、中国でできたお経ではないかと言われています。私たちが、この世に生まれてきた不思議さと有り難さがわかるお経です。このお経はまさに感謝の2文字に尽きます。
《1》このとき、仏、すなわち法を説いて曰(のたま)わく。
 一切の善男子(ぜんなんし)・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。その故は、人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり。父にあらされば生まれず、母にあらざれば育たず。これをもって、気を父の胤(たね)に受け、形を母の胎(たい)に託す。

《2》 この因縁(いんねん)をもってのゆえに、悲母の子を思うこと、世間に比(たぐ)いあることなく、その恩、未形(みぎょう)におよべり。はじめ胎(たい)に受けしより、十月(とつき)を経るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)、ともにもろもろの苦悩を受く。苦悩休(や)むときなきがゆえに、常に好める飲食(おんじき)・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず、ただ一心に安く産まんことを思う。

《3》 月満ち、日足りて、生産(しょうさん)のときいたれば、業風(ごうふう)吹きて、これを促(うなが)し、骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、その苦しみ耐えがたし。父も身心戦(おのの)き恐れて、母と子とを憂念(ゆうねん)し、諸親眷属(しょしんけんぞく)みな悉(ことごと)く苦悩す。すでに生まれて、草上(そうじょう)に墜(お)つれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女(ひんにょ)の如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし。その子、声を発すれば母も初めて、この世に生まれいでたるが如し。

《4》 それよりこのかた、母の懐(ふところ)を寝床(ねどこ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳(ちち)を食物となし、母の情(なさけ)を性名(いのち)となす。飢えたるとき、食を求むるに、母にあらざれば喰らわず。渇(かわ)けるとき、飲み物を求めるに、母にあらざれば喰らわず、渇けるとき、着物を加えるに、母にあらざれば着ず。暑きとき、衣(きもの)を脱(と)るに、母にあらざれば脱(ぬ)がず。母、飢えにあたるときも、含めるを吐(は)きて、子に喰らわしめ、母、寒さに苦しむときも、着たるを脱ぎて、子に被(かぶ)らす。

《5》 母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。その揺籃(ゆりかご)を離れるにおよべば、十指(じゅつし)の爪の中に、子の不浄を食らう。計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十解(こく)となす。父母の恩重きこと、天のきわまりなき如し。

《6》 母、東西の隣里(りんり)に傭(やと)われて、あるいは水汲み、あるいは火焚(ひた)き、あるいは臼つき、あるいは臼挽(ひ)き、種々のことに服従して、家に帰るのとき、未だ至らざるに、今やわが児(こ)、わが家(いえ)に泣き叫びて、われを恋い慕(した)わんと思い起こせば、胸さわぎ、心驚き、ふたつの乳流れいでて、忍びたうることあたわず。すなわち、去りて家に帰る。


全体的に平易な文章ですが、特に、第《3》段落目を現代語訳してみると、次のようになります。

母は、受胎して十月(とつき)のあいだ、日常の、歩く、坐る、寝るなど生活すべてに苦痛を受ける。その苦痛はつねにやむことがなく、好きな食物や衣服を得ても楽しむこともなく、ただ一心に、無事に出産することを祈るのみである。
 月日がすぎ、出産の時には、陣痛の嵐が吹き、身体の骨節(ほねぶし)がことごとく痛み、汗と油がともに流れて、その苦しみは堪えがたいものである。
 父も、心身おののきおそれ、母と子の無事を祈る。親族その他の者も、皆ことごとく無事を祈るのである。
 そして、子は産まれれば、父母(ちちはは)の喜びの限りなきことは、
貧女(ひんによ)が高価な宝物、如意宝珠(にょいほうじゅ)を得たような喜びである。子が声を発すれば、母も自分がこの世に生まれたかのように喜ぶのである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする