見る処(ところ)花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし
松尾芭蕉の句です。
登山を始めたばかりの頃は、富士山に登ってみたい、北アルプスを歩いてみたい、有名な山にどんどん登ってみたいと思ったものです。しかし、山歩きの楽しさがわかると、低い山でも、地元の里山でも、それなりの楽しさがあることがわかってきました。富士山だけが山ではない。有名な山だけが山ではない。富士山でも、近所の低山でも同じ山ではないかとみることができるのが、芭蕉のいう「花にあらずといふことなし」ということなのかな。と思います。
悟りとは、「差取り」すなはち、自分の主観によって価値をつけないこと。富士山でも北アルプスでも、家の裏山でも、同じように真実の声が聞こえてくることが悟りなのです。
花でもそうです。立派なボタンの花でも、桜の花でも、野に咲く小さな花でもみんな一緒だと思えることが、日本人の心の、侘びとか寂というものなのです。
松尾芭蕉の句です。
登山を始めたばかりの頃は、富士山に登ってみたい、北アルプスを歩いてみたい、有名な山にどんどん登ってみたいと思ったものです。しかし、山歩きの楽しさがわかると、低い山でも、地元の里山でも、それなりの楽しさがあることがわかってきました。富士山だけが山ではない。有名な山だけが山ではない。富士山でも、近所の低山でも同じ山ではないかとみることができるのが、芭蕉のいう「花にあらずといふことなし」ということなのかな。と思います。
悟りとは、「差取り」すなはち、自分の主観によって価値をつけないこと。富士山でも北アルプスでも、家の裏山でも、同じように真実の声が聞こえてくることが悟りなのです。
花でもそうです。立派なボタンの花でも、桜の花でも、野に咲く小さな花でもみんな一緒だと思えることが、日本人の心の、侘びとか寂というものなのです。