行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

猿沢の池

2013年02月05日 | 禅の心
手を打てば 鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池

奈良の興福寺のたもとにある猿沢の池の光景をよんだうたです。

 手をパンパンとたたくと、鳥は驚いて逃げるし、鯉は餌をもらえると思って近寄り、女中さんは、お客さんが来て、呼んでいると思ってお茶を持って出てくるという光景です。唯識では、同じことでもそれを受け止める人によって、違った解釈をすると考えます。手をたたいて、鳥が逃げるのも、鯉が寄ってくるのも、女中さんがお茶を持ってくるのも、どれも真実であって、正解であるのです。現代人の悪い癖は、一つのことがらに答えが一つしかないと考えてしまうことです。確かに、答えが一つしかないものもあります。自分の見方と違う意見にも耳を傾けてみることも大事なのです。
原子力発電所の再稼働に賛成か反対か、消費税の増税に賛成か反対かというようなことは、人のそれぞれの立場によって違ってきます。答えがないのです。あるいはどれも正解なのです。しかし、宗教の世界には、真理はあります。しかしそれは簡単にはわかりません。それを自分の考え方が絶対に正しいとみんなが言い合うから争いになるのです。
 猿沢の池の「猿沢」とは、「去る差和」ということなのです。生死、美醜、善悪などの差別的な見方から去りなさい、離れなさいということです。差別的な見方から離れたとことに真実の姿が見えてくるのです。
手をたたいた人は、何かをしたくて手をたたいたのでしょう。真実は一つです。鯉を呼んだのか、あるいは、女中さんを呼んだのか、それとも、目の前に飛んできた蚊をたたいたのかもしれません。それを、「あの人は女中さんを呼んだに違いない」と、とらわれてしまうと、真実の姿は見えてきません。猿沢は、とらわれた心から離れなさいということなのです。
とらわれたり、こだわったり、かたよったりすることが、苦しみの根源だというのが仏教思想の根本の部分なのです。

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