自力作善の人はひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
自分の能力を過信し、善行を行っている(と思っている人)は、阿弥陀仏の他力を一途に頼む心がないから、阿弥陀仏の本願から外れている人である。しかし、自分の力を過信する心を、阿弥陀仏の他力を頼る心に転ずるならば、浄土に往生することができるのである。
親鸞のいう、「自力」と「他力」という言葉は、「自分でなんでも」や「他人まかせ」とは、全く次元を異にします。「他力」とは、「一切の衆生を救わずにはおかないという阿弥陀仏の誓願」そのものなのです。「自力」は体得しようとする仏心が自分の中にあると信じて修行するもので、禅がそれにあたります。「他力」は、仏心は外から与えられるもので、浄土門の場合、阿弥陀仏が与えて下さるのです。
温泉津の妙好人、浅原才市のうたに、
みだ(弥陀)のじょうぶつ(成仏) わしがじょうぶつ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
が、あります。阿弥陀様と自分は一つであって、別のものではないという心情がうたいあげられています。こう考えてみますと、「自力」=自分と「他力」=阿弥陀様は別のものではないことがわかります。
次に、「自力作善」についてですが、「自分の力で、良いことをやっているのだ」という驕りの気持ちが自力作善なのです。良いことはさりげなく、目立たないようにやるのが「陰徳」ということです。「陰徳積まば、陽報あり」で、良いことをさりげなくすることを仏様はすすめています。ここで注意しなければならないのは、法然上人や親鸞聖人は、「他力」がよくて「自力」が悪いと行っているのではなく、「自力」でおごり高ぶることがよくないと言っているのです。「他力」とは、お陰様で良いことができますという、謙虚な心なのです。
表彰されたり、誉めてもたうために良いことを行うのではなく、良いことをせずにいられないから良いことをするのだというのが宗教心というものなのです。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
自分の能力を過信し、善行を行っている(と思っている人)は、阿弥陀仏の他力を一途に頼む心がないから、阿弥陀仏の本願から外れている人である。しかし、自分の力を過信する心を、阿弥陀仏の他力を頼る心に転ずるならば、浄土に往生することができるのである。
親鸞のいう、「自力」と「他力」という言葉は、「自分でなんでも」や「他人まかせ」とは、全く次元を異にします。「他力」とは、「一切の衆生を救わずにはおかないという阿弥陀仏の誓願」そのものなのです。「自力」は体得しようとする仏心が自分の中にあると信じて修行するもので、禅がそれにあたります。「他力」は、仏心は外から与えられるもので、浄土門の場合、阿弥陀仏が与えて下さるのです。
温泉津の妙好人、浅原才市のうたに、
みだ(弥陀)のじょうぶつ(成仏) わしがじょうぶつ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
が、あります。阿弥陀様と自分は一つであって、別のものではないという心情がうたいあげられています。こう考えてみますと、「自力」=自分と「他力」=阿弥陀様は別のものではないことがわかります。
次に、「自力作善」についてですが、「自分の力で、良いことをやっているのだ」という驕りの気持ちが自力作善なのです。良いことはさりげなく、目立たないようにやるのが「陰徳」ということです。「陰徳積まば、陽報あり」で、良いことをさりげなくすることを仏様はすすめています。ここで注意しなければならないのは、法然上人や親鸞聖人は、「他力」がよくて「自力」が悪いと行っているのではなく、「自力」でおごり高ぶることがよくないと言っているのです。「他力」とは、お陰様で良いことができますという、謙虚な心なのです。
表彰されたり、誉めてもたうために良いことを行うのではなく、良いことをせずにいられないから良いことをするのだというのが宗教心というものなのです。